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『子供たちへ。死ぬくらいなら学校なんて行かなくていい』という記事を読んで

今日の朝イチで私の目に飛び込んできたこちらの記事。心が揺さぶられる。

大切なあなたに
届きますように。



恥ずかしながら9月1日問題という言葉を
つい最近知りました。

「いじめ」や「不登校」と
無縁だったか?といえばそうではありません。

私も、二人の息子たちも、
それぞれにそれなりの経験があります。

今だからこそ、
たいしたことじゃなかった
と思えるようなことも

その時の自分にとっては、
心がえぐられるような痛みであり

自分だけが孤立していく怖さ
この先もずっと続くのかという不安が
自分の中でどんどん増殖され
気力を奪われていく

そういうの、あったな。と
思い出しました。

もう忘れちゃっていたのだけれどね。

上履きがなくなるとか
靴にカッターでブスブス切り込みを入れられるとか
廊下に飾ってあった絵を破られるとか
後ろから悪口を言いながら家までついてくるとか
家のポストに生ごみ入れられるとか
いつも睨まれる(笑)とか

今の私にとっては完全にネタでしかない
このような出来事も

それが実際に起きた時の
脳内に走る衝撃と体内をめぐるバクバク感は
子供が一人で耐えるには苦しすぎるものです。

たとえ小さな針だとしても
刺されたら痛みはある。
それが何度も繰り返されるとしたら
感じる機能を閉じたくなるのは当然で。

感じない、感じたくないというのは
生きながらに死んでいるのと同じこと。
そんなの悲しいじゃないですか。

肉体が消えたら、
当たり前にもっと悲しい。

私は身近な人を
自死で亡くした経験があります。
その痛みを
やるせなさを知っています。

その上で
自死はひとつの決断であり
決して責めるものではない。
と思っています。

でも、悲しい。
悲しいのよ。

それがたとえ、
見ず知らずのあなたの話でも

私は悲しいです。


子供にはまだ
自分の世界を自由に選んでいく力がない。

だからこそ、
気づいてあげたいじゃないですか。

大丈夫だよと
言ってあげたいじゃないですか。

今見ている世界は
世界のほんの一部であって
全てじゃないんだって。

優しくてあったかい人も場所も
ちゃんとあるんだと。

あなたは大切な人なんだと。



目に見える傷がつかないと
傷ついたこともわからないくらい
人の心に鈍感になるのは
自分の心に超鈍感で
自分の感情に無責任だから。

自分ばっかり見ていたら
周りのことがおろそかになるって
思う人も多いみたいだが、ほんと逆だと思う。

まず「自分」が大切なのは
同じように人を大切にすることが
できるようになるからだよ。


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そうそう中学の頃、学校に行ったら、
廊下に消火剤が撒かれていた事件があって。

その消火器の安全ピンを
私のナップサックの中に見つけた時は
一瞬、時が止まった。
もちろん私はやってない(笑)

でも今思えばその時に、
「ああ、私本当に嫌われてるんだな」
と妙に納得したことで
逆に、腹が据わったのかもしれない。

そしてそれは、
一部の人だとわかっていたのと
事が色々起きたので
学校の先生や親に
もれなく話す機会ができたこと。

それが良かったなって思う。

自分から話すのって
すごくすごくすごく
勇気がいるからね。

話を聞いてくれる、
たとえたった一人でも
わかってくれる人がいる。
信じられる人がいる。

それだけで、
ものすごく安心するし
強くあれたりするのだから。

我々大人は、
子供達に安心や信頼を与えられているのか?
常に忘れないで
自分に問うていきたいものだ。

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