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メジャーど真ん中のコンテンツの話ばかりでつらい気持ちを綴ってみた

さいきん、よく入るようになったイタリアンのバイトで出会ったいろんな世代の人たちと、仕事の合間だったり、仕事終わりやプライベートでごはんとかしておしゃべりする機会がすごく増えた。

飲食関係の仕事をするようになってからのこれまでの自分は、仕事は仕事と割り切って、「じゃ、帰ります」といってプライベートとは完全に切り離していた。

それは、ぎすぎすしていたりいじめやパワハラが当たり前にある職場だったことで、あえて誰もかもと距離をとっていたところもあったし、忙しすぎて、おしゃべりなどできる関係にはなりえない職場だったりと、なにかと余裕がなかったというのも、大いにある。

でも、そのイタリアンは、フリーランスとかの本業があって、その息抜きに、頭の別の部分を使う気分転換みたいに来ている同世代だったり、10代後半から20代前半くらいの学生さんも、話を聞くかぎり、そこまで稼がなきゃいけない切実な事情はなさそうな、バイトかけもちはしないくらいの少し余裕があって、アルバイト、というものを学生時代の一度は経験したい、みたいな気持ちの子たちが多い。

ざっくりいうと、そのイタリアンに働きにくる人たちは、ゆえに、経済的にも気持ち的にも余裕があるから、純粋に稼ぐため、生活のために働きに来ているような層の多い飲食バイト先とちがって、

これまで自分はすごくいろんな飲食店を経験しているほうだと思うけれど、その店はたぐいまれな、既得権の奪い合いによって生じる、あさましいパイの奪い合いだったり、つまらない縄張り争いとかなくて、

どちらがいいとはいえないけれど、だけど、「余裕がある」という人たちが集まると、こうも職場環境が変わるんだということを、感じさせられたりもする。

ぎすぎすしたり、つまらない重箱のすみをつついてだれかをターゲットにいじめたり、つまらないオペレーションのちがいでマウントとったりとられたり、財布が盗まれたり、職場のものを勝手に私物化したりとかのモラルハザードとか、民度が低いゆえに起こることが、ほんとにないな、と。

余裕って、大事だな、と。でも、好きで余裕がないわけでもないし、だから余裕を自分で意識的に持てるように、そういうふうに日々を長い目で構築していかなければなあ、なんて、他人事ではない気持ちになるのです。

前置きがまた長くなってきてしまったけれど、きょう書きたいのは、そのイタリアンでいろんな人とおしゃべりするようになって感じたことについてだ。

まあ、いつも通り、ひとりごとみたいなものなんだけど、簡単に言ってしまうと、そのおしゃべりが、自分ひとりだけ共通項がなさすぎて、つらいというか、つまんない、興味がないのである。

話題がいつも、誰としゃべっても、ジャニーズかディズニーかワンピースかスラムダンクとか、メジャーの映画やテレビ番組か俳優などの推しの話になって、どれひとつ自分にこれまで生きてきて、よりによって、もっとも遠いところにあるような、あまりに刺さる余地がなかった、自分にとって、超守備範囲外ともいえる領域が、彼らにとって、どストライクの天気みたいな共通話題的な話なのだ。

せっかく、余裕のあるいい人たちに出会えたというのに、これにとても困っているし、たいへんつらい。余裕のない人たちと、切実にお金とかの世知辛い話をしているほうが、まだ話があったかもしれない。

わたしがすべてなにも興味がなくて(そんなそぶりはみせないけど)、でも、事実わからないから、興味をもったり、そのことについてわかろうとしてすごく努力して質問するのだけど、いかにその楽しさとかを語ってもらっても、わたしにはなにも入ってこなくて、相手にも申し訳ないししんどく複雑な気持ちになってつらい。

たくさん聞いてくれたから、話させてくれたからと、「mieさんの推しは?」「好きな映画は?」と、振られるのだけど、それもとてもつらい。その振り、勘弁してくれ、と思う。

どちらかというとわたしは、サブカル寄りのものを好むけど、自分をサブカルなんて言ってしまったら、ほんとうにサブカルにのめり込んでる人から怒られてしまうような、そこまでマニアックではなくて、いわば<にわかサブカル>のような、自称サブカルというには中途半端なサブカルなのと、自分の特性上、興味の幅がニッチでピンポイントで深すぎるので、人と話題を広げるには難しい人間だとも思っている。

彼らとコンテンツの話をするようになって、わたしは人とそうやって会話を広げたり、つながるためにという視点で、接してこなかったな、と。好きだから、自分で勝手に麻疹みたいにのめり込んでは、飽きて、とどれも自己完結してしまっているものばかりだ。

それでも、まあまあそれもメジャー寄りでしょ、というようなタイトルや俳優さんの名前とかを、恥ずかしながらいくつか出してみるけれど、もう何人の人から、「は?」と聞き返されたり、「わからない」「なにそれ、しらない」と首を傾げて気まずい雰囲気になったかわからない。

その時間がほんとにやで、だからどうせ言ってもわからないよね、という気持ちになるのと、当時はのめりこんでいたのは本当だけど、ずっと推しているとか、そういうわけではないし(しかも推しは人に言いたくないタイプ)、人って変わるし…そんなことで、総合的にわたしの周りからの評価は、共通話題がない、なにもかも薄っぺらいつまんない人、ということになる(きっとなってる)ので悲しい。

あるときの悲しかったときの会話。「mieさんは推し誰かいますか?」「推しねえ、いないな」「じゃあ、ジャニーズで好きな人誰でしたか?」「いない」「じゃあ、ディズニー派ですか?」「あ、じゃあ、ジブリ派ですか?」「もしかして大谷ファンですか?スポーツ観戦とかされますか?」

ことごとく、なぜか自分の人生には刺さることがなかった、メジャーどまんなかのきらびやかなものたちが並んでいる。

ジャニーズとかディズニーとか、やめてくれーという。

このキーワードを並べられて苦痛に感じる人は、わたし以外にもいるのだろうか。

よろこんで話が弾む人のほうが、一般的なのだろうか。

だから、仕事の人とは全員と例外をつくらず距離をとって、お互いのプライベートは知らずに距離をとったほうがいい、と思ってしまったりする。

でもな、まあまあメジャーな作品やアーティストなどのタイトルを言って、それがまったくひとつもささらない属性の人たちばかりという今回のケースも、めずらしいのではないか。

わたしにだって、これまでめちゃめちゃわかりすぎるくらい話が弾む人たちのなかにいたこともあるからこそ、いまのこの独特な世界が、むしろ逆に不思議だったりする。

でも、同時にそれはもしかしたら、自分はもう、いまの時代に乗り遅れているのかもしれない。

みんなメジャーど真ん中のものを、コンテンツとして好むというのが、ごくごくスタンダードになってしまっているのかもしれない。

自分からしたら、メジャーなきらびやかな、ザ・どまんなかと、毛嫌いして見えるものが、それを苦痛ではなくて、仲良くなるツールとしてみられる人がいるんだから、やっぱりわたしはつまんない人間なのかもしれない。

別にメインにはならないサブなカルチャーが好きだったわけでも、日の当たらないものや日の目をみないものだから好んだわけではなくて、結果的にそういうふうなものが好きなだけなので、自分の感性というのは、メジャーウケはしない人間なのだということを、ことごとく思い知らされる。

まあ、そんなたわごとはそこそこに、以下、やっと思ったことを書き始めていきたい。

うまく書けるかわからないけど、そのひとつに、自分は「コンテンツ」というものへの拒絶感がある。

勝手にコンテンツになったり、コンテンツ化する、という流れも、違和感や気持ちが悪さを感じるというのが、そもそもある。

なにコンテンツにしてるの、って、その当たり前の流れに、は?と思わされることもすごく多い。

そしてその、コンテンツの完全な「受け手」に、自分のいる世界だけが全てではないわけだけれど、なんというか、<一億総コンテンツ受け手>みたいな、違和感や気持ち悪さがある。

ただ、自分の足を使ったり、自分の目をみて、ほんとうに生の手触りや気持ち悪さとかを感じることなく、コンテンツを見るという体験を通して、なにか考えや思いを語ったり、コンテンツの中にいる人はもちろん、受け手のその人も、<コンテンツ化されたなにか>みたいな違和感。

そっちのほうが、ずっとうすっぺらくて、うそくさいのだ。

わたしは違和感ありありだけど、大谷投手の活躍にしても、ジャニーズにしても、なんでもいいけど、配信されたコンテンツなり、誰かの手によって編集されてパッケージ化された、「完全な」ものを、出来上がったものをなんの苦労もなく、その情報なりコンテンツなり苦労することなく、ただ受け手であることで、ぽかーんと口をあけて享受することに、なにも違和感をもたないことへの違和感。

まあ、お金を払っているから、それなりの体験ができて、当たり前といえば当たり前なんだけど、そもそもどんな分野でも、その仕組みに乗っかっちゃってることになにも思わないことへの違和感。

気づいたらのせられていることの、アハ体験みたいなものの恐怖を、わたしはまともに受け入れられないでいる。古いのかな。

わたしは、そんな違和感もふくめて、自分がいま、目の前で、経験していることとか、感じていることとか、そんなことをしゃべりたい。

そんな人としゃべりたいけど、そんな人が、もうこの世界にはどこにもいないみたいで、みんなうそくさく、うそかほんとかわからないコンテンツを見て、コンテンツが言っているようなうそかほんとかわからないことについて、うすっぺらいことを話している。

そっちのほうがぽかーんとしてしまう。現実感なくなって。

いまわたしは、飲食バイトをしているけれど、単発やギグワークなどをしていても、どれも立派なプラットフォームができていて、それは企業側からもワーカー側からも、一昔前に比べたら、かなり便利なマッチングツールになった。

プラットフォームのおかげですぐに口コミやレビューというかたちで情報が広まるようになったり、お互いが評価されるようなしくみができたり(といっても企業側のほうが有利な仕組みになっているのは解せないが、その話は置いておく)、ミスマッチも防げたり、選考スピードも速くてシステム化されて、効率化も進んだ。

一方で、そのプラットフォームのおかげで、ワーカーは誰もが自分に合った仕事をすぐにマッチングできるようになった分、どうせ辞めても新しい仕事や山ほど見つかることがわかるから、見切ったり見切られたりするのも、すごく速くなったように、飲食業界だけでもやっていて思う。

いわばそれは「ゲーム」のようだな、と思っていて、誰もが失敗しないようなゲーム設定が、そもそもされているのだけど、

別に、たとえば思ったより仕事がきつかったり人間関係がいやだったら、すぐ初期化して新しいゲームソフトを交換すればいいようにできている。

仕事を変えるのって、ゲームソフトを新しくするようなかんじなのだ。

それで、思った。

こないだ自分より若い世代の新社会人になった子が、「憧れの会社に働ったのに、だんだん自分が『歯車』と感じさせられるような仕事が増えてきてつらい」と言っていた。

歯車と感じるか感じないかは、自分のプライドだったり、心のもちようの面が多いな、と思うけれど、

世代でくくった話をすると、おばちゃんみたいになっちゃうなとは思うのだけど、

だけど、時代が変わって、仕事そのものも、自分が会社員してたときよりも、いろんなものでプラットフォーム化が進んで、

属人化せずに、誰がやっても、だいたい失敗しないような仕組みになっているなかでやることって、

いくら憧れの仕事だったとしても、いつかはそうやって、大きなプラットフォームの枠組みに乗せられて、「歯車」だ、と結論づけてしまうスピードってすごく速くなってしまったんじゃないかなあと。

そこで、その会社なり、別の会社に転職して、新しいことに挑戦しようと思っても、ただ、そのプラットフォームは変わらないまま、ゲームソフトを新しくするような、そんないずれは飽きる刺激しか感じられないのかな、って。

なにをやっても、ただただゲームを攻略していくようにしか思えないかんじ。

いま、どんなメイクやファッションに挑戦したり、カフェやおいしいランチやホテルとか行こうと思っても、そのへんのやはり、とても便利なプラットフォームがあるから、だいたい行く前にあたりがついてしまって、その答え合わせをするような感覚にしかなれないなあと。

そういう「答え」がない時代は、自分もまだ楽しかったし、実際に行ってみる価値があったけど、いまはもう「答え」が出ちゃってるから、それをなぞるためにいくのは、聖地巡礼みたいになぞりたい人にはいいんだろうけど、すごくつまんないなあ、と思う。

推しに課金したりとか、ジャニーズをおっかけたり、メジャーな映画作品やドラマを追いかけたりしたとしても、ただただ大きな似たような商業主義のうえで踊らされている感じがつまらないなと思う。

いまは、サブカルなんてものもないと思っていて、サブカルなんて言葉を言うことはもう死語で恥ずかしいなと思ってしまって、サブカルだろうがメインカルチャーだろうが、SNSという等しく平等なツールで、「答え」を見ることができる。

もう、そのすべて完璧にみられるかんじが、わたしにはたのしくない世の中になってしまったと思う。透明性があることはいいのだけど。わがままだよね。

そんななかで、自分の好きなコンテンツはなんだろうと考えたら、もう、いまはなにもないのだよね。

全部は網羅しきれないし、しなくても、答えは出てるし、って。

失敗する前に、失敗した人のレビューやブログも共有されたりしたりできるしくみにもなって、ほんとうにほんとうの痛い目にあう人もへって、そうなると、受け手としての受け身なことしか考えられない弱い頭になってしまうのだろうか。

人間が弱くなってしまったような気がわたしはするのだよね。

でもそんな違和感かんじずに、みんな受け手をふつーに楽しめてるし、わたしはやっぱりいまの時代に乗り遅れたのかなあとか、もやもやぐるぐるしてしまうのであります。

でも、それでも、どこのレビューにも書いていない、「レビュー」という誰かに見られたり、評価すること前提に書いた、メジャーどまんなかのきらびやかでありふれたものではない、もっと肌の体温が感じられるおしゃべりを、わたしはしたい、という思いがあった、というおしゃべりなお話でした。



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