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絶対。

大学生のときに、ゼミの教授が興味深いことを言っていました。

「『絶対』って言葉は、使うとき注意しないといけないよ。この世の中に、どこから見ても『絶対』って言えるものは多くない」

うろ覚えだけど、確かこんな感じ。

私のいたゼミは【共生社会】をテーマにしていて、マジョリティとマイノリティとか、色んなコミュニティ同士の関わりをテーマにしていました。
あるコミュニティにとって「絶対」なことも、別のコミュニティから見れば「絶対」じゃない。その「絶対」はあくまで主観。それを忘れて、相手に押し付けちゃいけないってことだったんだと思います。いいことにしろそうじゃないにしろ、強く信じるパワーを持つ言葉。

このゼミでは、こんなふうに言葉の定義を考えさせられることがものすごく多かったなあ。新しいテーマに取りかかるときには、まず「この言葉の定義って何?」が皆の口ぐせでした。笑
懐かしいな。あんな風に学べる時間ってとっても贅沢だったな。

最近悩むことが多くて、すっかり自分の纏う空気がどんよりしてました。
叶えたい夢は色々あるのに、自分は何一つ叶えられやしないんじゃないかって思ったり、私は誰からも必要とされてない気分になったり。
トンネルから抜け出したいって願っても方法が分からなくて、やみくもにジタバタしてたらいつの間にかエネルギーを使い果たし、気づけば号泣しながら「もう疲れた」と呟いていました。
これはあかん、と人の力を借りながら自分と向き合って、少し休んでみようとしています。思い出したくなかった痛みとも対面したり、頑張らなきゃ!とぎゅっと握っていたものを思い切って手放してみたりしながら。
その度に、私のことを心から「絶対」大丈夫、って言ってくれる人の存在に気づきました。

何も無い私でいい、このままの私がいいんだよって言って欲しい。でもそんな人いるんだろうか。

そんな風に思って怖かったけど、「まずは自分が自分に対してめちゃくちゃ大声で絶対います!!!!って叫べ」「とみーが心を閉じちゃってるから見えにくいだけで、本当はそのままのあなたを必要としてる人が列をなしてるんだよ」って背中を押してくれる人がいて。
そんな視点で改めて周りを見てみたら、ああ確かにいるのかもって思えたんです。

「何もない私を良いと言ってもらえる」とか「必要とされてる」とかっていうと何だか大きいけど、それは別に、大げさなことじゃなかったんです。

そろそろ会いたいねって連絡くれるとか。
逆にこっちが連絡したら連絡ありがとう!って言ってくれるとか。
何かでちょっと褒めたらわー嬉しい♪って喜んでくれたりとか。

私がしたのはほんのささいなことなのに、それを素直に受け取って喜んでくれる人が私の周りにたくさんいるんだって気付いたんです。
喜んでくれたらこっちも嬉しいじゃないですか。
普段からここによく書く「与える」みたいな、そんな大層なことは本当に何もしてないけど、というかしてないからこそ、自分が簡単にできる何かでも喜んでもらえるんだ!私に特別な何かが無くたって、私は人に何かを与えて喜んでもらうことができるし、喜んでもらえたこと=私にとってのギフトで、私はそれを受け取っていいんだ!ってすとーんと来ました。
(うぅ、上手く言語化できてる気がしないんだけど伝わるかなこの感じ…)

とにかくとにかく嬉しかったんです。「絶対いるから」「とみーは絶対大丈夫だから、安心していいから」って言ってくれる人達がいることが。そこで「絶対」って私を信じてもらえることが。直接そういう言葉じゃなくても、私のしたことで喜んでくれる人がいるんだって気づけたことが。
そういう小さな「ありがとう」って、せっかく言ってもらっても、何でも無いことのようにスルーしちゃいがち。でも実は「ありがとう」に大きいも小さいもなくて、感謝してもらえたことの喜びはいつでもどんなときも、ちゃんと受け取ってめいっぱい味わっていいんだなって。自分もどんどん誰かに渡していきたいな、とも。相手の有無に関わらず、日常の感謝って本当に忘れがちだから。

私のことだから、また同じところでぐるぐる悩むときもあるかも知れません。でも、何だかお腹のところに落ちてきたこの感覚は、きっとちゃんと思い出せる。

あなたにも私にも、そのままで最高だよ!って言ってくれる人は「絶対」いるし、まずは自分が自分に対して、真っ先にそう声をかける存在でいたいですね。
あなたも私も、「絶対」大丈夫。

…って、いっつも同じ結論だな。笑

さて、お昼休憩がそろそろ終わっちゃう。

肌寒くなってきたから、今夜はあったかいお布団にくるまって、あったかい気持ちを抱きしめて寝ましょうね。

ではでは。

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