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安土城跡発掘調査現地説明会

令和6年2月4日(日)に開催された「特別史跡安土城跡発掘調査現地説明会」に参加してきました。その模様を一部だけですが、レポートします。


発掘調査のあらまし

【これまでの発掘調査成果】
 昭和15~16年 天守台穴蔵の整備(天守礎石の発見)
 昭和40~50年代 史跡の環境整備(石垣の修理)
 平成元~20年 大手道の整備、天守台北西、北北西隅確認
 (平成12年 本丸取付台の礎石配列確認調査)
【今回の発掘調査】
 令和4年から20年計画での環境整備事業の一環
 ①天守台東面
 ②本丸取付台北半部
 ともに通常は非公開地区で、樹木が繁茂した状態でした。 

天守台東面

 天守台東面では、表面の腐植土層を剥ぐと、下の写真のように、天守台上部の築石と栗石(裏込石)が崩落している姿が現れました。崩落している姿としては、自然崩落であっても、意図的な破壊であっても、築石が遠くまで転がり、手前に栗石が散乱するというので、これだけでは崩落の理由はわからないそうです。

天守台東面(南側から撮影)

 下の写真は、崩落した方向の正面から撮影していますので、手前まで築石が転がり落ち、その奥に栗石が散乱する形になっています。

天守台東面の崩落した築石(東側から撮影)

 現在、この崩落原因については、意図的な破城である可能性が考えられているようです。その根拠は、残っている築石の最上部が列をなしているという点だそうです。自然に崩落した場合は、構造上弱いところに大きな力が加わり、そこを中心に崩落するので、残った築石の上部が列をなすというのは、考えづらいとのことでした。
 では、破城の時期はいつなのかということですが、以下の3つの可能性が考えられるとのことでした。
 ① 天守が火災で焼け落ちた直後
 ② 天正13年の廃城時(八幡山城の築城時)
 ③ 廃城後
 崩落した部分からの遺物が出て来ていないこともあって、確定的には言えないとのことですが、状況的にはおそらく天正13年の廃城時(②)に破城が行われたと見るのが順当なのではないかということでした。

天守台東面 上部築石列(東側から撮影)

 また、上の築石列の延長上に、東面の隅部を構成すると見られる築石が見つかりました。北東隅の隅部と思われます。

天守台東面 隅部とみられる築石(東側から撮影)

本丸取付台

 取付台の石垣は、昭和40年代に修理が行われており、新たに栗石を入れるなどした際に、かなりかく乱されてしまっていることがわかったそうです。

天主取付台の礎石(北側から撮影)

 礎石列は、二方向(上の写真の赤い矢印と青い矢印)に直交する形で見つかっています。東へ向かう礎石列(青い矢印)には、礎石を抜き取った穴が見つかり、おおよその礎石の位置がわかっています。さらに北側にも一間分の礎石が見つかり、礎石列が北へつながっていることも考えられるようですが、その先が昭和40年代の修理範囲になってしまっているため、今回は確認が出来ていないようでした。

天主取付台 東西方向の礎石列(北側から撮影)
抜き取り穴の位置は、石灰線が薄かったためにペンで再現しています。

 上の写真の手前に写っている礎石が、北側に一間分の礎石のですが、この延長線上は、下の写真のような感じで昭和40年代の石垣修理によって設置された栗石群になっていました。

天主取付台 北側張出部(南側から撮影)
天主取付台 南北方向の礎石列(東側から撮影)

 今回の発掘調査区域では、建物の全貌はわかりませんので、今後の調査によって解明していくようです。
 礎石の中には、火災の痕跡を残しているものもありました。下の写真の赤くなっている部分が焼けた痕跡です。しかし、その他に火災の痕跡が見えるものや遺物がほとんど見つからないことから、どこかの時点で火事場整理が行われたと考えられているようです。ただし、火事場整理の時期は、天主の焼失から廃城までの時期なのか、江戸時代の総見寺による管理時なのか、昭和40年代の石垣修理時なのかは、わからないとのことでした。

天主取付台 火災の痕跡が残る礎石(東側から撮影)

 建物礎石の周りには石列があり、その石列の外側は地面が低くなっていたようです。この低い部分は通路になっていた部分ではないかと考えられているようです。また、前に書いた火事場整理のことですが、この石列より内側は整理されているのですが、この通路と見られる場所については、整理がされていないため、ところどころから赤く焼けた瓦などが見つかっています。

天主取付台 石列と段差(東側から撮影)
焼けた瓦の破片(天守取付台にて撮影)

感想・まとめ

 平成20年から約10年止まっていた安土城の発掘調査が再び始まりました。天主付近から着手したのは、滋賀県知事が「安土城天主を復元したい」という発言をしたことも影響があるとかないとか、おっしゃっていました。そもそも安土城の天主については、その姿に諸説ありという状態になっていますから、CGやVRまたは模型であっても、その復元に役立つような成果を出していきたいというのが、調査チームの思いでもあるようです。
 あの(想像でしかありませんが)豪壮な天守が安土山の頂上にそびえる姿を見てみたい気もしますが、天主台石垣の現況を考えると、あの上にはどんな形であっても建造物を置くことは難しいのではないかというのが、現実的な考え方なんだろうなぁと思います。
 それでも発掘調査を進めていくことで、これまで判然としなかった安土城の本当の姿が見えてくることには興味があります。来年度、さらにその先には何が判明するのかとても楽しみです。
 当日の現地は、思いのほか風があって止まって話を聞いているうちに、寒さが堪えるようになってしまいました。記事は、私が寒さに耐えながら聞きとれたことをまとめたものですから、不正確なところもあるかもしれません。この調査の成果概要については、滋賀県のホームページでも公開されているようなので、詳細については、そちらをご覧いただくのが良いかと思われます。

本丸取付台 北側虎口(南側から撮影)
この先には八幡平や搦手口などがあります。いつかは整備された姿を見たいです。

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