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ほんとうは「つながり」たくもないし「共有」もしたくない

きょうは、いろいろ無理をして、心や体が疲れてきたのだろう、ものごとをネガティブなほうにしか考えられなくて、なんでも悪くとって、猜疑心もマックス、みたいな状況になった。

そういうときの自分の悪い癖だけれど、白黒はっきりつけたがるし、早く結論を出したがるし、決めつけてなんでも悪にしたがるし、考え方も極端だし、仕事もやっていることも、すべてまた辞めてリセットしてしまいたいと思ったり、無責任なことを言う相手に議論をふっかけて追い込めようとしたり、そんな自分の状況に追い詰められて、Twitterに遺書めいたものも投稿したし。

そういうときは、ああ、ただ精神的に疲れているんだ、と思う。その対処は休むことだ。だけど、事実そう思っているのだから、それはそれでしょうがないなという気持ちにもなる。

ここさいきんの自分にとって、「つながること」「共有すること」というのが、とてもとてもしんどく感じる。

SNSに毒されているからかもしれないけれど、とはいえ、いまやSNSと密接にかかわって生きていかないほうが難しいなかで、SNSを通して、つながったり、共有したりすることに真のよろこびを感じたり、そういうことをしている人を見るにつけ、それはまさにSNSの狙い通りだな、まさにソーシャルネットワークだなあと思うと同時に、そういうのが鬱陶しいなあと思う。

そんな鬱陶しい存在が、わたしを息苦しくさせる。

わたしは、ほんとうに、それとは真逆だからだ。

どんなにがんばっても、つながりたいとか共有したいという気持ちに、心からなれない。

なれないそんな自分だというのは、いい加減いやなほどわかっているし、それでいいのだけれど、だけど、世の中=SNS=つながること=善、みたいな大きな大きなうねりのような覆せない価値観のなかで、また、人間は社会的な生き物であるという前提のなかで、そういう自閉的な素の自分のままでいることが、すごくすごく生きぐるしい。

いっそ、そんな同調圧力のようなものに合わせて、マインドセットできたら、その圧力の流れに乗れたら、どんなに楽だろうかと思うけれど、できないものはできなくて、でも、できないなりに、わたしはカメレオン人間だということもあって、自分でいうのもなんだけど、むしろ逆にそっち側のように器用に擬態化、ふるまえてしまうものだから、その、自分をそれでつねにすり減らして、自分を見失って、ただただ損なっているだけなところが、とても苦しい。

ただ損なっているだけで、自分になんのメリットももたらしてもくれないのに、なにやってるんだろう、自分、という気持ちになる。

でも、そういう自分はピエロのように見かけはにこにこしていて、穏やかで、コミュ力や気づく力や受容力のあるような人間にふるまえてしまうから、まさか実は真逆だ、みたいなのを、ほんとはさりげなく、ちょいちょい小出しに開示できたらよいのだろうけど、

あまりに真逆で露骨に、自分は他人に興味もなければ、なんでもかんでもつながりたいなんて思ってもないし、共有したくもない自閉的な人間で、なんなら自閉症なんだからもうどうしようもないんだよなんてことを伝えたら、どんびきされてしまうだろうし、そこまで会話をエグくもしたくないのだけれど、そのくらい言わないと伝わらないだろうなというジレンマがあるから苦しい。

いま、そうやって、誰かと打ち解けてカフェとかでしゃべってる瞬間も、実は、すごく疲れていて、体は警戒心や緊張などでこわばっていて、鉛のようにだるくて、早くひとりになって、自分の世界という貝殻の中に早く戻りたい、帰りたい、と思っているなんて、やはりひどく傷付けてしまいそうで、言えない。

ただ、その「共有したくない」「つながりたくない」「他人に興味がない」という点で、誤解されたくないことがあって、それは、ほんとうに「共有したくない」「つながりたくない」「他人に興味がない」ということではないということだ。

ただわたしは、人と共有するにしても、警戒心がとても強いし、よほど心理的安全性が感じられる、ほんとうに心を開けると思えたごくごく限られた相手にしか、自分の好きなものだったり、大切にしていることを伝えたくないということでもある。

ただ、SNSとかで、大勢の人が、たとえば「推し」などと言って、平気で自分のものをいとも簡単にきやすくひけらかしてしまうことと、わたしは真逆で超慎重なのだ。

大切であればあるほど、誰にもそれを知られたくないというか、開示する範囲がすごく限定的になる。

わたしがほんとうに大切にしているものを開示しているとしたら、それは、なんらかの絶望をしてやけくそになって自傷行為したり露悪に走っていて、やばいときだ。

だからわたしは、たいして人に知られても、ほんとうに大切にしているものよりかは、大事かもしれないけれど、さほど大事でもなくて、踏みにじられてもかまわないもの、あたりさわりのない、低ダメージなことばかりを、人とのおしゃべりだったり、SNSでだったりで、ばらまいているような気がする。

いつも軽薄で、うそをついているような、なにを言ったかも忘れてしまうくらいだったりする。

だから、そんな、ほんとうに大切にしている世界に比べたら、どうでもいいことをめぐって、本気でつながりたいなんて思わないし、それでわたしがわかったかのように近づいてくる人や、それを通してつながろうとしてくる人が、とてもうっとおしい。

自分の世界は、ただ、そこにあればいい、とだけ思っている。それだけでもう十分で、それ以上のつながりだの、共有だの、だれかからの共感とか、もう刺激が強すぎるし、過剰すぎて必要としないのだ。

それは、もしかしたら、幼少期から、わたしがほんとうにほんとうに大切にしているものこそ、わたしが何重にも鍵をかけて、見つからないように厳重に隠したとしていも、大人になったいまに至るまでだけど、そういうものほど踏みにじられたり、こき下ろしたり、屈辱を与えたり、からかったり、物理的に破壊したり、二度とそれが好きになれないくらいに呪いをかけたり、トラウマを与え続けてきたりした母親からの影響が、少なからず影響しているのだと自分では分析している。

そういうことを何度も何度も繰り返されたことが、自分の人生に大きく影を落としていて、大切にしているものこそ、本来は娘の味方になってくれる存在の母親にすら、妬まれないように、僻まれないように、嫉妬されないように、いや、そういう近しい身近な存在こそ、そうやって常に警戒心全開で、けれども警戒していることを悟られたら、さらに酷い目にあうから、悟られないように、ほんとうはそれほど好きでないものをおとりにして、ジャブを打ってごまかして錯覚させながら、自分を守ってきたことが、大きいのかもしれない。

だからわたしはあべこべで、いまの世界があべこべに見えるようになってしまったのかもしれない。

その経験がなかったとしても、そんな気質は生まれつきだったのかもしれないし、もういまさらわからないけれど。

また自分の世界に帰る時間を大切にしたいし、自分の世界に帰りたいといまは思っている。

わたしは、自分の世界に帰るために、外に出て、過剰だと感じるくらい限界のぎりぎりまで、いらぬ刺激を無駄に浴び続け、またその自分の世界のありがたみを知りたいのだと思う。

そろそろまた帰って、外の世界とのバランスを取らないと調子が悪いと、自分の体が訴えているのだと思う。

このうるさい、余計なものばかりで、ほんとうにほしいものはない、いらないものばかりにあふれた、この世界は、自分の世界に戻るためにできている。

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