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ディレクション日記『君たちはどう読ますか』良いナレーションを導くために。

けっこう前のことですが、過去にごりっぱスタジオで下記の出来事がありました。

ある地方の映像制作からのご依頼で、ごりっぱスタジオでリモート収録つまり収録代行をしていたとき。

ほんの少しだけですが、ディレクターとプレイヤーの間の意志の疎通にズレがあったのです。

ナレーターとしていらしたのは、ある芸術家で、仮に乃木坂さんと名付けます。アート界では超売れっ子の方です。(誤解を避けるために設定等すべて架空のものにします)
ナレーションとの関わりは、呼んでくれるんでしたらスケジュール空いてれば行きたいけど、研究したり学んだりまではしたことはないのかな?という印象でした(本業は誰よりも研究し努力されているので、ナレーションは知らなくて当然です)

ちなみに先に結果を書いておくと、1時間くらいの作品の中の、数シーンだけのことです。作品全体としては乃木坂さんの圧巻の表現力と声で、ディレクター的にも大大大満足の仕上がりでした。僕も聞き惚れましたし、昔も今もその乃木坂さんの大ファンです。

ただ、パフォーマーと制作者(演出者)のどちらも20年やってきて、さらに教育もしている僕としては「う〜悪くないけどなんかすごくもったいない気がする!あの良い読みに!さらに良い”読み方”が加わればもっともっと作品が良くなったのに‥‥!」という気持ちになりました。

パフォーマー側も、ディレクターに何が起きてるのかもっと知ってほしい。
ディレクターにも、パフォーマーとはどんな生き物なのか、もっと知ってほしい。
そう思ってディレクション日記に取り上げたく思いました。


作品は、ある人物のルポルタージュ作品でした。ズレが起きたのは、下記のような場面。

まずアバン。作品の世界観とテーマを示す、強い絵と速いカット変わり、勢いのあるナレーションとBGMで、タイトルCGでカットアウト。
白パカあけ、空からパンダウンして遠景。ゆったりしたナレーションで場所や状況を説明。
カット代わり。映像は雑踏の中をどこかに向かって歩くインタビューイー。「日常の切り取り感」って感じ。顔のズームでナレーションはインタビューイーの社会的な立場の説明。
目的地。建物の看板ナメつつ、部屋に入っていくインタビューイーをドリー。ナレーションは訪問先の解説。
迎える人々のリアクションと「インタビューイーの置かれている状況」を示す映像。

この後のシーケンスは「インタビューイーがこのごろ感じている課題」をみせ、さらに「一旦生い立ちの振り返り」になる、そんな流れです。

よく言えばむちゃくちゃ視聴者に親切で丁寧。悪く言えばテンプレート通りの編集だと思います(ちなみに僕はこうしたスタンダードな構成も大好きです)

さて件のシーンを収録し、良い感じで進んでいたナレーション収録の後半。ふとディレクターが言いました。

D『この部分(課題に触れるパートや生い立ち)のナレーション、情緒たっぷりで素晴らしかったです〜。
なので、その前の段落の、アバン明けのあたりのナレーション、さっきはややドライな雰囲気で読んでいただいていただいてそれはそれで素晴らしいんですけど、もし別の表現あったらさらに良くなるかとも感じました〜。もう少し変えて読んだら、どんな表現あります?』。

ちなみに収録で同席していた僕も、Dに大賛成でした。もし僕に意見を求められたらリテイクを意見具申するべく原稿にメモしていたくらいです。

乃木坂さんの返事はこうでした。

乃木坂さん『???そのパートは説明ですよね?ん?変えるとは??』

D『何がしかのニュアンスというか、なにかのせていただけるようでしたら‥‥』

乃木坂さん『う〜ん、でも…ここってただ説明文ですものね〜?う〜ん、載せるべき感情もないですし……』

D『えーっと、あーっと‥‥うん、そうですね……んーと、まあ、オケですオケです!次行きましょっか!』

乃木坂さんの読みが全体的には良いもんですから、Dはすぐに話題を変えてしまいました。

僕も一瞬迷ったのですが、Dも乃木坂さんも何も思ってないのに僕なんかが出しゃばるのも‥‥と最後まで黙っていました。


この時、ディレクターが要求しているのは“ナレーション独自のセオリー”です。

そのセオリーを字にしてしまうと深みがまるでなくみえるとは思いますが、無理を承知で書きますと例えば
「原稿に書いてある叙情は原稿に書いてあるので多くの場合ナレーションで無理に色をつけなくて良い場合が多い」
「むしろ、原稿には叙事しか書いてない時や、”明けて、翌日”や、”しかし”や、”それで”など、言葉そのものには特に何もないけれども、その言葉のシーンの前後を受け渡す狂言回しの際、作品に色を載せてほしい場合が多い」

などのセオリーのことです。

だからと言って予定調和とは似て非なるものです。ここがパフォーマーの感覚としてはさらにややこしいところなのですが‥‥


さて。
ディレクターがディレクションとして使ったワードは「ニュアンスというか」。

この場合の“ニュアンス“は、ちょっと伝わりにくいだろうなと思います。専業ナレーター以外の音声表現者は「感情を乗せろって言ってるのかな?」と考えてもやむをえません。

この場合のニュアンスはまさにニュアンス。そのニュアンスとは、読み手でありながら作り手側の視点や感覚を同時に感じていないとわからない”視聴者にとって必要なニュアンス”なのだと思います。

一方で、同じ音声系の表現者であっても、声優、テレビドラマの俳優、芸人、歌手、などの多くの方には「むしろやってはいけない表現」という感覚がある人が多いのだろうなと思います

例えば声優さんの場合。僕の20年のディレクション&教育経験を思い返しても、ほとんどのプロが一度は苦しんでらっしゃいました。
なぜかという、かなり乱暴にいうと「台本を先読みして、あらかじめ決められた展開になるようにコントロールして感情表現しろ」と言われているようなものだからです。それはタブーに近づくことです。仮にパフォーマー本人が良いと思っていても音響監督や先輩強いNGが出るそうです。
何年も訓練して避けるようにしてきたところに向かわなきゃいけない作業。頭と心がなかなかうまくつながらないそうです。


乃木坂さんの表現は演劇的な構築です。主観的に、自分の心に起きた感情を表に表します。シンプルにいうと、狂言回しではなく、あくまでもう一人の出役として表現なさってるという感じです。ですから作品全体を把握しながら押し引きをする演出家の目、悪く言えば原稿を先読みしたプレイは、乃木坂さんには発想の段階で選択肢に上がってないのだと思います。

そして余談ですが‥‥
仮にその場で”セオリー”について説明しても、乃木坂さんは「その日にプレイしてみせる」までは行かなかっただろうと思います。僕の20年のディレクション経験では、説明したとしても『頭ではわかるけどどうしたらいいかわからない』の迷宮に入ってしまうだろうな、と思います。(ですからDがあまりこだわらずにすぐ切り替えたのは正しかったと思います。結果論ではありますけど)

演技的な”主観の感情表現”と、司会や落語・講談・怪談のような狂言回しとしての『話の構成全体を把握して客観と主観を自由に切り替えつつ適切に盛り上げていく感情表現』。それはとにかく似てるけど全然別の構築です。それぞれの考え方、感じ方、訓練が必要です。
どちらが良いとか悪いとかではありません。ただただ、日本語と英語くらい違うものだということ。

ディレクターにもさまざまな構築があるように、表現者にも、さまざまな構築があるのです。


上記は字だけで書くとわかりづらいのですが、このすれ違い、近年のナレーションで現場でよく起こっているのではないでしょうか。
頻発しているわりに、多くの人がみなかったことにして通り過ぎているのではないでしょうか。

それは勿体無い‥‥。
すごく‥‥勿体無い‥‥。
と僕は思ってしまいます。

パフォーマーの視野があと1ミリ広かったら。
ディレクターがパフォーマーに共感できる言語をあと数単語持ってたら‥‥

そんなわけで、次回、演出の手がかりとなる「パフォーマーのタイプ論」を書いてみたいとは思っています。


目次は下記です



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