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2024/02/08_九段理江『東京都同情塔』(新潮社、2024)

「日本史ってさ、漢字が多くて勉強しにくいよね。にがてー」
「世界史ってさ、カタカナが多くて勉強しにくよね。にがてー」

高校生という段階をすぎると、一度は耳にしたことのある言説だろう。

この発言を、勉強しない言い訳として解釈するか。
それとも、使用されている文字の語感に敏感である人間の感想として解釈するか。
そして、その解釈に対して同情したり寛容であれるか。

ちなみに僕は、「日本史ってさー」の人間です(でした?)。

題名の『東京都同情塔』。

主人公の牧名沙羅(まきなさら)がデザイン設計した、新宿御苑に完成する建築物である。

牧名は、語感に敏感であり、カタカナの表現に違和感を持っていた。
当初の建築物名は「シンパシータワートーキョー」。
カタカナを付した建築物は数多あり、カタカナの使用率が高くなるほどその建築物に近未来感を漂わせることはできるだろう。

牧名はこの呼び名に代わるものを、お付き合い/ママ活相手(?)の年下男子・拓人にもらう。
それこそ『東京都同情塔』だ。

この作品を通して、美しい/称賛される表現物とそれに対する同情/寛容さ、もしくは対立/分かりあえなさという課題に触れることができる。

主人公の牧名こそ、分かち合う/分かち合えないという葛藤の中で暮らし、分かり合えないことを悟りきった諦念さを彼女の行動の随所に垣間見れる存在だ。

「不同意性交/レイプ」という過去。それは誰もあったことを証明できず、誰にも気持ちを理解されないもの。そして、当事者である自分にしか語れないもの。でも分かり合えない。

学生時代は数学の才能があったのだが、「分かり合うこと」を目指して言葉の世界を重視し始める。ひたすらな言語化。そのための大量の言葉のシャワーを浴びる。

そして、牧名は建築設計者として圧倒的な才能・キャリア・言語化を身に着けた存在となる。10年間の海外生活とそこでの建築事務所勤務経験。それらを生かして建築デザインを手掛けたのが「シンパシータワートーキョー」。いや、彼女の表現では「東京都同情塔」。

「シンパシータワートーキョー」は牧名の傑作として高く評価された。
その美しさ、都市との調和。世界が注目する。そして、彼女を「伝説の建築家」たらしめる代名詞。

しかし、牧名は葛藤する。
それは、「シンパシータワートーキョー」の目的と理念が、牧名の思想に合わないものだったからだ。

「シンパシータワートーキョー」は、刑務所だ。
ただし、ただの刑務所ではない。

マサキ・セトが提唱し書籍の題名にもなっている『ホモ・ミゼラビリス』という思想が根底となっている。
人間は「ホモ・ミゼラビリス=同情されるべき人々」であり、たとえ犯罪者であっても例外ではない。

犯罪者に寛容になれない建築家・牧名は、仕事と信条の乖離に苦悩しながら、パワフルに未来を追求する。

「シンパシータワートーキョー」に入所した犯罪者は、「平等」「比較しない」「快適」であることを是とされ、その思想や運営により犯罪者は出所したくなくなってしまう。
この建築物は、外観のデザインとしても、そしてその政治政策としても、「完成した建築」となった。
圧倒的に美しい。

僕は、そこにモノクロとは言わないが、かすかに色を感じる程度の無味無臭で清浄・洗練されている世界を頭の中にイメージした。

牧名は、葛藤する。苦悩する。

このデザインを生み出すまでに、スケッチブックいっぱいに鉛筆を走らせる。
イラスト・コンセプトの言語化。そしてイラスト。そして概念の言葉。走り書き。年下男子の拓人が見ても何が書いているのか不明なもの。でもいい。自分がわかっていればいい。それは理解してもらいたいけど、理解されない。

牧名は、葛藤する。苦悩する。

マサキ・セトの「ホモ・ミゼラビリス」を理解できない。
牧名は犯罪者に寛容になれないのだ。でも、彼の思想を理解しないと依頼された建築物が「完全」にならない。

そこで牧名は生成AIと対話を始めた。
牧名はPCで生成AIを起動させて「『ホモ・ミゼラビリス』とは■」と入力する。答えがジャッと返ってくる。それに対してまた質問。ジャッと答えが返ってくる。また質問。答え。質問。答え。思いを巡らす。それをスケッチブックにシャカシャカ。思考。記述。思考。記述。

さて、ここに他者はいるのか。そう、自己との対話・AIとの対話は自己の世界で完結しているし、AIは他者ではない、ゆえに他者はいない。

他者を介在させない自己世界を作りきった牧名。

であるからこそ「シンパシータワートーキョー」が目指すもの・理想は独り歩きする。
東京都同情塔、それは美しく完全な建築物は無味無臭で洗練されたものを感じさせる。
そこには過去・思想・自己対話という牧名の膨大な背景が言語化・イメージ化されている。しかし、それは表に現れない。理解されない。

「犯罪者を収容する建築に携わった牧名」「同情塔行き」というネガティブな感想が独り歩き。
牧名はそれに弁明することはしない。それは、諦めなのか。それとも、明らめなのか。それは、気だるさなのか。それとも、気概なのか。

他者を介在させない自己世界を作りきった牧名。

であるからこそ「寛容と不寛容」がはっきりする。

拓人の存在。それは、牧名にとって寛容的なもの。ブランド物を身にまとったおしゃれさん。常に清潔感があり、汗臭さの感じないソープのかすかな香りのする存在。ただ、拓人にも分かり合えないコンプレックスがある。1K5.5万円の木造アパートで暮らすこと。きれいな部分を見せたい自分と、汚い(と思っている)隠したい自分と。その拓人とのご飯デートで繰り広げられる2人の対話では、日常会話では使わないような表現ばかりドドッと出てくる。牧名の文学的・AI的・学術的な、千葉雅也『勉強の哲学』でいう「キモくなる」を体現した表現。ドバドバと、とめどなく表出する牧名。それは、普段彼女と対話している生成AIのよう。それを不思議がるけど寛容に受け止める拓人。

外国人記者は牧名にとって不寛容的存在だ。牧名の反対者に暗殺されないように潜伏するホテルにてインタビュー取材を行う外国人記者。あらゆる要素が混ざりあった得体のしれぬ体臭が気になり、牧名は思う。
「鼻を取り替えたい…」
そして撤収後にホテルの一室に残る体臭。受け入れられない。

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自己完結の世界と他者・世界との対話とはわかり合えないのか。
言葉で対話していくことを諦めたくない。
表現のガラパゴス化と寛容であることとのバランス感。
これらのテーマを考えてみたくなるときに、この本をまた手に取りたくなる。

ふと、Saucy Dog「優しさに溢れた世界で」の一節が頭の中で流れる。


積み上げた一瞬はきっと
報われない事もさ 多分あるんだろうけど
踏み出した一歩は今日も
大切な誰かを思い浮かべていた

それだけでいい そのままがいい
僕だけが知ってれば良い

新潮社のHPには「日本人の欺瞞をユーモラスに描いた現代版『バベルの塔』」と紹介される本作品。
その意味として、ことばは通じるのに話が通じないという奇妙な恐ろしさを読者に投げかけていると解釈する。

さて、「東京都同情塔」が擬人化したとして、それが僕だったとして、もしくは「あなた」だったとしたら、僕/あなたのような「同情塔」は他者にどう見られているのだろうか。
そして、「同情塔」の解釈が独り歩きしたとき、あなたはどこまで弁明するのだろうか。
そして、その気持ちはどこまで言葉にするのだろう。それは誰に語るのだろうか。もしくは、それさえ自己世界として完結させるのだろうか。

年明けに御茶ノ水を散策したときにパシャリ。
この建築物にも、デザインに対する思想や背景が眠っているのだろうか。

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