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性の目覚めという原体験を抱えながら大人になってみて…

幼稚園の年中のときだった。

いつもわたしは祖母のお迎えで、幼稚園から家に帰って、「おじいちゃま(おじいちゃんじゃなくて、そういうふうふ呼ぶように家で言われていた)ただいま」と言いながら、祖父の部屋に向かうのが日課だった。

それから、おやつを食べながら、祖母と藤田まことが出ている刑事ドラマの再放送だったりキテレツなどを見たりしながら、そのうち水戸黄門が始まって、夕食を食べ始める、みたいな流れだった。

おやつは、あるときは、母が思わせぶりな態度をとるがためにブンブンと寄ってくる恋人なのかもよくわからない男たちのうちの一人が、パチンコの景品で当てた、当時流行りのびっくりマンチョコの50個セット(たぶんそのくらい?当時のわたしにはすごく大きく見えた)を毎日1枚ずつ食べたり、祖母が日中に近くのスーパーで買ってきてくれた、果汁感たっぷりのももやグレープ、オレンジなどを食べたり。

だけど、その日は、「おじいちゃま、ただいま」と玄関をあけるがいなやわたしが言っても、「おかえり」と返事がない。

それで、祖父の部屋に行ったら、祖父がいつもとちがって、なにも反応がない。

おかしい。

「おじいちゃま、帰ったよ」といって、祖父のベッドに乗ってアピールするけど、そしたら突然、祖父が上体を起こして、起こしたかと思ったら、突然バタンとベッドに倒れ、また起きて…というのを繰り返し始めた。

わたしはただただ、祖父がなにも反応がないことや、自分がいるのに、上体をバタンと倒すときに、自分が潰れそうになって危なくて痛いし、いつもの祖父とちがうということが怖くて泣いた。

わたしはいつも走って家まで帰るから、それからゆっくり歩いて帰宅して、その状況をみた祖母が、「mieちゃんは危ないから、離れてゼリーを食べてなさい」と言った。

その日はもも味だった。

そのゼリーは、ほんもののももを思わせるような舌触りと果実感とパッケージで、100円もしないものだというのに、本当においしくて、わたしのお気に入りだった。

こんなおいしいものが、なぜいま売っていないのか、いまはこんにゃく系だったり、果実系といってもゼラチン感が強くて、果実の舌触りや果実感が感じられるゼリーというのはスーパーでは見かけなくなってしまったことを残念に思う。

そんなにおいしいゼリーなのに、その日はまったくおいしく感じられなかった。味がしない、という経験を、このときした。

祖母はそのとき、かかりつけの内科に電話していて、祖父の状況を伝えたら、「先生は往診中だから、帰るまで待っててください。帰ったら電話します」と受付の人に言われて、律儀にわたしにゼリーを食べさせながら、電話が鳴るのを待っていた。

それから、45分くらいしてからだろうか、かかりつけ医から電話がかかってきて、「すぐに救急車を呼んでください」と言われて、初めて救急車を呼んだ。

(自分が大人になって、そのかかりつけ病院の対応といい、祖母の無知さにしても、なにやってんだろうと思うけれど)

だんだんサイレンの音が近づいてきて、ヘルメットを被った普段見慣れない救急隊の人が、家のなかに入っていって、祖父が運ばれていった。

わたしはゼリーをまだ食べられないでいたけど、状況がのみこめない怖さやらなにやらに泣きながら、でも一人になってしまうこともあって、ゼリーを残したまま、早く一緒に乗ってくださいと言われて乗り込んで、ものすごい速さでサイレンを鳴らしながら、救急車はどこにいくのかもわからない場所へと進んでいった。

結論からいうと、祖父は命はとりとめたものの、脳への出血が広がっており、これから手術をしたとしても手遅れで、助からなかった。だから手術はしないことになった。

出血部位が広範囲で、全身には麻痺が残って、ほぼ植物状態みたいになった。

ということで、もう病院としては施すことがない。

かといって、今後の方針などどうするかという的な時間稼ぎの入院のようなことを、していたんだと思う。

当時のわたしは、いろんな看護師や医師や同じ病室の見舞いの人で仲良くなった人など、あらゆる人に話しかけるたび、「うちのおじいちゃまって、いつ治るの?」とか「いつ退院できるの?」みたいなことを聞いたりした。

退院する人の家族には「ねえ、退院するってことは、病気治ったの?」と聞いたりした。

だけど、誰もわたしの聞いた質問に答えてくれる人はいなかった。

そうこうしながら、毎日毎日、幼稚園が終わってからバスで45分くらいかけて祖父の病院にお見舞いに通っていた半年くらいたったある日、祖父が退院をすることが決定された。

急性期からリハビリ病床的な病棟に移ったとき、祖母が「おじいちゃま、もうすぐ退院しなきゃいけないの」みたいなことをぽつりと言っていたから、なんとなくきょうがその日なんだろうなということは、感じ取ってはいたのだけど。

同時に、わたしは、このほぼ植物みたいな状態で、家に帰ってきてどうするんだろう、どうなるんだろう、というこれまでずっと感じていた疑問が、いよいよ、ますます、わいてきた。

それで、仲良く(というか誰にでも声をかけてしまう子だった)してくれた看護師さんに聞いた。

「ねえ、なにもよくならないのに退院って、どういうことなの?」と。

そしたら、「よくならないのに退院ってことも、あるのよ」という答えが返ってきた。

わたしはやっと、その答えで納得したのを覚えている。それからは、誰にもなにも言わずに、ただ現実を受け入れるのみとなった。

前置きがかなり長くなってしまったけれど、タイトルにある「わたしの性の目覚め」というのは、その時期におきた出来事である。

先述したように、祖母と毎日病院に通っていたわけだけど、祖母が祖父につきっきりに看病するなかで、必ずしもわたしも一緒にとはいかない邪魔になる場面が多々あった。

医療者の説明を聞いたり、祖母はあれこれひとりで対応していた。

それで、その間、わたしがいつもいるのは、病棟の談話室(リビングのような場所)だった。

そこは、ソファがこの字型に並んでいて、あらゆる世代の入院中の男性患者(男性病棟だった)がくつろげるようになっていて、自販機と、あと、本がたくさん並んでいた。

本、といっても、雑誌の成人エロ漫画が、その病棟には多かった。退院した患者が売店などで買って読んだものを、寄贈していったものなのだろう。

わたしは、祖母が終わるのを待つ間、そこでいつも、漫画を読んでいた。

それで、わたしは幼稚園の年中のとき、読みながら絶頂に達した。

それはあるエロ漫画を読んでいるときに起こった。

そのときのストーリーは、こうだった。

高校の男子生徒が、なぜか女性の先生の家に入ってきて、先生を探すのだけど、先生は、お昼寝をしていた。

それで、先生の服を脱がして、冷蔵庫にあるホイップクリームを、先生の乳輪から乳首にかけて、生徒はつける。

それを、生徒がおいしそうにいただく、という内容だ。

漫画的に心理描写も繊細で、なかなかすばらしかった。

わたしは、男性目線で、男性の価値観でもって、わたしは、気づいたらもう、そこにあるエロ漫画(やはり入院をしているといろいろたまってエロい内容ばかりになるのだろう)を読みながら、自分の股間に手をあて、自慰するのが日常になっていた。

わたしがお見舞いにいく時間の談話室は、患者も誰も利用者がいなくて、たまに顔見知りの医療者も通ることもあったけれど、足早に通り過ぎるくらいで、子どもがひとりで本読んでんな、くらいの感じで目にも留められない状況ではあった。

「イク」なんて言葉も概念もしらないなかで、祖母に連れられて祖父を見舞い、自分のことしか考えていなくて育児放棄して祖母に任せきりのシンママの母は、祖父は嫌いだし自業自得だしと一度も見舞いに来ないような、崩壊した家庭が誰ひとりしるよしもないなかで、わたしはひとり、イっていた。

脳がふよふよになり、「潮」というものがなんたるかを知るのもまだまだ先のことだというのに。

それがわたしの性の目覚め。

あのときの男性目線でもっての、女の先生のおっぱいに生クリームを自分が気づかないうちにデコられて、しゃぶられている感覚が、わたしの性の原体験になっている。

自分が男なのか女なのかわからなくて感覚がねじれていて、うまい説明がしにくいのだけれど、要するに、わたしは、男から見た典型的なエロい女なのだろうと思う。

男目線にどっぷりつかってしまった、男のためのエロい女であって、そんなベースをわたしが持っているなんてことがフェミニストが知ろうもんなら、こんな女がいるからと攻撃されたりきもがられたりもするのだろう。

女なのに、男の視点でイくこと。

それは、これまでのAVをはじめなにもかも、男性中心の社会や目線で作られていたこととも大いに関係している。

べつに、わたし一人だけの問題ではなく、総じて、そういう感覚で、女は消費され、しゃぶりたくないのにしゃぶらされたり、うまくもないのにおいしそうに、気持ちよくないのに気持ちよさそうな演技をさせられたり、そういう目線を意識したミニスカートの生足やボディラインやメイクや、性産業をはじめすべての経済は回っていたし、それを利用して買われる選択をする女性だって当然いたわけだし。

まあ、そんなむずかしい話は今回はいいか。

きょうはどこまで書こうかな、そろそろ筆を置く準備をしよう。

だからね、そういう原体験があるから、わたしには、本当の意味で、純粋に尊い意味でのセックスをするというのが難しいのである。

たぶん、これまで、コーヒーか紅茶どっちにする?みたいなカジュアルでさりげない相手だったり、明らかに女という「記号」でもってわたしを扱ってくれている人とのセックスばかりをわたしが選んでしまっていたのは、そういうことなのだと思う。

むしろ、そこで、本気になられて「もっと君を満足させたい」とか「次はもっと気持ちよくさせてみせるので、がんばらせてください」とか、「次は絶対、潮ふかせてみせる」とか、「もう一度おれにチャンスください」「まだ本当のセックスを知らないだけだとか」「お前はまだ本当に愛されたことがない、おれが今晩教えてあげる」とか、セックスが尊く神聖に祭り上げられれば祭り上げられるほど、冷めてしまった。

これまでのわたしと関わったことある人で拒否った人が、これを読んでくれているとしたら(んなわけないだろうが)、決して君を男として見てないとかそういうことじゃなくて、そういう原体験がベースにある身として、君にたいしても、ある種の記号としてだったり、性の吐け口みたいにみたくないから、むしろ君との関係をこれからも大切にしたいからこそしなかったんだよと、伝えたい。

わたしはねじまがっているからこそ、むしろセックスしてない人のほうがはるかに大事にしているなんて、そんなこと話してもきっと理解してくれないとは思うけど。

あの原体験が強烈でピークすぎて、それにまさるものがなにひとつ想像できない。

ついでにいうと、小学校のとき、まだやっていいことと悪いことの区別がつかなくて、わたしはいつも、放課後、親が帰ってくるのが遅い家の女の子の家に女子2、3人で集まって、なぜか押し入れにみんなで入って懐中電灯を照らして薄暗くして、誰からともなくセックスのまねごとをやっていた。

そういうことって、誰も言わないだけで、多かれ少なかれみんなあるのかもしれないけど、特にガールズラブってわけでもなく、試してみたい年頃がたまたま重なって、もうその子たちも今じゃみんな何人かの子をもうけて人の妻をしてる。

そんななかで、そのホイップクリームの描写なんかも、ホイップクリームがないから、マヨネーズとかはちみつとかでやってみたりして、幼稚園の年中のときほどじゃないけれど、

ポラロイドカメラを撮りあったりとかビデオを回したりとかして、女優役男優役、監督役を交互にやったりしながら、イってしまったりした。

わたしの小学校時代は、A面の神童の部分しかしらない人のほうが多かったけど、B面は、真っ暗な押し入れのなかで、どろどろと汗をかきながら、ぐっしゃぐしゃのびっしょびしょになっていたのだということを、ここに置いておこう。

だけど、あるとき、その子の早く帰ってきたお姉ちゃんに隙間から覗かれてて、知らなくて。

それからわたしとはかかわらないようにと、その子の親からも家族会議で言われたみたいで、最後はあの子の家庭環境が変だからかかわっちゃいけませんというところにみんな落ち着いて、

その原体験は、自分の胸のなかだけにとどめて、生きてきたってわけよ。

なんか切ない話になってきたね。

だから、こうやって、少し、世ざらししたくなったのかもしれないね。

「結婚すれば、子どもなんてすぐにできる」とか「なんで子ども作らないの?かわいいよ?」とか、結婚すれば毎晩セックスしたり妊活してるのが当たり前みたいな価値観とか、

誰もが子どもを産みたがっているという前提で、少子化政策や子育て支援が語られる、この世の中において、多様性の時代といわれながらも、「セックス」だけは、こんなにも広くてもやっとしていてそれこそ多様な価値観が広がってるはずなのに、

それは追いやられて、みんなほんとはセックスしたいんでしょ?子どもほしいんでしょ?みたいな前提で、それがそもそもプログラミングされてない人間なんて、いるわけない、もしくは人でなし、欠陥品、みたいに思わせられちゃう日々に、息苦しくて。

たまにはお布団干すみたいに、自分の性の目覚めという原体験を、天日干ししてみたのでした。

最後まで読んでくださった奇特な方がいらっしゃいましたら、お疲れさまでした。


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