出産の立会いは、何かをするためにするのではない。そばにいて産むことの壮絶さを目の当たりにし、無力さを噛み締め、誕生の瞬間を共に喜び、親になるためのスタートラインに立つために立ち会うのだと思う。
たまーに、娘が産まれたときのことを思い出します。
わが家は助産院での出産で、夫の立ち会いも大丈夫だったし、妻も立ち会いOKだったのでドキドキしながら立ち会いました。
先日、あるプレパパさんから「立ち会いはしない予定です」という話を聞きました。「立ち会っても、なにもできることないですから」と。
もちろん、ママさんが立ち会いを拒否する場合はあると思う。産院側で同室禁止のところもある。だけど、そうでなければぼくは立ち会いはぜひするべきだと思っている。
無力でいい
「立ち会いしても、なんにもすることなかったです」と苦笑いするパパさんはいます。そりゃそうで、自分が産むわけでもなければ赤ちゃんを取り上げるわけでもないんだから、背中さするか汗拭くか、応援するくらいしかできることなんてない。
でも、それでいいと思うんです。
育児において、親ができることってとても限られている。
こっちの思い通りになんてならないし、子どもは予想不可能な行動や成長をしていきます。
「自宅から、電車に乗って都心のデパートに行くのってこんなにムリゲーだったっけ?」
「普通に夫婦で会話するだけのことが、こんなにできなかったっけ?」
「ごはんを味わって食べるって、ゆっくり座って食べるって、たったそれだけのことこんなにできないの??」
育児は自分の無力感と、子どもの成長の喜びとの壮絶なぶつかり合い。
だから、子どもが産まれるその瞬間。
一度自分の無力感を心の奥底から噛み締めて、これまでの自分をアンイストールして子育てモードへと切り替えるのって大事だと思うんです。
この無力感をスタート地点に、少しずつできることや楽しいことが増えていくのを楽しむのって、いいもんです。
出産の時間と空間を共有する
たとえば雄大な景色を写真で見るのと、現場で見るのとでは感じ方がまったく違う。
TVで試合を見るのと、スタジアムで見るのも。
DVDでライブを見るのと、ライブ会場で見るのも違う。
現場で見るということは体感することであり、その場の空気を共有するということだ。
360度の視界があり、においがあり、音があり、感触がある。こうした臨場感はその場でしか感じることができない。
時間も同じで、女性は何時間、何十時間も痛みと戦っている。男性はその痛みを体感することはできないけど、その時間をともに過ごすことで辛さに共感することはできる。
つまり、男性は赤ちゃんを産むことはしないけれど、妻とともに出産の感動を分かち合うことはできるのだ。
個人的には、この立ち会いの体験は妻と娘への愛情を3割増しくらいに高めてくれているんじゃないかと思うくらいだ。
産まれたばかりの娘と妻が、へその緒で文字通り一心同体につながっている姿はリアルで動物的だったのに、とても神々しかった。
立ち会いは、親へのスタートラインになりえる
もちろん立ち会いをしなくたって、親にはなっていく。
立ち会いじゃなくたって、わが子をはじめて見て抱いた瞬間の感動は忘れられないはず。
だから、立ち会いだけがスタートラインというわけではないのだけど、それでもとてもわかりやすい親になる瞬間だと思う。
父親スイッチはがなかなか入らないというパパもいる。だけど父親スイッチは自然と入るものじゃなくて、自分で「エイ!」と意図的に入れるものだと思う。
そのスイッチの入れ時としては、出産を立ち会うというのはベストなんじゃないかと感じるんです。
もし、いろんな事情が幸いにも噛み合って、立ち会いができるというのなら、ぜひプレパパさんには立ち会い出産をおすすめしたいと思います。
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今日も、見に来てくれてありがとうございました。
立ち会いの日のことはとても鮮明に覚えていて、ぼくにとっては父親としての原点になっている気がします。
ぜひ、明日もまた見に来て下さい。
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