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身体拘束を受けた身として「心が痛まないですか?」にイラッとする

昨日noteに書いた、東京新聞の身体拘束をめぐる精神科病院協会会長のインタビュー記事について思うこと(以下にリンクを貼り付け)について、まだまだぼろぼろ思い出して気が済まないことがあったので、ここに追記したいと思います。

率直に、身体拘束について、「心が痛まないのですか?」という記者の質問について、わたしは、身体拘束を受けた身としても、同じ記者だった身としても、そういう質問をされる従事者の立場としても、いろんな立場から、かなりイラッときた。

だけど、そういう、当たり前というか、良心が痛まないのか的な心に投げかける、わかっているけどあえての質問というのを、記者はしなければいけないことがある。

自分が記者をしていたときは、たとえば知事の記者会見の場では、「自分が質問しているうしろに県民(読者)がいると思え」と言われたり、事件の周辺住民への聞き込みでも「その真相を知りたいと思う読者(視聴者)の代表として聞いているという思いを持て」だったり、

レポートをマイクを持って、カメラに向かってするときは、「そのカメラの奥に、何千何万の視聴者がいることを意識しろ」などと言われた。

特に専門家の取材相手から「勉強不足だ」などと言ってやる気を削ごうとされたり、議論をふっかけられて論点を逸らしたり質問をはぐらかされそうになる場面で、そう意識することで、

わたしは、取材相手との個人的な駆け引きや議論だったり、自分の好奇心を満たしたり研究のために自分は質問しているのではなく、本来の記者という役割の意味を意識して、冷静な判断が飲み込まれそうになる現場でも本来の役割に立ち返ることができた。

それに、それらの先輩たちから学んだ意識づけは、当たり前のようだけれど、ともすれば人間だから、個人の好奇心だったり怒りだったりあらゆる問題意識の原動力と紙一重のぎりぎりになることも多々あるから、最後の最後で忘れちゃいけないブレーキのように思えた。

さいきんは、取材プロセスまで一般の人に透明化して伝わることも増えているから、そのへんのメディアのモラルは、以前と比べて、落ち着いてきているようにも見えるし、だいぶ抑制的になってしまったと見ることもできる。

なので、まず、記者だった立場からいえば、「心が痛まないのですか?」という質問については、一定の理解ができる。

わかってて質問することもあるし、そこに個人の疑問もあって、それがマス(大衆)の疑問ともグラデーションで重なる場合、この質問はとても意味がある。

それくらい理解はできている、だけど、イラッとくる、というのが今回の話である。

前回のnoteでわたしが書いたように、身体拘束を受けた自分としては、そういう屈託のない、たとえが適切かはわからないけれど、まったくその場のヘドロに浸かって汚れたこともない身が発する、そういう純粋無垢さをまとった言葉が、とても傷つく。

自分は、前回のnoteで書いたような経験もあったことがおそらくきっかけになって、精神保健福祉士の養成校にも通ったことがあるけれど、毎回、養成校のグループワークの授業で発せられる、そういう一方的な哀れみのような生徒たちの目線だったりがベースにある空気感に耐えられなくて、途中で退学してしまった。

グループワークではいつも、精神病患者が暴行されたりとかする事件の事例などを受けて、「それで従事者は心が痛まないのですか?」ということを、みんなで話し合う。

最後に先生が、「ここで感じた、みなさんで結論を出した『心が痛む』という人として当たり前の気持ちを、みなさんが精神保健福祉士となって、日常に忙殺されているなかでも思い出して、忘れないようにしましょうね」といって、締め括って授業が終わる。

人としてみんな思っているけれど、それでもこういう現状を作ってきたのも人だから、そんななか、これからどうするか?という話なのに、そこで止まったままなのを、養成校ですら加担して現状維持を容認するのだ。

その止まったままな象徴が、あの精神科病院協会会長のインタビューの現状そのものなのに。そんな人材をこれ以上輩出してどうなるんだろうとまじめに思ってしまうのだった。

わたしは、養成校では、当事者経験があろうがなかろうが、学びたい気持ちがあるから入学したし、学ぶことだけにシンプルに徹しようと思っていたけれど、直接わたしに誰かが危害を与えたりいじわるしたりしたわけではないけれど、

だけど、彼らの、精神病院に入るような頭のおかしくなる人は、どこか自分とは関係ない、みたいなのとか、関係ないからこそ「心が痛まないのですか?」と真顔で心配できるのが、無邪気ゆえの隠れた差別心や偏見であって、

それが長年自分を苦しめてきたんだ、という気持ちにいきつくことに気づいたので、もうそれがわかっただけでも、この場に自分がいるだけでも苦痛なのだから、苦痛な場所にいる必要もないかな、と気づいて退学することにもした。

退学というか、もう、この社会的な立ち位置に自分がいることも諦めたし、自分はここの立ち位置ではないんだなというふうにも思ったし、少なくともわたしはこういうような立ち位置で、なにかものを見ることはできないだろうし、したくもないし、

ここではない、どこかはわからないけれど、別のどこかで、もっと居心地の良い場所で、自分が自分として普通にしていられる場所で生きようと、後ろ向きにでもなく、そうフラットに思ったのだった。

こんな人たちが、最後の最後の砦として患者の人権を擁護できるはずもないと思ったし、少なくともわたしは任せたくないし、なるべく今後は世話にならないように自分で自分を守った方がずっとコスパもよいしと。

話がうねうねしてしまっているけど、記者の質問「心が痛まないんですか?」という質問について、さきほど「意義がある」と書いたわけだけど、精神保健福祉士の卵たちの学校でも、そういうふうにやっているという意味でも、大多数の一般読者というか、マスという視点においては、卵だったり当事者でないまったくのはたから見た人たちが当たり前に持つ問題意識にこたえるという意味で、意義はあるのであろう。

でも、わたしはそういう点においても、もう、そんなに、マジョリティーとされるものだったり、多くの人が知りたいことや興味や好奇心に応えられるような記者でもないんだろうなと、

これだけれはないけれど、あらゆるこういうような、知っていてわかっていて、あえての演技みたいなことも含めてすることが、たとえ役割としての演技だとしても、かろうじて合わせられていたときもあったけれど、次第にもう心を傷つけてまで、もうやりたくないんだろうなと思ったのだった。

じゃあ、業界側のマスに寄り添った質問や代弁が記者としてできるかといったら、理想論や心が痛むか痛まないかといったセンチメンタリズムだけでは通じない現場主義的な言い分や本音が少なからずあることははわかる。実際にそれは、従事するごとに大きくなっていく。

けれども、患者の人権とは水と油というか、患者の人権を差し置いてでも守りたい業界の既得権まで共感できるかといったら、そこまでには自分の性格的になれそうもないので、たとえば1億円もらってそういう記事を書いてほしいと言われても、わたしはそれもできない。

ようするに、わたしはもう、少なくとも、この問題(精神科医療)にかんしては、お金をもらったり、資格があったりしても、どんな立場からもかかわりたくないし、目にもふれたくないし、誰の言い分も聞きたくないし、距離を置いて、これからも生きていきたいのだと思う。

わたしが、この問題にかんしていえることは、いち当事者として、当事者ひとりひとりが持っている、ごくごく個人的な思いにすぎないということだ。

自分が自分で、こうやって、余裕があるときや、ふと、こうやって思い出したときとかに、文字にして刻むなりしておかないと、自分すら忘れさってしまうような、だけど、自分までそうしてしまったら耐えられないようなたぐいのもの。

だから、思い出したら、また、ここに刻みます。


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