代償と運動連鎖

皆さんがどれくらい症状とか痛みを見ていくにあたって、
動きを見ていますか?

代償という言葉を使って相手の動きに対して、
「それは代償ですね。」使うことがあると思います。

例えば
肩甲上腕関節を動かしたいが、肩甲骨や体幹が必要以上に動いてしまう。
全身を回旋していくにあたって、どこか狙った部位への回旋を出してほしいと思って見ていても、そこの回旋が出ず、他の部位の回旋が出てしまったり。

それをどこかに痛みが出ていたり、症状が出ていたりして、そこに関係してるだろうなというイメージとか、あてが頭の中にある状態で何か不具合があるような動作が見えると「代償」っていう言い方をすると思います。

一転して、それが動きを改善させたいとなると、同じことを行っても、
「運動連鎖」という表現に変えてしまうこともあると思うんです。

例えば
肩外転運動の挙がりが悪く、健側がわに側屈が入ってしまう。
・代償
肩が挙がりづらいから体幹を側屈することで代償している。
・運動連鎖
挙がっているけどさらにリーチを伸ばしたい。
外転運動に問題はないけどさらに上に伸ばしたい。
体幹を側屈して最高到達点を挙げる。

同じ動作をしても、
ネガティブに見れば「代償動作」
ポジティブに見れば「運動連鎖」「機能的」と表現もできる。
これって都合よく表現をしてしまってる可能性もあるなと感じています。

これに似ているのが「負担がかかる」と「鍛える」
トレーニングをする上ではしんどいと感じるぐらい負荷をかける必要があると思います。ただ、痛めてしまうと負担がかかってしまったからとなります。
本来であれば、負担がかかったなら、回復の過程があった後に強化されるはずです。ではなぜ他より痛みが出てしまっているんですか?
ということになってしまいます。
もちろん先ほど言った通り回復ありきのサイクルで回せたらのはなしなので、もしかしたら回復が不十分な状態だったのかもしれないですが。
そうすると、使いすぎが問題なのか(問題の一つにはなる)、サイクルの中で回復の部分が不十分だったかもしれない。もし使わざるを得ないのであれば、回復の面で考えて、栄養面なのか、休養の仕方を変えるなどを考えないといけない。
そうなると、徒手的なケアでどうにかなるのかと疑問も出てくる。
例えば、
同じ部位を10回3セットのように集中的に鍛えるのと、
そこにずっと同じ負担がかかりすぎて
という両極端な例だと違いは分かるが、
そうではなく、
「負担がかかってますね」
「しっかり負荷をかけて鍛えていきましょう」
というのも、
なんとなく都合よく使い分けている(無意識のうちに)気がします。

都合よく使い分けているかもと自覚できていると、
結局はこちらの捉え方次第でそれを変えていたわけなので、
それが本質ではないとわかる。
そうすると、
動作を変えることで症状か改善する人もいるし、
動作が変わらないけど症状が改善する場合もあるし、
動作が変わっても症状が変わらない人も出てくる。

そこででた結果(事実)に焦ることなく、他に問題があるかもしれないと、スムーズに切り替えができる。

代償(ネガティブ)だと思っていた動作を改善したが、症状は変わらなかった。
ということはその動作は必要な動作だった可能性もある。

とにかく、
同じ動作、同じ現象に対して別の言葉を使ってしまうことが計らずともあるのではないかと改めて考えてみるといいのではないかと思います。

実際の現場で「あれっ?これって?」と少しでも頭の片隅で考えていただけたら幸いです。
ありがとうございました。

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