33年間の人生を本気で振り返ったら3万字超えた
きっかけをもらったので、全力で自分の歴史を振り返ってみます。
見直すたびにリライトしたくなるし、書ききれていないことも多々あるので、公開してから記事を育てます。
自分史の前に、家族の話
父:自称人見知りで無口。地域密着型の自営業を千葉で30年以上営み、コロナが始まる少し前に引退。
母:料理上手で明るく、友達が多い。父の事業サポートをしながら家事も子育てもしていた。
長女:医療系専門職。新卒から同じ会社に勤め続けている。趣味が高じて一年留学するなど行動的。
次女:フリーランス。アートやデザインが好きでお洒落。東京の奥地で自然に近い暮らし。
生まれてから幼稚園に入るまで
素直で正直な末っ子気質
家族の話から想像するに、物おじせず、天真爛漫で、末っ子らしいワガママさを存分に発揮した子供だったようです。自分が主役でいたいタイプ。
その日にあった嬉しいことも嫌だったことも、なんでも母に話していました。むしゃくしゃしたときは物に当たって暴力的な発散をしていたし(そしてさらに怒られる)、良くも悪くも正直で素直な子どもだったんでしょう。隠し事は苦手で、気持ちはすぐに顔に出るし秘密も話してしまうタイプでした。
生まれつきのアトピーとアレルギーで孤独を感じる
生まれつき、アトピーと卵・乳のアレルギーがあり、アトピーは中学くらいまで、食べ物アレルギーは大学に入る頃まで症状がありました。
アトピーのせいで肌が痒くてたまらず、ボリボリと瘡蓋を掻き壊す毎日。風呂上がりに保湿とステロイド剤を塗布していましたが、どうにも面倒でした。
卵と牛乳のアレルギーのため、食事の制限が多かったです。学校給食でも毎日水筒を持参し、食事メニューもアレルギー対応のもの。やっぱりひとりだけ違うものを飲み食いするのは寂しさも強くありました。
現在はどちらも寛解しているので、生活の制限はほとんどありませんが、化学物質過敏症は今も続いています。柔軟剤の匂いで気持ち悪くなったり、食事が合わないと肌の掻痒感が出るなど、なかなか不便です。
にんじんエブリデイ
母が料理上手だったので外食はほとんどせず、母の手料理を食べていました。大皿にたくさんのおかずが並び、毎日お腹いっぱい食べる日々。
これが好き!と思うと毎日必ず食べたい性分でした。にんじんブームが巻き起こった3歳の頃はほぼ1年間、毎日にんじんを1本以上食べていたそうです。あらゆる料理ににんじんが入っていないと機嫌を損ねる子どもだったと聞かされました。
当時の記憶は全くありませんし、今の私はにんじんに特別な思い入れもありません。でも、大学の頃にもうどんが好きすぎて毎日1食〜多い時は3食すべてうどんを食べていたし、最近も毎日のように鶏胸肉を茹でて食べているので、好きなものを食べ続ける癖はずっとあるみたいです。
末っ子あるある→身長制限でお留守番
千葉に暮らしていたので、ときどきディズニーランドに行っていました。父の休みの日にみんなで早起きして車で。とっても楽しかった!
ただ、悔しい記憶もあります。末っ子の私はアトラクションの身長制限にひっかかってしまい、姉たちが遊んでいる間母と待つ、という時間も多かったのです。
私ばっかり我慢して悔しいから、反対に身長が小さい子しか入れないキャラクターのお家に行きたい!と言っても「それだとあなたしか遊べないでしょ」と渋い顔をされたり。一回だけ、渋い顔を振り切って遊んだ記憶はあるのですが、楽しかったという記憶よりも家族が待っているから早く切り上げなくちゃという気持ちが思い出されます。
【習いごと】
心の支えになってくれたバレエ
3歳頃から、姉たちを追いかけてバレエ習い始めました。
バレエは本当に楽しくて、今でも大好きです。音楽に合わせて踊ることも、身体を伸びやかに美しく使うことも、本当に楽しい。
小さい頃はただ毎週楽しく通っていただけですが、成長とともにバレエが心の支えになっていきました。
小学校高学年の精神的に辛かった時期のこと。発表会に向けた振りを先生から教わる際に「ビクビクするんじゃない!堂々としなさい!」と喝を入れられました。生きることそのものが辛かった時も、自分を愛してくれる人はどこにもいないのではと思うような日々でも、踊っている時は忘れられました。
また、姿勢を褒められることが多いのですが、これも間違いなくバレエのおかげ。
プロを目指してコンテストに出ることもなく、バレエのおかげで音楽が好きになり、姿勢が良くなり、リズム感やダンスのセンスを磨けました。
同じ音楽でもピアノは苦手
幼稚園の頃からピアノを習い始めましたが、バレエと反対にこちらは本当に苦手でした。毎週の宿題練習が嫌いでほとんどやらずに、週に一度レッスンに行くだけ。母から練習しなさいと怒られても、先生から成長していませんねと言われても練習をサボってばかりいました。
バレエは好きでピアノは好きじゃなかった理由はなんだろう?と考えると、ピアノは弾いている時点でできていない自分を自覚できてしまうからかなと思います。バレエは、踊っている間は上手な気分で、先生からの指摘や録画を見返したときに「思っていたのと違う」となる。一方ピアノは、弾いている時点で音がズレたり、自分のイメージと違うことがわかってしまうから上手な気分を味わえないのかなと。
また、バレエは集団レッスンでピアノは個人レッスンです。バレエでは振り覚えの早さや足が上がる角度など、周りと比べて競争心を掻き立てられていましたが、ピアノは常に自分よりも上手な先生と下手な私の対比のみ。練習曲も、弾けるようになったらまた違う曲に変わってしまうので、できている気分を味わえることが少なかったのかもしれません。
【幼稚園】
モンペゼロの主体性爆発幼稚園
家からは少し離れた幼稚園に通いました。その幼稚園は教育方針が一風変わっていて、主体性重視の教育方針でした。
ルールで縛らずに、安全を確保した上でやりたいことはやってみる。子供は怪我をするもの。外で遊んでもいいし、お絵描きしてもいいし、仲直りはして欲しいけど喧嘩してもいい。親は子の主体性を過干渉で制限しないでくださいね、という幼稚園でした。
遠足も多く、園長先生がいきなり「今から遠足にいこう!」と近所の大きな公園に遊びに連れて行ってくれたこともありました。筑波山での登山とお泊まりや、サンシャイン水族館や上野科学博物館などにも遠足で行きました。特に、上野の科学博物館では、班ごとに別れて子どもだけで館内を巡る時間があったりと、園児を信頼して任せてくれる部分が多くありました。
遠方への遠足では、卒園生の大学生がサポートについてくれました。私は昔から同い年や年下の人よりも年上のお兄さんお姉さんが好きだったので、大学生ボランティアやビデオ撮影のお兄さんとたくさんお話していました。
唯一のご近所同級生Sちゃんと、自分の嫌な一面
同じ幼稚園で近所だったのはSちゃん1人でした。幼稚園から帰宅した後は、毎日Sちゃんと遊んでいました。
外で遊ぶ時は家の前の石壁を登ったり、小さな赤い虫を延々眺めたり。石壁を登るために、間に挟まっている細いセメントを剥がして指が引っかかりやすくしたりしていた。家の中で遊ぶ時は、お人形遊びやブロック遊びをしていました。
当時の私は、主張の少ないSちゃんのことを見下していました。彼女は人見知りで声も小さい一方で、私は自分の気持ちをはっきり声に出して伝えられる。だから私のほうが、彼女よりもえらい。私が遊んであげているんだ、と思っていたんです。
自分が主役!というエゴがものすごく強かったし、今も卒業しきれていない気もします。
【小学校前半戦】
無法地帯気味の幼稚園から、ルールがたくさんな小学校へ。
地元の小学校に進学しました。私と同じ幼稚園から入学したのはSちゃんのみ。Sちゃんともクラスが離れたので、クラスに知り合いはゼロでした。そこで驚いたのは、周りの子たちは半分以上が同じ幼稚園出身だったのです。でもそこから、人見知りせずにどんどん話しかけてお友達を作りました。
小学校は幼稚園と違って、時間割や席順など、ルールが多く、主体性を引き出す幼稚園と自主性を育む小学校は大きなギャップがありました。最初こそ戸惑ったものの、小学校はそういうものなのだ、と思って頑張って馴染んでいきました。
直せなかった“声の大きさ”
何度も怒られて、それでも直せなかったのが“声が大きいこと”でした。
あるときまでは「大きな声で物おじせずに話せて偉いね」と言われていたのに、いつの頃からかたとえばショッピングセンターの中や、映画館など、同じ音量で話したら「声が大きい」と怒られるようになりました。
小さい声で話し始めても、気持ちが昂るとより一層声が大きくなってしまったり、友達と内緒話をしていたのに声が大きくなってしまって怒られたこともあります。
なんとか直せたのは小学校の高学年になってからでしょうか。それも、直せたというよりは人間不信になって話せなくなったという方が正しかったかも。
簡単すぎる授業に飽きる生意気なこども
本が大好きでたくさん読んでいたからか、学校の授業はとても簡単に感じていました。普通に授業を受けていたらテストは90点を切らないし、わからないと言っているクラスメイトの気持ちの方がわからないとずっと思っていました。
4月に教科書が配られると、数日以内に読み終えていました。授業中も与えられた課題がすぐに終わってしまって暇だったので、何度も何度も教科書を読み返したりなんとかして暇を潰そうとしていました。学校の授業は進むのが遅くて退屈なことが多かったです。
理解は早かった一方で、ケアレスミスがすごく多かったです。テストでは見直しせずに提出してしまうので、書き間違えや計算ミスや問題文の見落としで点を下げていました。解答をし終えたら見直しをしようと思うものの、問題を解き終えると集中力が途切れてしまいます。
今でもパートナーにせっかちだと言われるので、根本的には直っていないようです。
授業で発言しない気持ちが理解できない
多くの授業が挙手制でした。でも、クラスメイトのほとんどが授業で手を上げません。わかっているなら手を挙げて答えればいいし、わからなくても先生に聞けばいい。授業で発言したくないのはどうしてだろう?なんでみんな黙ってるの?って思っていました。
クラスの中で、私はずっと挙手し続けていました。手を挙げすぎてあててもらえなくなり、私しか手を挙げていないのに「他にはわかる人いないかな?」と言われたり。そこからは手を挙げずに待って、挙手者がいない質問を狙って手を挙げるようにするなど、発言権を得るために工夫をしていました。暇だから授業を早く進めて欲しかったし、待ちくたびれていました。
私は運動神経が悪いのだ、という呪い
今でこそ運動好きですが、小学校から30歳くらいまでずっと自分は運動音痴だと思っていました。
その原体験は、持久走大会で最下位だったこと。
すごく恥ずかしかったし、親にも「あなたは足が遅いのね」と言われて、自分は運動音痴だと思い込んでしまったのです。そして、できない=恥ずかしいが刷り込まれました。バレエやダンスやスキーはできるのに、それは“運動”ではないという思い込みがありました。
物を買う前の比較検討に時間をかけすぎる
買うものを吟味する癖が子供の頃からあります。
たとえば、月刊まんが雑誌を500円券で買うとき。本誌が400円くらいだったので、残りのお金をどう使うのか、毎月発売日の数日前から本気で悩み、ものすごい時間をかけてお菓子棚をチェックして組み合わせを決めていました。
最終的に満足度の高いお菓子の組み合わせを見つけてからは、買うものが固定になったのですが、それでも毎月のお菓子選びは漫画本体と同じくらいの楽しみでした。
大人になった今でも、ホテル選びのときには複数サイトを見比べて、何時間もかけて諸条件を比較してしまうし、洋服を買う時はフロア内のショップを全部見て、気になるものはすべて試着してから購入する服を選びます。
かけた時間と満足度が比例しないという自覚はあるものの、やめられない癖のひとつです。
【小学校後半戦】
あまりいい思い出がない期間です。
人気者になりたいけど空回り
目立ちたがりだったので、学級委員を毎回希望していました。でも、ルール偏重型かつ偉そうな子だったので、立候補しても選ばれないことも何度もありました。
同時に、普段はちゃらんぽらんな子がたまにちゃんとするとすごく評価されるのに、普段からまじめないい子である私の評価が低いのはなぜ?と思い始めたのがこの頃。まじめな子よりも問題児の方が可愛がられるって不公平じゃない?と思っていましたが、どうしたら自分が人気になれるのかはさっぱりわかりませんでした。
ひとりぼっちになり、トイレの住人になる
4年生くらいから疎まれ始めたものの、本格的に孤独になったのは6年生の頃です。クラスの目立つ女の子に嫌われたことが直接のきっかけでした。むしろそれまではとても仲が良かったのだけど、彼女の嫌いセンサーを踏み抜いてしまったようです。
教室の真ん中で椅子をひとつの円に並べて受ける授業では、誰も隣になってくれなくなりました。私の椅子だけ円から外されたり、女の子の列に入れてもらえなかったり。
数人でグループを作るときも、入れてと声をかけても渋い顔をされて、1人のまま。いじめを先生に相談して、グループを作る時に先生が「ひとりの人がいる限りダメです」と言ってくれたときだけ渋々どこかのグループに引き取られる、という状態でした。
ひとりぼっちが辛くて、円になる英語の授業や、チームを組む必要がある体育の授業などは休むようになりました。保健室に行っても仮病だろうと休ませてもらえず。気持ち悪いとかお腹痛いとか理由をつけて、トイレでサボるようになりました。
1時間まるまるトイレの個室にこもって、吐こうとしても吐けなくて、泣いたりぼーっとしたり時間を潰していました。だんだんとそれがいつもの過ごし方のようになって、先生も同級生も、見て見ぬふりをしていました。
孤独を読書で埋める
孤独が増すごとに読書量がどんどん増えて、毎週図書館に通って10冊本を借りてきては読破する日々でした。読書の世界に没入することで時間をやり過ごしていたので、1日1冊以上読んでいました。
外国人作家の児童虐待小説や、薬物中毒の人の手記なども読み漁っていました。内容を理解していたというよりはネガティブなエネルギーに共鳴していた感覚だったように思います。
主に読んでいたのはファンタジー小説で、母と趣味が重なっていたので、お互いに本を読んで感想をシェアし合ったり、選書しておすすめし合ったりしていました。今も、母との本シェアは続いています。
死にたいけど死ねなかった小6の冬
読書に逃げても、毎日の辛さは減りません。
誰にも愛してもらえない、味方はひとりもいない。そう思い込んでしまい、辛すぎて死にたくて、自殺の方法をあれこれ考えて、自殺未遂までいきました。実行した方法ではうまくいかなかったので、今も生きているんですが。
「死ぬこともできないなら、どんなにつらくても生きるしかない」って思いました。以来、どれだけ辛いと思ってもこの時期よりはマシだと思えてなんとか生きてこられました。一方で、辛い思いをしたくない、という思いが自分に対するブレーキになってしまっている気もします。
いじめから逃げてもいいよ、と受験を提案されたが気づかずスルー
中学受験の時期になりました。クラスの1/3ほどが私立校を受験するようです。
私も父から、受験をしたいならしてもいい、と言われたことが一度あります。両親は私がいじめられていることに気付いていて、地元の中学は持ち上がりの子が多いから中学でも辛い思いをするかもしれない。私立に行った方が良いのでは、と思って提案したそうです。
でも、父の意図に気づかなかったし、自分の家にお金があるのかもわからなかったので「家から近いしお姉ちゃんたちも地元の中学だし、私も同じでいいよ」と答えました。
この頃の私は日常が辛すぎて感情を殺していたので、まったく笑顔を作れず、常に無表情でした。ストレスからかものすごく太ったのもあり、ユニクロのメンズの服を大きめに適当に着ていました。写真を見ると死相出てない…?と思うくらい表情もオーラも暗いです。
【中学校】
もう一度人生をやり直す。
中学に行ったらいじめもなくなって楽になる、と希望をもって中学に進学しました。とはいえ、地元の中学なのでクラスの半分程度は知り合いでした。
新しい友達もできたし、小学校のときはほとんど話さなかった人と話すようにもなりました。でも、染み込んだ暗さは急に払拭できないし、そもそもどんな自分で振る舞えば良いかの目標設定もなかったので、やっぱり友達作りは苦戦した記憶があります。
姉への憧れから吹奏楽部に入部
私は小さい頃から、1番身近な年上の人である次女にものすごく憧れていました。アトピーもアレルギーもなく、美人で芸術センスのある姉。いろんな選択の場面で姉の真似をしています。部活選びの際も、姉に倣って吹奏楽部に入部し、打楽器担当になりました。
自分の好きはわからずに姉の真似で入った吹奏楽部でしたが、楽器の練習や合奏など、部活の時間はいつも楽しかったです。特に、練習の合間に他パートの先輩や同期と雑談や恋の話をしたのが良い思い出です。
中学のときに遊びに行った記憶は、吹奏楽部の同期とのものが多いです。ディズニーランドにも行ったし、映画を見に行ったりも。もちろん人間関係の悩みは尽きなかったものの、関わる時間が長い分ご縁の深まり方も強いんでしょうね。
好き嫌いは思いこみ、と感じたかつての悪戯を自白します
中1の頃、私のことを嫌っている男子と、他の中学校の生徒を装ってメル友になったことがあります。ほとんど怪しまれもせず、すぐに打ち解けて何ヶ月か毎日メールのやりとりをしていました。
やりとりの中で唯一出てきた個人名が私でした。「今日は嫌いな奴に話しかけられてまじうざかった!学年一のブスで牛!」って、悪口でした。あなた、その本人とメールのやりとりをしていますけど。
彼が私のことを嫌っていることは知っていたしこのこと自体がショックだったわけではありません。ただ、誰かを好きとか嫌いと思うその感情は幻想なんだって思いました。
彼が嫌っているのも、今メールのやりとりをしているのもどちらも私なのに、彼はそれに気付かない。
ちゃんと向き合って話したらこの人とも仲良くなれる可能性があるんだな、私のこと嫌いな人たちの何人かは、みんなが嫌っているからという理由で私を悪いフィルターで見ていたり、噂や場の雰囲気で嫌っているんだな、と思いました。
テスト勉強はゲーム感覚
中学になって、学校の勉強内容は少し難しくなりました。そして、学期末テストに向けての勉強がすごく楽しかったです。その理由は、テスト勉強の予定を組む2週間分のワークシートが大好きだったから。
示されたテストの範囲を元に、テスト当日に向けて勉強の予定を立てる作業がすごく好きでした。予定通りに進んだら嬉しくてやる気がさらに出たし、予定通り進まなくてギリギリになっても、じゃあどこで挽回しよう?と考えていたので、それすらもゲームのようで面白かった。
クラスの他の子達はもっと適当に書いていたり、計画を書いてもまったく異なる進め方をしている人もいました。事前に勉強範囲を洗い出してスケジュールを切るというやり方は、私に合っていたようです。
中学でも成績は良い方だったけれど、小学校のように勉強しなくても100点が取れるということはありませんでした。きっちり勉強してテストに臨んでも、相変わらずケアレスミスは多いし、わからない部分もあるしで、クラスの上位数名に入るくらいの成績でした。
2年生になりドキドキのクラス替え
進級時にクラス替えがあり、メンバーが大幅に変わりました。2,3年のクラスでは1年生のときよりも仲の良い子ができた一方で、主張の強いリーダー格の子がいたり、1年の時よりもスクールカーストのようなものも感じました。
ギャルっぽい可愛い子は男女ともに友達が多くて先生とも仲が良かったし、気の強い美人タイプの子はなんとなく一目置かれていて。私はクラスの中心にはなれなくて、彼女たちのことが羨ましかったです。
一生デブのままだと自分に呪いをかけた
太っている自分に嫌気がさしていたので、2年に1回あるバレエの発表会に向けて、本気で減量しました。
給食はカロリー表を見ながらあれこれ避けて、ほぼ食べないレベル。家での食事も母がカロリーを工夫して作ってくれていました。結果として、1,2ヶ月で5kgほどの減量に成功。クラスメイトも面白がって応援してくれていたので、アトラクション感覚で取り組んでいました。
しかし、発表会後の1ヶ月で8kgくらいリバウンドしたんです。発表会前のストレスが強くて、終わった途端に緊張の糸が切れたように食べまくってしまったんです。結果として、減量前よりむしろデブになってしまいました。
痩せられない私なのに無理なんかするからこんな結果になった。帰って失敗するんだったら、わたしは2度と減量しないぞ、と自分に呪いをかけました。恐ろしいことに、この呪いが解けるのは20年近く経ってからになります。
修学旅行は京都へ
中学3年生のとき、2泊3日ほどの旅行で京都へ行きました。着物で街歩きをしたり、お寺見学をしたり。このときの班はムードメーカーな男の子やノリの良い女の子がいて、楽しかったです。
着物で街歩きをする日は、自分に合いそうな色柄を選んで着付けてもらって。街を歩いているだけで周りの人から和やかな目で見られたり、何度か写真を一緒に撮りたいと言われたりもしました。非日常体験ができました。
宿での部屋は、クラスの女子が2部屋に分かれて寝泊まりしました。2泊目の夜、自分の部屋のメンバーがみんな早々に寝てしまったので、隣の部屋へこっそり移動しクラスメイトとおしゃべりをしたのが印象深いです。合間に先生の見回りがあって、布団に隠れてやり過ごしたのもいい思い出。
私は知っている知識を人に披露することが好きでした。旅行中も京都文化についてや食事のことなど、誰かが「なにこれ?初めて見た!」と言っていると頼まれてもいないのにいそいそと近付き、得意顔で説明をしていました。大人になるにつれて、望まれていない解説は邪魔になると学びましたが、テスト前などもたまに勉強を教えていました。どんな言葉で説明すれば理解が進むかな?と考えることが楽しいのです。
ソロコンテストに出場
吹奏楽部では、全体合奏のコンクールやアンサンブルコンテストと別で、年に1回開催されるソロコンテストに出場しました。コンテスト本番よりも、学内でのオーディションを通過して出場が決まったときが、1番嬉しかったです。
コンテストのためのピアノ伴奏は、部内の同期にお願いしました。ピアノがとても上手だけれど、小学校のときに私を嫌って仲間外れにしていた人のひとり。ピアノをお願いする前までも、特に仲が良かったわけではありませんでした。
それでも、ピアノの伴奏をお願いしたら二つ返事で快諾してくれて、そしてこの出来事以降は随分と打ち解けました。小学校のときは私の悪口を言っていたのに、人ってゲンキンな生き物だな、などと意地悪く思ってしまう部分もありましたが、仲良くしてくれる人が増えることは嬉しかったです。
大会に向けて、実家にマリンバを持って帰って、毎日練習していました。
大会の結果は銀賞。伴奏をお願いした人は本当に上手で、リズムの変更や演奏に対する希望などを伝えたら見事に汲み取って応えてくれてありがたかった。
受験勉強、初めての塾
高校受験が近付き、塾へ通い始めました。生徒の大半が行く集団塾ではなく、個別指導の塾です。同じ塾の子達とは、人数が少ないこともあり、クラスが違っても、今まで特に仲良くなくても、なんとなく連帯感が生まれて仲良くなれました。
優秀でいたいという願望が強かったので、難易度の高い教材をあてがわれると内心ほくそ笑み、普通ランクの教材を渡されると焦りました。
人生初の受験勉強はやり方がよくわからず、言われるがままに塾の教材を勉強していました。過去問や学校ごとの対策をしていなかったこともあり、志望校は不合格。
でも、夏休みに毎日塾に集まってみんなで勉強したりおしゃべりする時間がめちゃくちゃ楽しかったです。卒業後に集まったり連絡を取ったりもしていないけれど、在学中は奇妙な連帯感がありました。
【高校】
父に認められた道が正しいという思い込みと、精神的な自立
受験を終えて私立の仏教高校へ入学します。高校を選ぶ時も、3年後に大学を選ぶ時も、わたしは父の意向に沿うことを当たり前に基準のひとつにしていました。
父が「いいと思う」と言ってくれたら私の選択は大丈夫だと思っていたんです。服を買う時も母が「似合う」と言ってくれたものを選んだし、進路にしろ生活にしろ、自分のことは自分以上に親が理解しているものだ、親の意見が正しいのだ、と思っていたんです。
まったく未経験の弓道部に入部
高校でなんの部活に入るかは全く決めていなかった時に、中学の同級生が弓道部の見学にいくと言うので、私も一緒に見学に行ってみました。
袴かっこいいし大人っぽいな、と思い、あまり深く考えずに入部しました。
入ってみると、弓道部は校内で1番上下関係に厳しい部活でした。先生のことは神だと思え、先輩より高い位置から声をかけるな、そもそも先輩には用がある時以外話しかけるな、という厳格なルールに縛られながら、365日中350日くらいを部活に費やしました。
弓道が向いていた
型をコピーして再現するというバレエで身につけた能力が役立ち、弓道も成績は上々でした。2年生になってすぐの頃に、大会に向けた毎日の記録会では先輩を抜いて、ときどき1位、落ちても3位をキープし続けました。
その結果、3人での団体戦メンバーに2年生で唯一選ばれることに。県大会では個人でも優勝し、関東大会では団体戦で3位になりました。
インターハイを目指す5人での団体戦も、2年生で唯一メンバー入り。インターハイ出場はなりませんでしたが、国体選手にも選ばれました。
一生ものの友人ができた
弓道部がきっかけで、他校の同級生に一生物の友人ができました。
千葉県から関東大会に出場した高校に、たまたま私と同様に先輩の中に2年生がひとり食い込んでいる、という団体メンバーの学校が2校あったのです。私の高校とその2校は顧問同士が親しく、大会のときのホテルも一緒だったので、関東大会をきっかけに一気に打ち解けました。
それ以降、高校時代は月に1回集合して遊んでいたし、大人になった今でも定期的に連絡を取り合う大切な友人となりました。
2年の9月に退部
大会でそれなりに良い成績も収めたし、面白い出会いもあったけれど、部内では向かうところ敵なし状態になり、調子に乗ってしまいました。
その結果、夏合宿のときに同期たちから仲間外れにされ、インターネット上の日記で悪口を書かれたのです。小中の苦い記憶が一瞬で蘇りました。ここでも孤独かと。
ショックだったけれど、嫌なことがあるなら直接言えばいいのにとも思ったし、私が全部悪いわけでもない内容だったので、同期と話し合おうともしました。でも、同期のリーダー格の子に拒絶されてしまったので、退部することにしました。正直、私がいないと部の成績としては困るだろうし、困ればいいと意地悪く思った部分もあります。顧問の先生にはものすごく引き留められましたが、精神的にダメージを受けたせいで射形も崩れて成績も伸び悩み始めたので、国体が終わってから1ヶ月以内に退部しました。
インターハイには出られなかったけれど、大きな大会にも出たし個人でも成績を少しは出せたから、やりきった、と思いました。ただそれを父に言ったら「お前は嫌なことから逃げたんだな」と言われたのは苦く記憶に残っています。
初めての彼氏にズブズブに依存する
高2の秋、部活を辞めるのとほとんど同じタイミングで初めて彼氏ができました。文化祭準備の中で意気投合し、1週間でお付き合いに至りました。
初めての彼氏に全力で浮かれて、とても仲が良かったのですが、どんどん彼への愛情が膨らんだ結果、半年で「重すぎる」と振られました。
いじめの経験もあり、自己肯定感の低さと承認欲求にまみれていたんでしょうね…。相手を尊重することなど到底できず、自分の欲求を押し付けてばかりでした。あんな自分に半年も付き合ってくれた彼に心から感謝しています。
修学旅行でシドニーへ。計画通りに行動できないとイライラする
4泊5日でオーストラリアのシドニーにいきました。クラス全体でバス移動が多かったものの、1日だけ友人たちとの自由行動の日がありました。
事前に行き先や時間を調べてスケジュールを立てて行う自由行動。友人たちは、その場で見るもの聞くものに興味を惹かれてなかなか前に進まず「決めた予定は守らないといけない」と思い込んでいた私は心底イライラしていたしそれを彼女たちにぶつけてしまいました。
机上でたてたスケジュールよりもその場で感じたことの方が鮮烈で大切だし、どこかで遅れてもどこかで調整したら巻き返せると今なら思えますが、当時は本当に融通のきかない性格でした。
だからこそ頼りにしてもらえていたこともあります。現地では地図を頼りに移動するのですが、事前情報のインプットと地図を照らし合わせて、目的地に向かうことが得意でした。
一緒に移動していた友人たちは現在地も目的地もわかっていない状態だったので、彼女たちが行きたい場所に連れて行くガイドのような立ち回りをしていました。
高3、本気で受験勉強に打ち込む
高校3年生になりました。部活もやめているし、恋人にも振られていたので「暇なぶん全力で受験勉強をするぞ」と決めました。高校生活は全力部活→全力恋愛→全力受験、という感じで案外充実していました。
そして真面目に勉強をした結果、得意科目はぐんぐん成績が伸びるものの苦手科目はさっぱりでした。明らかに理系科目が苦手だったので、国立大学は早々に諦めて文系私立に絞り、関東圏の私立大学の偏差値が高いところ、という基準で早慶上智を、さらに点の取りやすい政治経済で受験できる早稲田だけを選んで受験することに決めました。
学部は、私らしく選ぶなら文学部か教育学部なのですが、捻くれていた私は、らしくないものを選びたい、偏差値が高いほうが格好いいと思い、商学部を選びました。なお、この選択は人生の中でもトップレベルの後悔です。見栄のために興味のない方向に進むのは本当に愚策でした。
予備校にいすぎて浪人生だと思われていた
高校受験の反省を生かし、大学受験では志望校対策に本気で取り組みました。放課後は予備校に通う毎日。
受講クラスは真剣に吟味して選択し、自習室に1日こもって勉強して、飽きたら現役大学生のチューターと雑談してリフレッシュしていました。
高3の3学期は登校不要だったので、予備校に通う毎日です。タスクを決めてこなし、気分転換をたっぷりする日々。成績も順調に伸びて、案外ストレスも少なかったように思います。弓道も受験勉強も、同じことの繰り返しがわたしは好きなようです。
受験当日は緊張したけれど、幸いなことに受験した大学は全部合格しました。念願の早稲田大学商学部へ入学します。この頃は自分って頭いい!と思っていたなぁ。そして合格報告をしにチューターのところに行ったら「2浪にならなくて良かったね!」と言われたのです。笑
【大学】
念願の1人暮らし!
合格後に急いで家を探し、大学から徒歩10分のアパートで1人暮らしを開始しました。3/31に入居して4/1に入学式という強行スケジュール。引越しの荷造りも荷解きもほとんど母がやってくれて、おんぶに抱っこで一人暮らしを開始しました。
大学卒業時の引越しも、卒業式の翌日で、荷造りはほぼ手付かずのまま母にやってもらいました。思い返すと恥ずかしい…。頼れる先があるとどこまでも怠けてしまう私です。
1人暮らしは自由で気楽だけど、失敗も多かったです。ペットボトルや缶のゴミを何ヶ月も溜め込んでしまったり、洗剤が合わなくて肌荒れしたり、味噌汁を作っても味が薄くておいしくなかったり、部屋がまったく片付けられなくて人が遊びにきた時にタンスに荷物を積み上げて大きい布で隠したり。
キラキラした理想の暮らしとは程遠かったけれど、1人暮らしは最高でした。好きなものを食べて、好きな服を着て生きる。誰にも怒られない初めて自由を味わいました。
私服に困り、主張したい自己の無さを自覚する
高校とは違い、大学は毎日私服で過ごします。都会だし、周りの子がみんなおしゃれな子ばかりに見えてくる不思議。周りの目がものすごく気になるので、毎日同じ服を着るわけにもいきません。
じゃあ私はどんな服を着たい?何が似合うんだろう?と考え始めました。実家暮らしの時は母のアドバイスありきで服を選んでいたので、自分だけで選んでこなかったのです。自分らしい服ってなんだろう?と迷いながら、安い服をたくさん買って、いろんなテイストの服を着てみる日々でした。
モノトーンの服も、エスニックな服も、ふわっとしたガーリーな服も着たし、友人にも相談していましたが、いまいちしっくり来ないままでした。私は表現したい自己がないんだな、とうっすらと自覚します。
ここから10年以上模索しました。特に20代の頃は周囲から浮かない服、無難な服を選んでいました。30代になった今、服装について思うのは、TPOに合わせた上で、これを着たい!というワクワクした気持ちを大切にしたいということ。
ありふれた服を着ていると、本来あるはずの個性が埋もれてしまうから。自分のマインドにぴったりくる服を選びたいなと思っています。
大学生、速攻で勉強しなくなる
学部の授業は面白いものもあったけれど、そもそも商学部の授業に興味を持てませんでした。入学早々に、文学部に入ればよかったと後悔します。とはいえ、受験し直すほどの熱意もなかったのですが。
なるべく単位が取りやすい授業を選び、怒られない先生のときは寝たり携帯をいじって過ごす。今振り返ると学びに対して最低な学生でした。大学で何を学んだかまったく思い出せません。真面目に授業を受けようと思っても、すぐにぼんやりしてしまってわからなくなり、テスト前になんとか詰め込むことを繰り返していました。
単位は落とさなかったものの、最初のテスト期間での成績は惨憺たるもの。高校までの賢い私という思い込みは早々に外れ、適当に単位を取って卒業しようという甘ったれ大学生の出来上がりでした。
サークル活動
やっぱり姉の影響。ストリートダンスサークルへ
次女への憧れが相変わらず根強くあり、中学に引き続きここでも姉に倣ってダンスサークルに入りました。
書いていて気づいたけれど、高校で姉と違う弓道部に進んだのは、姉が入っていたダンス部は私の高校にはなかったからかもしれません。
コレオグラファーがやりたい!
サークル内ではいろんなイベントがあって、それぞれでショーを作ります。
振り付け、衣装選び、音の編集などなど役割があるのだけど、私は振りを作ることが大好きでした。音に合う動きや、舞台映えする構成を考えることがとっても楽しかった。
脳内イメージを実現するために、メンバーへの要求が厳しくなりすぎて嫌な思いをさせてしまったこともあります。実力に見合わない構成にしてしまって却下されたことも。
でも、この振りかっこいいねって言われたらすごく嬉しかったし、振りを考えている期間は四六時中脳内で音楽が鳴り響いていました。
ダンスバトルは苦手
ダンスショーケースは好きだったけど、ダンスバトルはめちゃくちゃ苦手でした。DJが流す音楽に合わせてひとりずつ即興でダンスをして、上手い方が勝つというダンスバトル。
知っている曲でも知らない曲でも、その場で自分が感じたことを表現することができなくて。頭で考えていたら間に合わないけど、頭で考えないとダサい動きになっちゃうから、恥をかきたくなくて身動きが取れなかったことを覚えています。
音に合わせて自由に踊れる人たちが心底羨ましかったな。
ここでも人間関係で悩む
大学時代は1番長く時間を過ごしたのがサークルで、その次がゼミでした。サークルは、同学年だけで入学時に70人ほど、卒業時でも40人ほどいたので、大学内でも大きなコミュニティのひとつ。
ここでもやっぱり人付き合いが本当に下手でした。ノリが良い風を装っても、うまく話せなかったり。見栄が邪魔してカッコ悪い自分を曝け出せなかったり、反対にメソメソしすぎたり。
私はわがままで、気が強くて、自分の欠点を自分で認められずに隠そうとして、そういう拗らせが現れていたのかもしれません。
とはいえ、友達もいたし楽しい思い出もたくさんあります。
大学から近い家だったので、友人が泊まりにきて朝まで話したり、先輩後輩も交えて家で鍋をつついたりしていました。青春だったな。
シドニーでのホームステイ
大学2年の春休みに、シドニーでホームステイしながら語学学校に通いました。
ホストファミリーはとっても優しくて明るくて、素敵な人たち。でも、私が失敗が怖くて全然話しかけられなくて、積極的にコミュニケーションできなかったです。
語学学校は、春休み期間だったこともあり日本人が多かった。休憩時間や放課後に外国人と話せばいいのに、易きに流されて日本人と日本語でつるんでしまったので、やっぱりもったいなかったです。
ただ、この時のご縁で今でも連絡を取っている子もいるので、良かった部分もたくさんあります。
国際貿易研究ゼミに入る
大学3年生からのゼミ選びでは、国際貿易研究ゼミへ入りました。
毎年海外研修があったり、先生の授業が面白かったりと人気のゼミ。倍率が5倍くらいあったのですが、先生と事前に仲良くなっていたのでするっと合格しました。
考えは人によって違う、を初めて実感した
1年目の途中で、ゼミ生が2人辞めました。1人は「学びの難度についていけない」が理由だったのですが、もう1人は「この先生を信頼できない」というような理由でした。
残ったメンバーでゼミ生の家に集まって、それぞれの想いを話そうって言われたとき、私は、みんな彼がやめて寂しいだろうと思っていたのですが、実際に意見を聞いてみると、それぞれ全然違うことを考えていて驚きました。
このときまで、私は出来事に対する感情は概ね皆同じだと思い込んでいたんです。今までにも意見が合わない人もいたし、いじめに合ったこともあるのに、仲間が抜けたらみんな寂しいでしょって思い込んでいました。価値観は人によって違う、を初めて実感したタイミングです。我ながら遅いし、今でもこの想像力が働かなくて失敗してしまうことがあります。
就職活動=暗黒時代
やりたいことがない
大学3年生、周りが就活の空気になると同時に就活を開始しました。とはいえ、大学の学びも適当で、サークルばかりに打ち込み、悩みといえば人間関係。飲食のアルバイトは楽しいけど一生の仕事にしたいとは思えない。将来やりたいことがなく、なにが向いているかもわからず、とりあえずいろんな業種の企業説明会に行ってみる日々の始まりでした。
今思い返しても顔から火を吹きそうなほど恥ずかしいのですが、早稲田大学生だし、まあどこかしら受かるだろう、と思ってました。本当に。ごめんなさい。
説明会や選考で大手に行ってもベンチャーに行っても、社会科見学の気分が抜けず、どこも楽しそうと思えてしまい、なにも絞れずにエントリーシートを提出していました。志望動機も曖昧、自己PRもどこかで聞き齧った嘘かほんとかわからないようなtipsを散りばめたエントリーシート。よくあれで選考進めてくださってたな…と思います。
受けた企業ほぼ全てから内定をもらう同期、進みたい業種が明確で心なしか表情も凛々しくなった同期を横目に、選考は進むものの内定はひとつもいただけない、就活迷子の沼にはまりこみました。
両親とのコミュニケーションエラー
両親とのコミュニケーションエラーも大きく影響しました。好きな企業に行きなさいと言われる一方で、親としてこの業種は認めない、と言われる業界が複数あるのです。
それでも、人生の選択において親の方が自分よりも正しいという思い込みが根強くあったので、親のNGが出た業界は諦めて、別業界の大手を受けていました。その最終面接の朝に「あなたは本当にその企業にいきたいの?」と聞かれて、いや私が行きたい業界は反対されたから親がOKした業界の選考を受けてるんですけど!?と困惑したり、就活がうまくいかないと話したら「お前を欲しがる企業なんてどこにもないだろ」と言われたりして、完全に就活迷子になりました。
その当時は自分をまったく客観視できず「やりたいことやりなさいって言いながら私をめちゃくちゃコントロールしてくるじゃないか!」と就活がうまくいかないことを親のせいにしてしまっていました。1ミリも自分の頭で考えてなかったです。
さらに、弱いところを人に見せたくない、エベレスト並にプライドの高い私は大学の就活センターもろくに活用できませんでした。センターに行ってみたものの、軸もやりたいことも不明瞭すぎて、恥ずかしくて、センターの職員さんに相談できずに帰ってしまったのです。
やりたいことを見つけたものの猛反対される
就活迷子ながらも自己分析を進めた結果、接客業がやりたい、特にマッサージやボディケアがやりたい、と思いました。
学生時代のアルバイトはすべて接客業であったこと。小さい時からマッサージをすることが好きで、家族やクラスメイトの施術をしていたこと。自分もエステ好きでよく行っていて、施術を受けた後は気分よく過ごせていたことなどから、商学部の人が一般的に就職して行く企業よりもボディケアの領域に強い関心があることに気付きました。
試しにエステやストレッチの業界を受けてみると、すべてから内定をいただけました。ただ、親からは「早稲田までいれたのはそんな業界に入れるためじゃない」と猛反対を受けます。
親の意見が正しいと思っていたので仕方なく就活を再開したものの、それ以外の業界でエントリーしても内定が出ず、メンタルがズタボロに。
心配した母が、年末に1人暮らしの家に会いに来てくれました。私の就活の考え方、父への不信感、やりたいことをやれと言いながらやりたいことをやらせてもらえない親への不満、果ては小学校のときにいじめられていた私を助けてくれなかった親への恨みなど、泣きながら全部をぶちまけました。母も泣きながら、母の行動の意図や私に対する思いなどを打ち明けてくれて、就活がうまくいかなければ就職浪人しても良いとも話してくれました。このとき初めて、心から母に愛されていると信じられたように思います。
OBOGと話して自分の世界の狭さに気付く
大学4年の年末頃、知り合った文学部の卒業生に学部友達を紹介してもらいました。
ここで出会ったのは、大手通信会社に就職したけれどパニック障害になって退職した人、就職せずにいきなりフリーランスライターになった人、会社員兼DJ、大手飲料メーカーの会社員など、就活中の私のイメージの外側の人達でした。
この先輩たちと仲良くなって、実際の社会人の暮らしを見せてもらう中で、好きなものを突き詰めてもいいし、会社でうまくいかなくても、就活が思った通りに進まなくても人生は終わりじゃないという当たり前のことにやっと気付きました。
進路決定は卒業ギリギリ
気持ちは少し楽になったものの、就活は相変わらずうまくいっていなくて、ちょっと自暴自棄にもなりかけていました。そんなときに父から「そんなにマッサージがしたいなら、理学療法士になればいい。それなら病院でも働けるし認めてもいい」と妥協案をもらい、理学療法士の専門学校を受験することになりました。
学費が安い&実家から通いやすい学校を探して、4年生の3月半ばの最後の入試で合格。なんとか卒業後の進路が確定しました。
メンタルをこじらせつつ卒業。キラキラ同期と自己否定
卒論も提出し、卒業に必要な単位も取得できたので、なんとか卒業できました。卒業旅行ではサークルの同期とハワイへ。就活がうまくいった人たちはキラキラして見えて、自分は劣等感にまみれていて、こじらせて爆発していましたが、それもまた思い出と思い込んで楽しく旅行しました。
【専門学校】
就活時のいざこざから父への気持ちは最悪な状態のまま実家に戻り、両親とは気まずさを残しながらも専門学校に入学しました。
入学式もオリエンテーションも、高卒の子達はなんとなく浮き足だっていて、それ以外の年上組はなんとなく居心地が悪そうに見えます。
クラス委員を決める会議では、お互いに見合ってしまって誰も自ら名乗り出ません。お互いのことを知らないから誰かを推薦することもできなかったので、年長でノリの良さそうな男性2人に話を振って、委員を引き受けてもらいました。
優秀であれという呪縛からの脱却
入学した最初の頃は、早稲田卒の私は専門学校レベルの勉強なんてできて当然、優秀でなければならない、そう思い込んで自分を追い詰めていました。
ですが、つまらない授業はやっぱり眠くなるし、100点は取ろうと思っても取れません。
そこで途中から、国家資格を取るための学校だから、合格点を取れたらOK、80点も100点も誤差だ、と思い直したところ、ものすごく気が楽になりました。赤点の再試はお金がかかるので、合格点は切らない、と決めて3年間を過ごしました。無事に、3年間ペーパーテストも実技試験も落とさずにクリアできました。
人間関係も楽になってきた
小学校から大学まで、ずっと人間関係で悩んできました。コミュニティに馴染もうとしても、なんとなく集団の中で浮いてしまうんです。
コミュニケーション本や自己啓発本は山ほど読んだし、服装も話し方も工夫してきました。頑張っても浮いてしまうなら、もう仕方ない。自分を受け入れてくれる人と、適度な距離感で付き合っていけばいい、とやっと思えるようになったのがこの頃です。
自分が知っている世界の中で浮いてしまっても、自分が馴染めるコミュニティもどこかにあるだろうし、自分を必要としてくれる人だっている。まるごと全部受け入れてもらえなくても、少しずつ所属していればいいんだと思うようになりました。
本気でオタ活に打ち込む
実は小学生のときからw-inds.が好きでした。CDを全て買い、歌も踊りも覚えてしまうくらい。ただ、それがいじめのきっかけになった(クラスのリーダー格の子にw-inds.ファンになること真似するなと言われた)こともあって、ファンであることを隠して来ました。
大学4年生のとき、Twitterをきっかけにファン友達ができました。さらにその中のひとりと特に仲良くなり、w-inds.や他のアーティストのライブに一緒に行くようになったんです。
ライブやリリースイベントなど、行ける限りのイベントはすべて行き、ライブ配信は友人宅で一緒に見て、Twitterでオタクアカウントを開設し推しの投稿をチェックする日々です。
推しに覚えてもらえて、ライブも楽しくて、SNSを通して友人が全国にできました。好きなもので繋がるご縁ってすごい。
一方で、推しに合わせて半年先のスケジュールまで埋まり始め、ライブ代や遠征費用捻出のためにアルバイトをしながら専門学校に通う日々はなんだか余白がありません。
「明日ひま?」みたいな急なお誘いは、面白そうなものであっても先約があって行けなかったり、働くそばから出費の予定が増えていく。ライブはたしかに楽しいけれど、オタ活以外のものを犠牲にしすぎているし、精神的に貧しいな、推しを愛することはできても、推しは私を特別に愛してはくれないんだな、と1年ほど経って気づきました。
そこから行くイベント、行かないイベントを精査し始めます。スケジュールに余裕をもつことでお金にも気持ちにもゆとりができたし、突発的な予定にも対応できるようになりました。
このときに仲良くなった人たちとは今でも友人関係が続いています。幅広い年代と職種の人たちと「好き」の共通点で仲良くなれたので、オタ活に精を出してよかったなと思います。
GWと年末年始は家族で海外へ
わたしが大学生になって以降、毎年両親の休みに合わせて海外旅行に行くようになりました。オーストラリアやカナダ、台湾など行き先はさまざま。行き始めた最初の頃は母が旅行会社に依頼して旅をアレンジしてくれていましたが、インターネットであれこれ調べて自力で行けることに気付いてからは、私がアレンジャーになりました。
フライトとホテルを手配し、家族それぞれの要望を聞きながら旅先でのスケジュールを決めていきます。ネットや本を見比べて情報収集をしながら、予算に合わせて最適なプランをたてることがとても楽しくて、何時間も飽きずにのめり込んでいました。
ただ、家族旅行は夏休みや正月休みのため、帰国後はすぐにテストのことが多かったです。旅行の荷物に教材を詰め込み、飛行機内や現地のホテルで勉強していました。時間がたっぷりあったとしても勉強が捗るわけではなく、むしろ時間がないほうがぎゅっと集中して取り組めるタイプだと専門学校時代に気付いたのがこの頃でした。
実習が開始
専門学校3年間のうち、後半の1年半は実習が主な過ごし方です。4週間の評価実習と、8週間の臨床実習×2が卒業要件でした。
すべての実習を自宅から通いでこなす人もいますが、私は地方を希望してあちこちに住ませてもらいました。短期間でいろんな地域を味わえて、気分転換になってとても楽しかった。
度重なる引越しのおかげで荷物の減らし方もわかったし、荷造り・荷解きも1人でできるようになりました。なにごとも練習あるのみですね。
実習1回目、地元近くの病院。
評価実習という、患者さんの状態を正確に把握するための実習で、期間は4週間。
総合病院の入院患者さんがメインでした。リハビリ部の職員は20人くらい。理学療法士も10人くらいいて、家庭のあるパパ・ママが多かった。残業は少なく、お昼は部内で長机に向き合って食べるという地方病院っぽい感じ。
理学療法士(PT)と作業療法士(OT)は業務も似ていて、言語聴覚士(ST)だけリハビリルームが別だったり、業務内容も食事の嚥下動作や発話の改善などで、PTのリハビリとはずいぶん違っていました。
高校のときにしみついた“目上の人にこちらから話しかけてはいけない”という慣習のせいか、リハビリ職員たちとどう関わっていけば良いのかわかりません。話しかけてもらえたら話せるけれど、自分から自発的に声をかけることはほとんどできませんでした。
実習2回目、のびやかに学んだ広島。
臨床実習で行った広島の総合病院は、とてものんびりした雰囲気でした。こちらも入院患者が主なリハビリ対象。1日のルーティンをさっと覚えて、課題で出された英語論文の和訳も楽しくクリアできました。
この病院では、患者さんとの関わり方、信頼関係の築き方を教えてもらいました。入院患者は病院への滞在というだけでストレスが溜まっていて、リハビリはその息抜きの役割も果たすんだとここで学びました。
「村上さんが帰っちゃったら困るなー」と先生方に言ってもらえるくらい患者とたくさん関わらせていただきました。
また、地方実習はレオパレスで1人暮らししながらの生活でした。ダンボール4箱だけの引越しは身軽でミニマルで、荷造りも荷解きもすぐに終わるし、ワンルームの部屋でも広々と使えてとてもよかったです。今後の暮らしのシミュレーションになりました。
実習3回目、教官に嫌われてメンタルを崩した茨城。
広島実習が楽しかったので、次も楽しいだろうと意気揚々と臨んだものの、担当の先生と仲良くなれず、開始3日で地獄と化したのが2回目の臨床実習でした。
ただ、失敗した理由は今でもまったくわからないのです。
担当の先生に煙たがられる理由がわからなくてものすごく悩みました。課題を提出しても、「全然ダメ」と言われるだけで改善点がわからない。
患者のリハビリに入っても事前の情報共有がほとんどないまま遠くから見張られていて、私がなにかNG行動をすると飛んできて怒られます。どうしたら良いかわからなくてどんどん萎縮していきました。
同時期にいたもう1人の学生はあんなに楽しそうなのに、どうして私はこんなにもしんどいんだろう?なにが正解なの?と惑う毎日でした。
親に相談し、専門学校の先生にも話して2週間ほどで実習中止になりました。担当者との相性や、体調不良など、様々な理由で実習が中止になる学生がいたけれど、その1人になったことで自分がとんでもない落ちこぼれのように感じ、自分を責めました。
ただ、意外なことに父が味方してくれたのです。「どうしても相性の合う・合わないはあるから。元美が悪いわけじゃない」と言ってくれて、驚いたし救われました。
実習4回目、優しさに救われた栃木。
臨床実習をクリアするために、追加の再実習で栃木に行きました。前回嫌われた理由がわからなかったので、開始日は過去最高にオドオドしてたと思います。事前に担任から情報共有もあったようで、先生がとても優しかった。質問に対する回答の言語化に時間がかかっても、理解が浅くても根気強く付き合ってくれました。
総合病院ですが、外来患者がメインの病院です。スポーツをしている学生も来るし、高齢者も来る。入院患者は意識の混濁した終末期に近い患者が多く、どの患者も今まであまり接したことのないタイプだったので、毎日新鮮でした。
ここで無事に実習に合格したので、少し遅れたものの国家試験の勉強期間に入りました。
国試の勉強
国試の勉強はグループに分かれてそれぞれで行います。
最初の頃はいつも一緒にテスト勉強していた子達と一緒のグループだったのですが、途中から変わって、高卒のクラスでも特に成績の低い子と2人で勉強することになりました。
勉強開始も2ヶ月遅れだし、自分のことだけで精一杯なのだが!?と思ったものの、教えることで明らかに自分の学びが加速しました。私が合格したのは彼女のおかげ。
終わったから言えることですが、実習が延びて国試の勉強期間が短くなって、本当に良かったです。追い込まれたおかげで集中力と効率が上がったし、受験勉強に飽きる前に試験を終えられました。
国試直前の1ヶ月は、大学から専門学校に入り直した分際で国試に落ちるなんて絶対に嫌だ、という気持ちもあって相当にストレスが強かった。通学時間を使って小説や漫画を毎日1冊以上読み、毎週末は映画館で映画をみて、自宅での勉強はドラマを観る合間に行う、というくらい息抜きをたくさんしていました。
追い込んだぶん、集中して勉強するやり方があっていたみたいです。
国家試験当日
いよいよ国家試験当日。午前の試験はそれなりに自信があったものの、午後の試験では一回書いた答えの半分以上を書き直すことになり、見直しながらも不安が拭えなかったし、これは落ちたかもしれないと本気で落ち込みました。
それでもベストは尽くした!と言い聞かせました。結果としては合格していたので本当によかった。
大学時代と全く違う、サラッと終わった就活
国試の勉強の合間に就活もしていました。
実家へ帰りやすい距離で、住宅手当があって、総合病院で回復期もある総合病院、という条件で学校に来ている求人を全部みて、希望の病院を選びました。面接の日には38度の熱があったけど、強行突破して面接に臨み、無事に内定をいただきました。
大学時代の就活が嘘のようにスムーズに決まり、拍子抜けした記憶があります。自分が売れる場所にいけばちゃんと売れるんだ、と理解しました。
社会人
【就職①総合病院】
ドキドキの新生活
無事に総合病院に就職しました。3年ぶりの1人暮らしです。家は社員寮である、家賃半額のレオパレス。久しぶりの1人暮らしに心が踊ります。とはいえ、実習期間にミニマルで清潔な1人暮らしにはずいぶん慣れたので、あまり緊張せずに引越しを終えました。
同期の理学療法士(PT)は全員4歳下だし、4年目までの先輩が年下や同い年。馴染めるかなと少し不安な気持ちを抱きつつのスタートとなりました。
まずは先輩PTのリハビリ見学から始まり、日を追うごとに少しずつ患者に触れさせてもらえるようになりました。先輩はそれぞれスケジュールの組み立て方も、患者との関わり方も、治療方法も異なります。違いに困惑しながらも、いろんな手法を学べる機会でもありました。
リハビリの成果を出すためには患者との信頼関係が第一だ、と知る
就職した直後は、教科書で習った通りにプログラムを立てて治療していました。相手の心を考えずに“この疾患にはこのプログラム”とリハビリを押し付けていたので、患者との信頼関係を作れませんでした。誰だってやる気がでない日はあるし、入院自体が大きなストレスになる人だっているのに、まったく想像できていませんでした。
そんな私が変わるきっかけになったのは、村上とのリハビリはいやだ、と担当を変えられそうになったこと。謝罪し、直接話し合って、継続させていただくことになりました。これをきっかけに相手の気持ちを想像して、信頼関係を築くことを意識するようになりました。
他部署の人たちと仲良くなって連携プレー
リハビリ部の同期たちが毎日おしゃべりに花を咲かせながら当たり前のようにサービス残業をする中で、極力すべての業務を勤務時間に終えてさっさと帰宅するわたしは、ちょっと浮いていたし同期とのコミュニケーションは不十分だったと思います。
一方で、看護師やケアスタッフとはリハビリ部の中でも特に良好な関係構築をしていました。
患者の1日のスケジュールには、検査や入浴、リハビリなど様々な部署が関わります。看護師と仲良くなったことで、リハビリスケジュールを看護師に相談できるようになりました。たとえば歩行訓練が必要な人は、検査までの行き来をリハビリとして行うことで、時間の節約になるだけでなく病棟の負担が減るなど、患者の予定に合わせてリハビリ予定を組むと職員の負担が減り、病棟の雰囲気も良くなるので患者のストレスも軽減されるのです。
福祉職や医療システムの人たちともあれこれおしゃべりをしていたので、院内のゴシップや世渡り術など、リハビリスタッフだけとの関わりでは得られない情報をもらっていました。
2年目、仕事に慣れちょっと飽きる
2年目になり、通常業務はある程度滞りなくできるようになりました。先輩に可愛がられるタイプではないけれど、それなりに仲の良いスタッフもできたし、患者とのコミュニケーションでは笑顔と共感、わかりやすい説明を心がけていたので、「今後も村上がいい」とご指名をもらえるようにもなりました。
一方で、患者が少ない時期でも売上を保つために、患者が必要とする以上に多くのリハビリを提供しなければならなかったり、サービス残業を当たり前に行う院内風土に疑問を感じるようにもなりました。
そのタイミングで、転職してきた先輩と仲良くなりました。他のスタッフと異なる治療法を得意とする人で、小柄な女性なのに移乗介助もすごくうまいし、患者からの信頼も厚い先輩。質問をたくさんして、たくさん時間を割いてくれました。彼女に教わったことが今の施術に繋がっています。そして、彼女や他部署から異動してきた先輩との出会いから、私は井の中の蛙なのでは?外の世界をまったく知らないのは危険なのでは?と思うようになりました。
出会いを増やすターム。モテたい。
病院の仕事だけをしていると視野がすごく狭くなるから、手っ取り早く出会いを増やそうと思い、街に飲みに出たり街コンやマッチングアプリを使い始めました。
いろんな人と出会って、食事をしたり映画を観たり。恋もしたいしモテたい、そのために場数を踏もうと思い、服装やコミュニケーションを工夫していきます。そこで、明るくテンポの良い会話ができれば大抵の人と打ち解けられる、と気付いたのは大きな収穫でした。
ずっと人間関係に悩んできたので、「モテ本」や「コミュニケーション本」をたくさん読みました。でも、全然モテませんでした。どれだけ具体的なテクニックを取り入れても、全体の纏う雰囲気が非モテだったんだと思います。
その人の歩んできた人生や考え方は、立ち居振る舞いに現れる。モテオーラのある人はなにもしなくても魅力的である、という当たり前のことにこの頃やっと気付きました。
オンラインサロンに入る
視野を広げる目的で、キングコング西野亮廣さんのオンラインサロンにも入りました。結果、コミュニティだけで400人以上の人と知り合いました。
コミュニティには会社員のみならず、フリーランスや経営者もたくさんいました。整体やエステといった同業種でも自分と同世代の若手フリーランスも何人もいたので、彼らとの出会いをきっかけに自分もフリーランスになりたいなと漠然と思い始めました。
様々なバックグラウンドの人たちが集まって遊んだり一緒に仕事をしたりしていました。その中で、長く続く出会いも得たし、人間関係の良い部分も課題になる部分も感じられました。
転職活動
そうして、出会いを増やすなかで、恋をしたり友達ができたりちょっと危ない目に合ったりしながら、もっと世界を広げたくなりました。
もっと臨床経験を積みたいし、楽しくリハビリをしたいと思い、転職することに。
次の職場ではどんな患者に関わりたいのか、どんな職場で働きたいのかを考えて、信頼している先輩にも相談しながら、整形外科疾患のクリニックへ転職を決めました。
転職先を探す際の条件はいくつかありました。
仕事面では、自分に近い年齢の患者さんを担当できること。総合病院で働きながら、私はいわゆる“働き盛り”の世代を担当するときが1番楽しかったのです。身体が元気になることで、仕事が捗るようになったり、気持ちが元気になったと言われるとすごく嬉しいと気付きました。
プライベート面での条件は、祝日やお盆・お正月がお休みであることと、自分の裁量で有給が取れること。総合病院は365日稼働のシフト制だったので、盆や正月も出勤がありましたし、長い連休を取る人もいませんでした。仕組みとして仕方ないと理解してはいたものの、旅行に行きたくて、すごく不満でした。
転職先のクリニックは患者は担当制だったので、あらかじめ休日としてブロックしておけば予約を取らなければ良いだけ。他のスタッフにも迷惑がかからないという点を大きな魅力に感じ、就職させていただくことにしました。
初めての海外一人旅はチェコとイギリスへ
退職から次の仕事開始までは1ヶ月空けて、念願の海外旅行をすることにしました。病院勤めの期間は連休が取れず、旅行に行けないことが大きな不満だったから。
ヨーロッパに行く予定だと母に話したところ、ちょうど叔父もイギリスにいるタイミングとのこと。母も一緒に、イギリスの叔父の家に遊びにいくことになりました。
ひとり旅もしたかったので、イギリスに行く前に1週間ほどチェコへ行くことにし、母とはヒースロー待ち合わせに。チェコでは3都市回ったのですが、たくさんの親切に助けられました。閉店支度をしている店に飛び込んだら特別メニューを作ってくれたり、道に迷ったら助けてくれる人がいたり。
地方では英語も通じない場所も多かったですが、ジェスチャーで乗り切りました。危ない目には一度も遭遇しなかったのでラッキーだったと思います。
そしてチェコにいる間に母が倒れて入院してしまい、帰国後はそのまま病院へ行くことに。そこから再就職までの休暇期間は母の看病や父の身の回りの世話をして過ごしました。
【就職②整形外科のクリニック】
個人主義で働きやすい環境
転職先の職場は、とても働きやすい環境でした。医師の先生は最新の治療法に詳しい上、リハビリスタッフの意見をきちんと聞いてくださる方でした。
リハビリスタッフの先輩も、それぞれに得意分野が違っていて、医師と連携しながらも自分のやりたいように治療をしています。時間や礼儀など、最低限のルールを守ったうえで、それぞれが自由に学んで働いていました。
その気にさせることが得意だと気付く
勤める中で気付いたのは、私は患者のネガティブを払ってポジティブに変換していくことが得意であること。
運動が心底嫌いで自宅でのトレーニングをまったくやらなかった患者が、私が担当になってから少しずつ自主トレに取り組むようになり、どんどん回復していきました。私がしたことは、相手の話をきちんと聞いて、否定せず受け入れたことと、その上で、自主トレの大切さを少しずつお伝えしたのみ。相手が受け取りやすい速度で伝えていくと、自然に相手は変わっていったのです。
リハビリの内容そのものよりも、リハビリ以外の時間でお身体が治っていくようにデザインする。そんなイメージで取り組んでいた結果、院長から「村上さんのリハビリは喋りが9割だね、評判も成績も良いし、今のやり方で続けてみて」と言われました。
コミュニケーションに悩み続けた私が、コミュニケーションを強みにできた体験でした。
仕事が楽に回り始める
業務に慣れるとともに、仕事そのものが楽になっていきました。
担当患者を自発的にリハビリ卒業に向かわせることが得意だったので、予約枠に対する担当患者の人数コントロールもできていたし、毎月作成する書類も型化していたので事務作業の手間も少なく済みました。空いた時間で勉強したりセミナーに参加する余裕もでき、施工の質を上げていく時間を取れるようになりました。
患者との良好な関係構築を心掛けていたためか、ご紹介で指名をいただくこともありました。経験と知識は足りないながらも、患者との関係構築が得意だったために仕事がどんどん楽しくなっていきました。
セミナーに行き始め、師匠に出会う
関節や疾患・痛みの種類などで細かい場合分けをしてすべてに異なる対応をするよりも、身体そのものを大きく捉えて包括的にアプローチする方が好きだったので、東洋医学にも興味を持ち始めました。理学療法士で東洋医学も治療に取り入れている人のセミナーに行ったり、筋膜の勉強などを始めました。
いろんなセミナーに通う中で、施術の師匠に出会いました。患者の身体の波長と自分とを合わせることで状態を改善する施術をしていて、そこで習うことは自分にとって、非常に馴染みやすかったし、効果が出やすかったのです。
師匠の講座にいくつも行く中でどんどん仲良くなり、新たなセラピストの友人もできました。
独立を考え始める
今の職場は居心地も良いし、1人で暮らしていけるくらいの収入はいただけている。でも、もっと違う環境で働いてみたい。自分の腕一本で稼いでみたい。そんな風に思い、独立を考え始めました。結果として、クリニックで1年ほど働いたのち、退職してフリーランスになりました。
【フリーランス】
有料老人ホームでの業務委託
見切り発車でフリーランスになってしまったので、まずは食い扶持を探すことから。クリニックの先輩に紹介してもらって、業務委託で高級有料老人ホームで働き始めました。
入居者さんは有名企業の元社長だったり、大学の教授だったり、私でも名前を知っているような方もいました。かつての名声やお持ちの資産と人間性は全く関係がなく、高圧的だったり、認知症の症状が強かったり、不穏だったり、反対にとても物腰が柔らかで丁寧な方ももちろんいらっしゃいました。
家族が頻繁に会いにきてくれる方も、一度もどなたもいらっしゃらずに亡くなっていく方もいました。死ぬときの幸せってどういう状態なんだろうという問いが、自分の中で生まれました。
自分でも施術を開始
開業届を出して、個人事業主として動き始めました。はじめは小顔の施術20分3,000円から始めて、全身整体もメニュー化。オンラインサロンで出会った人たちを中心に施術に来てくれるようになって、経験を積ませていただきながらのスタートです。
週に2,3日老人ホームにリハビリに行き、そのほかの時間で出会いを増やしたり、施術をしたりという暮らしを1年半ほど続けていきました。母が病気だったので、実家にも定期的に戻り、アルバイトとして両親の仕事のサポートもしていました。(家業はコロナの少し前にたまたま商売仕舞いをしていました。)
コロナが始まる
正社員だった頃より収入は少し減ったけれど、自由な時間が格段に増えてストレスがとても小さくなりました。自分は外食が好きだと思っていたのは勘違いで、ストレス発散と仕事外でのコミュニケーション不足から外食していたのだと気付きました。パートナーがいる現在は、外食は楽しみのひとつはあるものの、自宅での食事と同等の扱いになっています。
そんな中でコロナが始まりました。老人ホームの仕事は、本業が他にある兼業セラピスト多かったので、彼らが出勤できなくなった穴埋めとして私の勤務が週5に増加。単価の良い仕事だったので収入は3倍以上に増えたものの、急な労働時間の増加と、コロナに対して正しい情報収集ができず、不安ばかりが募りました。毎日のように友人に会っていた生活は一変し、自分の施術もストップ。職場と家の往復のみで旅にも遊びにも行けないような日々になりました。
数ヶ月経つ頃には仕事外での息抜きもできずに、情動が固まってしまいました。心配で声をかけてくれた友人に「とみー表情筋が全然動いてないよ」と指摘されました。それくらい気持ちを張り詰めて過ごしていたようです。
東京脱出を決意
老人ホームの仕事は収入も良く、学びにもなる。でも、コロナは終わりが見えず、いつまでこの生活が続くかわからない中、この生活を続けていたらストレスで精神を病んでしまう。そう思って仕事をリセットすることにし、契約先には引越しを決意しましたと伝えました。
当初は関東圏で探していたのですが、このタイミングで大阪に恋人ができたので大阪に引っ越すことに。一度住んでみたかったソーシャルアパートメントを新居に決めて、荷物を減らして大阪に引っ越しました。
大阪のソーシャルアパートメントで暮らし始める
念願のソーシャルアパートメントは年齢の近い人が多かったですが、なんとなく気後れしてしまって部屋にこもっていることも多かったです。それでも、キッチンやコワーキングスペースでは人と話せるし、自室でひとりの時間も作れる環境でした。
移住直後もオンラインサロンのおかげで知り合いは少しずつ増えて、施術場所を提供していただいたり、施術に来てくださる方もいました。引越しのきっかけになった恋人とはすぐに別れてしまいましたが、地方に腰を据えて住むのは人生初。東京よりもコロナに対する認識も緩い印象です。
師匠とライブ配信
東京で出会った施術の師匠とずいぶん仲良くなり、コロナ禍に毎週ライブ配信を一緒にするようになっていました。フリーランス理学療法士としての働き方や自分の施術の特徴など、言語化する良い機会になったし、孤独を感じやすいコロナ禍で誰かと毎週話す予定があることそのものが救いになっていました。
現パートナーと出会う
施術の見込み顧客探しを兼ねて、西野さんのオンラインサロンとは別で、HIU(堀江貴文イノベーション大学)に1ヶ月だけ入ってみました。こちらのサロンは地域ごとにグループが分かれていたので、近畿支部で年末に開催されたキックボクシング体験会×忘年会に参加することに。
イベント初参加だったので、参加者も全員初対面。笑顔で打ち解けながら、キックボクシングを楽しみました。このときの主催者が、現在のパートナーです。この時に好感を持ってくれたようで、出会って2週間でお付き合いにいたり、交際ゼロ日で同棲し始めました。
彼はリモートワークで、大阪と香川の2拠点生活をしていたので、車で頻繁に移動しながらの生活でした。体調を崩したりひとりになりたいときは大阪のシェアハウスに帰るものの、基本的には自宅で仕事をしている彼と24時間一緒の空間で過ごす。
私は初対面の人とイベントなどで数時間話したり打ち解けたりするのは得意ですが、知り合ったばかりの人と四六時中一緒にいることは苦手です。相手に気を使い過ぎてしまって疲れてしまうから。でも、彼はちょっとデリカシーに欠けると思うくらい正直で、取り繕わずに接してくれたので、狭いワンルームで何日も一緒にいても、ストレスを感じずに過ごせました。
彼に熱心に誘われたことで運動習慣が身につき、自分は運動音痴ではないしむしろボディコントロールが上手なほうであると気付きました。また、努力しない人間は嫌いだ、痩せなさいと強く諭されたおかげで、本気で減量に取り組み、万年デブからの脱却もできました。
2拠点生活→福岡移住へ
2拠点生活は新鮮で楽しい一方で、根無草になったようで生活が落ち着かず、不満もありました。大阪も香川も、私にとって一生暮らす土地ではなさそうだとも思っていました。
2拠点から1拠点に戻したい、今まで住んだことのないところに住んでみたい、と彼に打ち明けて話し合った結果、福岡に移住することに。このタイミングで両親にも彼と将来を見据えて暮らしていくことを伝えました。
福岡へ引越し完了
急がずに家探しをしようと思っていたものの、内見初日に住みたいエリアで好条件の物件を見つけてしまいました。想定外に早い契約となり、2022年2月に福岡へ移住しました。
引越し前の1ヶ月で2つの拠点を同時に片付け、荷造りをしていきます。
私は大阪移住のときに大量に断捨離をしていたので、本棚と本以外は必要最低限しかモノがありません。一方で彼はモノが多く、処分して欲しい私と残しておきたい彼とで何度か喧嘩になりました。
この頃の私は荷物は少ないほど身軽で良いと心底思っていたので、コレクター気質を全く理解できなかったのです。そこから話し合いを重ね、現在は、持ち物を大切にするために、モノの所在地を決めること、キャパシティを無理に拡張しないことなどが暗黙のルールになっています。今までお付き合いをしてきた方々とは、喧嘩もほとんどなく、短期間で関係が終わってしまったり、言いたいことを飲み込んでしまうことが多かったです。彼はストレートに意見を伝えてくれるので、言葉の鋭さに傷つく場面もありますが、本音でぶつかり稽古をするような面白さも感じています。
仕事面での試行錯誤
東京での施術に通う
大阪移住以降は、毎月東京に施術に行っています。茨城のコワーキングスペースで施術させてもらったり、友人主催のマルシェに出店させてもらいながら、東京赤坂の整体院を間借りして施術をすること。私の施術は一般的な整体とは少し異なり、押したり揉んだりはほとんどせずに優しく触れていくだけ。身体が違和感を覚えないように、姿勢を整えていきます。
大阪に移住した直後は「とみーに会いたいからついでに施術もうける」という方が想定以上にいらっしゃったおかげでご予約はそれなりに埋まりました。しかし、時間の経過とともに私に会いたいが理由の方は施術ではなくお茶や食事の約束になっていき、ご予約数が減っていきます。
自宅サロンを開始するも苦戦
福岡では自宅サロンも開始しました。整体とオイルトリートメントをメニューに据えて、オンラインサロンで知り合った方などに、施術の練習モニターで来てもらい、30人ほど施術させていただくところからスタート。
無料〜3,000円程度の金額でのモニター施術は多くの方からご希望をいただけたものの、正規料金での施術予約には繋がらず。ビジネスとして成立させることの難しさを正面から感じています。
講座を受けてインスタをガチる3ヶ月
終わらないコロナ禍によりオフラインでの出会いが少ないので、オンライン上での出会いを増やそうと3ヶ月のインスタ講座に申し込みました。
講座の教えを素直に実践した結果、元々500人程度だったフォロワーを2800人にまで伸ばすことができました。ただ、顧客獲得に繋げられませんでした。エンゲージメントの低迷と、毎日投稿を目指した結果薄っぺらい内容の投稿になってしまって気持ち悪いなと思うようになり、投稿を中止しました。
またこのときに課題に感じたのが、ボディケアのセラピストなのに発信しようとすると内観を促す内容の発信ばかりになってしまうことでした。身体の施術をしているものの、本質的に興味があるのは心を健やかに整えることなのだと自覚しました。
SHElikesに入会、ライターを志すも失敗
社会人としての経験は、医療業界→セラピストのみ。旅をする機会が多く、オンラインで仕事ができるようになりたいと思ったことから、オンラインキャリアスクールのSHElikesに入会しました。
デザイナーやライターなど、さまざまな職種に対応した授業があります。もともと文章は読むのも書くのも好きだったので、ライターコースをメインに受講していきました。
この間にクライドソーシングのサイトでヘルスケアライターとしての案件を受注したり、SHElikesのライターコンペにも初回で入選でき、ライティングを学ぶことはとても楽しかったです。
しかし、授業ごとに与えられた課題はなかなか取り組めませんでした。また、ヘルスケア領域のSEOライターの仕事は、作業としてはできるけれど全然楽しくなかったのです。
自分の書きたいことを好きなように書くことは楽しいけれど、仕事としてのライティングは好きというよりhave toの作業になっていました。
この契約だけでライター業を諦めるのは時期尚早だし、キャリアパスの最初が低単価であるだけ、経験を積んで単価を上げていけば良いと頭ではわかっているものの、SEOライティングそのものがどうしても楽しめず成功イメージが湧きませんでした。ライターコミュニティに入ってみたり、他の案件も探したものの契約には至らず、ライター業はここでいったん打ち切りにしてしまいました。やり切ると決めて踏ん張ればよかったなと後悔しています。
一方で、ライティングを学んだことでnote記事を書くことは以前よりも楽しめるようになりました。ただ思いを言葉にするだけでなく、構成を組んで伝えたいメッセージを意識して書くようになったことで、以前よりも書きたいことをきちんと書けるようになった気がします。
講義だけをズルズルと消化しても実践しなければ意味がない。今の自分にスキルを身につけて収益化していくモチベーションはないと感じ、半年で退会しました。
デブからの脱却
福岡生活も落ち着いてきた頃に、パートナーから何度も、運動しなよ、痩せなよと度々言われていたものの、ついに「いつまでデブでいるつもり?痩せるか別れるかの2択にするから選んで」と言われてしまいました。
慌てて痩せることを決意しました。
減量開始
とはいえ、かつて自分にかけた「一生痩せられない」という呪いはなかなか強力でした。負荷をかけると反動が大きく、かえって太ってしまうこともわかっています。そのため、少しずつ減量モードに移行していくことにしました。
お酒を減らす、たくさん歩く、ヨガをする、くらいの簡単に取り入れられることから始めて、慣れてきた頃にランニングを開始しました。
パーソナルトレーニングに通い始める
姿勢改善と筋力増強を目的に、パーソナルトレーニングにも通い始めました。月10回プランで通ったので、毎日どこかしらが筋肉痛の日々の始まりです。
ここで、思いがけずセラピストとしての経験が役に立ちました。施術で磨いた身体感覚が、トレーナーの指示を実践するのにとても役立つことに気付いたんです。ちゃんと筋収縮の感覚がわかるし、正しいポジションに入っている感覚が一般的なトレーニーよりも優れているようで、少ない回数でもしっかり狙った筋肉に効くトレーニングができていました。ダンスの経験から形を真似することも得意だったので、通い始めて1ヶ月ほどでボディラインに変化が出ました。
この減量をきっかけに5kg痩せて、フォトウェディングも経験できました。運動習慣がついただけでなく、長年の「私はデブから抜け出せない」という呪いは解けたし、自己肯定感も向上しました。
コーチングを学び始める
Mindsetのコーチングに出会う
旅好きのコミュニティで出会った友人に、とても素敵な人がいます。いろんなチャレンジをしていて、服装もおしゃれで、話しているだけで脳が刺激を受ける感覚のある人です。そんな彼女がコーチングスクールの紹介をしていました。「コーチングがない人生は想像できない」というようなことを書いていて、彼女の魅力の源泉はコーチングなのか?と興味を持ちました。
無料の説明会を受けた結果、受講することにしました。コーチングが面白そうだと思ったのはもちろんですが、コミュニティそのものに大きな価値を感じたことも大きいです。仕事で大きな成果を出したり、趣味で今までにない挑戦をしたり、人生を自分らしく生きることに本気の人が集っているなと思いました。
コーチのプッシュで人生が動く、を経験
私は本や動画で学ぶこと、思考をめぐらせることは大好きな一方で、行動の持続ができないことが悩みでした。やったほうがいいのはわかるけど、動き出せない。ちょっと行動してうまくいかなかったときは、すぐに諦めて現状に引き戻されてしまう。
その現状への揺り戻しの仕組みも認知科学的に理解でき、そこから抜け出すためにコーチが役立つんだということがわかりました。
私自身も、先生や仲間の後押しのおかげで、趣味・仕事で新たなチャレンジをすることができました。減量してウェディングフォトを撮影し、新しい仕事に飛び込み、今までにやったことのないピアノ弾き語りでライブに出演も経験したのです。
コーチになる以外の道がなくなる
コーチになる意志が固まったのは、スクール期間の半ば頃でした。
「私はクライアントの人生を良い方向に向けたいと思って施術をしているのに、コーチングマインドを持ってないとしたらものすごくおかしい。」と急に気付いたんです。
それまではプロコーチになれたらいいな、くらいの気持ちでしたが、絶対に合格するぞと気持ちを入れ替えました。
容量の悪さをセッション数でカバー
スクールの卒業要件はプロレベルのコーチングセッションを行うこと。スクール期間の後半戦は、コーチングのモニターセッションを重ねます。
多くの卒業生が20-50セッションで合格していく、と聞いていたので、合格できないと悩むのは50セッション経験してからにしようと決め、とにかくいろんな方にモニターのご協力をいただきました。
コーチング理論を頭で理解したつもりになることと、クライアントにコーチングを機能させることは天と地ほどの差がありました。セッションを後から振り返った時にまったくとんちんかんな応答をしていて落ち込むこともしばしば。
でも、プロになると決めたので、メンターにフィードバックをもらいながらひたすらセッションを重ねました。
途中ですごく迷ったのは、モニタークライアントとの向き合い方。修行中の私のセッションは、クライアントの人生に悪影響を及ぼすのでは?迷惑をかけてしまうのでは?と思ったのです。
でも、成長のためには経験あるのみ。技術は乏しいけれど、本気でクライアントのことを考え抜くぞと心に決めて臨みました。
合格し、プロコーチとなる
結果として、無事に卒業式までに卒業要件を満たし、プロコーチ認定をいただくことができました。モニターセッションにご協力いただいたモニターの皆様、応援し支えてくれた皆様、改めてありがとうございました!
合格後は、プロコーチとして活動を開始しました。半年契約で継続セッションを提供していきます。
今まさにセッションを提供している最中です。ご自身が今まで棚上げしてきたことに向き合ったり、勇気を出して新しいことにチャレンジすることを、応援させていただいています。
実力不足でもどかしいことも多いけれど、お仕事にできて良かった。さらにパワーアップしてクライアントに還元していきます。
振り返っての気付き
人生を通してずっと好き
こうして振り返ってみると、ずーっとコミュニケーションで悩んできたし、スキルを身につけたくて新しい学びに飛び込んできた人生でした。
目標に向かってやり切るためには人の支えが必要だってことを強く実感したし、人に頼らずに1人で頑張ろうとしているものほど、うまくいかないとすぐに諦めてしまったなって気づきました。理学療法士試験やコーチングなど、うまくいったときは周りに頼れているし、ライターやSNSなど、うまくいっていないものは1人で頑張っているなと。他力なしで変革は起こせない
そんな中で、ずっと好きなのは
人と話してその人の本心を知ること
触れ合うこと(転じて施術者になりました)
おいしい食事を好きな人と一緒に食べること
歌うこと
もはや人生の一部になり過ぎていて、自分史を書くときにあまり出てこなかった。笑
自分の人生を生きるために、親を乗り越える
金銭的にも、愛情面でも、たくさん与えてもらって育ってきました。だからこそ、33年間の人生の大きなテーマは親離れだったと感じます。
高校や大学を選ぶときも、就職先も、その後の働き方や住む場所も、父親のOKがもらえることが大前提でした。
自分の選択を親に反対されたら傷ついたし、賛成してもらえる道が正しい道なんだと思い込んでいました。
それでも少しずつ、親の意見が必ずしも正しいわけじゃないと思ったのはフリーランスを志したときです。就活をしていた大学生の時は、就活がうまくいかないのも親に反対されるのも自分が間違っているからだと思っていました。
フリーランスになろうと思う、と話した時に、両親と自分は別の人間だし、そもそも生きている時代も見ている世界も違っていて、だからこそ意見もズレるのだと気付きました。
親の人生と自分の人生は別物で、人生の舵は自分でもつもの。私は親離れする必要がある。そう認識できるようになりました。
それでも、反対を押し切っても行動に移せるようになるにも時間がかかりました。親の顔色を伺わない自分になるために、地方に引越したといっても過言ではありません。それくらい、親の意見は絶対だと思っていたし無意識に影響を受けていました。
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