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ただ「そこにいてくれたこと」に、気づける自分でありたいと思った

夕方、なかなかなことをやらかしてしまったことが、判明した。

相手があることだから、詳細は言えないけれど、判明した瞬間はもう、かなり肝が冷えるような思いだった。

だけど、自分が招いたことなので、自分で対処しなければならない。

つべこべ言ったり、ナーバスになろうがならまいが、目の前のことを、ただ、対処するのみ、それしかない、といった状況だった。

それで、各方面に連絡をとったり、あわただしくて、急きょ、夜になって、松戸方面に車を飛ばしていかなければならないことになった。

その、わたしが運転する車の助手席に、夫が、座っていてくれたことに、とても救われたのだった。

自分のしたことだから当たり前だけど、ひどく怒られたし、何度も頭を下げたり、げっそりと削られるような思いだった。

だけど、ただ横にいてくれる、それだけで、夫は当事者のわたしに代わってなにかできるわけではないけれど、このなんだかなあというドライブの長い長い道のりが、ひとりじゃなかったことが、わたしはとても幸せなことだと感じた。

普段は乗らない慣れない車を急きょ借りて、運転は苦手ではなくむしろ好きとはいえ、この苦痛なドライブを、ひとりでなにもかものことを受け止めながら、乗り切れる自信は、いまのわたしにはなかった。

ひとりで、世の中のあらゆる殺伐としたものを浴びる自信が、いまのわたしには、なかった。

もちろん、ひとりしかいなければ、それも、起きてしまったことは対処するしかなくて、目の前のことを対処するのみだと自分を鼓舞し、いやでもやっていたとは思う。

生きていれば、どうしてもアンラッキーにも見舞われるトラブルにたいして(自分はその遭遇率がかなり高い気がする…)、そうやって、生きてきたから。

だけど、それはとても心細くて、わたしを社会不信にも人間不信にもさせた。

ほんとうに困ったときには誰も守ってなんかくれない、権利に眠るものは保護に値せずだから、自分は自分で守らなきゃ、みたいに、変にわたしを強くさせて、誰も頼らなくてもいいように知識や知恵という鎧でがちがちになって、結果的に、しなやかではない、変な武装勢力のような戦闘モードで常に立っていなきゃいけない、かえってそれでは生きづらくて、社会はより冷たく厳しくも見え、自分にも厳しいから他人も当然厳しくて当たり前だと思い、孤立していくような方向になっていったのだった。

車を借りにいく途中、おなかがすいたねという話になって、夫から、好きな店を選んでいいよと言われたので、ドトールに入りたいと言った。

CoCo壱やマックをほんとうなら食べたい気分だったけど、これから直面するナーバスなことをひかえて、ただでさえ胃がキリキリしているのに、刺激物や脂っこいものを食べて、もともと弱い胃腸の調子を悪くしたくなかった。

あまりなじみのないお店に入るのも、ただでさえ初めてのことをするのに、これ以上、慣れないことをするのは得策ではなかったから、候補からはずした。

そんなとき、食事のにおいもあまりせずに、ほどほどにおなかにたまって、食べすぎて眠くなることもない、かつ、ラテとかもセットにしてホッとできて、車のレンタル開始時刻まで時間をつぶせるドトールが、いちばんベストだと思った。

あと1時間で閉店する閑散とする夜のドトールに、わたしたちは入った。

わたしは前から気になっていた、季節限定のローストビーフとカマンベールのバルサミコソールのサンドと、いつも頼む沖縄黒糖ラテを頼んだ。慣れている飲み物を飲むと、殺気だった気持ちがすこしやさしくなれるような気がした。

夫も、「同じものを」といって、あとはブレンドコーヒーを頼んだ。

だけど、いつものサンドが400円台なのにたいして、その季節限定のサンドは780円と倍近くしたので、「サンドでこんな高いなんて、ぜいたくだよ。まずいよー。やっぱ安いのにしようよ」とわたしは今回のアクシデントでいくら自分が出費をすることになるのかとか心配になって言ったけど、夫は「こんなときだから、いちばんおいしそうなものを食べよう」と言ってくれて、安心したのだった。

ナーバスなときでも、そんなふうにスタートできるのはありがたかった。

車に乗ってからは、わたしのほうが、なんとかまるく片付けることができたら、帰りに国道沿いのラーメンでも食べて夜泣きそばやろうよ、と言ったりもした。

たぶん、すごく順調にいっても、帰るのは24時ごろになるだろう。

こんなときくらいしか、深夜のラーメンなんて、食べられる機会はないし、こてこてで不健康なものを食べる背徳感を感じたい、なんていう余裕も持つことができた。

さきほども書いたように、えらく怒られたり、いろいろ大変で、引き締まる場面では引き締めて臨んだわけだけど、このよくわからない、夜のドライブのかんじに、ふたりでずっと笑っていた。

一緒にいると、どうしてもっと寄り添ってくれないんだろうとか、わかってくれないんだろう、みたいな気持ちになってきてしまいがちだ。

夫もわたしも、最近は余裕がなくて、自分のことで精一杯で、そんなうしろめたさを感じながらも、いっこうに報われる兆しのない精一杯さに、いらだったりしてしまっていた。

だけど、そんなときに、はからずもアクシデントというものがやってきて、なんだかわからないけれど、急にドライブを一緒にすることになって、ただ、横にいてくれた、横に乗っていてくれた、そんなことだけなのに、わたしはどれだけ救われたかわからない。

ほんとうは、ただいてくれるだけで、それだけでよかった。

ただいてくれるだけでも、奇跡だった。

だけど、いるのが当たり前になって、「いる」ということ以上のことを求めて、「いる」ことのありがたみを、人は簡単に忘れてしまうんだな、とも、このときに感じた。

ほんとうは、もっとコミュ力があったり、寄り添い力みたいなものだったり、自分なんかの代わりに交渉してくれるようなスキルが夫にもあったら、横にいるだけではなくて、もっとわたしは不安を感じなくてよかったのかもしれない。

そんな頼もしいスーパーマンみたいな人も、世の中にはいるのだろうけど、そういう人と対等な関係性を築けるかといったら、これまでの自分の経験からしか想像できないけれど、イメージがむずかしい。

「なにかをしてくれること」を前提にしか成り立たない関係は、自分が仮にその「なにか」が「できた」としても、できないふりをして、無力で、その人を必要としているふりをしなきゃ成り立たない時点で、対等ではなくなっているから。

そうやって無力な自分を演出して、守ってあげたい人の欲望を利用して守ってもらうことで、ハンディを補おうとして生きのびようとしてきた時期もあった。

だけどいまは、なにかをしてくれたとかじゃなくて、「ただ、そこにいてくれたこと」ということそのものを、いつも忘れずに、気づいていられる自分でありたいと思った。

対等で自立した人間関係って、お互いを、ただそこにいることを、まずは無条件に認め合うことから、始まるのではないかと思った。

当たり前にそうやって生まれ育てれば、そんなこと、確認しあうまでもないのかもしれないけど。

「そこにいる」ということを、お互いに認め合い、尊重し、祝福しあえたら、きっと、自分も、相手も、自分の足で立っているということを、おびやかさずに、感じていられると思うから。

自分の足で、ほんとうに大地を感じられるとき、生きているとかんじる。

いてくれて、ありがとう。



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