権威が法を乗り越えるとき

 ふと、最近の日本の政治動向を眺めていて、法はどのように守られるのかな?ということを考え始めた。法というものは意外と簡単にないがしろにされてしまうものかもしれない。

 たとえば2014年7月、集団的自衛権の問題が結局は「法の解釈」ということで閣議決定されたということ、また、最近でいえば2020年10月、菅政権が日本学術会議から出された105名の候補者のうち、6名について「任命拒否」を行ったことが挙げられる。学術会議の会員候補者の任命拒否は、総理に任命権があるので、一見問題がなさそうに見える。だが、総理に任命権が与えられたのは1983年の中曽根総理の時代で、そこには別の課題があったようだ。当時まで学術会議は公選、つまり立候補者から選ばれた者がなる、という形式だったが、立候補者が減少していた。このままだと思想が偏ったり、質の低下が起こる懸念もある、ということで学術会議が推薦する会員を総理が任命するというかたちを取ることになった※1。

 これらの問題の詳細についてはともかくとして、「法や慣習的に決められたことが、突然覆される」ということに興味を持った。集団的自衛権問題については、憲法の解釈が変えられた。学術会議任命拒否問題については、今までの総理が主張してこなかったことを、「任命権がある」として主張し始めた。どちらについても権力の拡大に関わることであるが、そういえば似たようなことが過去にあったな、と思った。

 1933年1月30日、ヴァイマル共和国のドイツで、アドルフ・ヒトラーがヒンデンブルク大統領によって首相に任命された。
ヒンデンブルク大統領は、第一次世界大戦の英雄として国民に絶大な人気があった。しかし、保守的な人物で、左派の拡大をよく思っていなかった。これにはもちろん、大戦時にソビエトロシアが成立したことに危機感を募らせたということもあるだろう。

 ナチ党は1932年の選挙で国会の第一党ではあったが、国会議員の過半数は取れておらず、また同じく右派の国家人民党と合わせてもまだ過半に達しなかった。石田勇治は『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書、2015)で、この選挙以前にナチ党は人気のピークを迎え下降していた、と指摘し、これを「ヒトラーのカリスマ性の限界」と述べる。

 では、なぜ圧倒的な権力を握ることになるのか。前述の石田の分析では、ナチ党成立前に、大統領と国会の間で齟齬が生じ、大統領緊急令が多用され始め国会が形骸化するという状況が生まれていた、とされている。
 大統領が緊急令を出しても、国会はそれを覆すこともある。だが、大統領には国会を解散させることができる。しかも国会は野党が乱立していてどこも一党で過半数を取れる状況にはない。1932年の選挙ではナチ党が第一党になったとはいえ、共産党も躍進していた。ということで、1930年以降のドイツでは国会の会期日数が次第に減り、大統領緊急令の数が増していった。大統領緊急令で政治が行われる状況になっていたのだ。

 アメリカにも大統領令という、大統領が単独で出せる便利な法律がある。ただし、1963〜69年のリンドン・B・ジョンソン大統領などは、「大統領令なぞ、大統領が変わったらどうせあっさり打ち消されてしまう」と述べている(※2 どこから聞いたかソース忘れた、すいません)。ケネディの暗殺により棚ボタで副大統領から大統領になったジョンソンらしい台詞と言える。大統領令は議会が廃案にすることができ、また最高裁もそれを無効にすることができる。つまり、議会が定める法より堅実ではないものとみなされている。
 現代のアメリカでも、トランプ前大統領が大統領令を頻発し、現バイデン大統領が就任直後にさっそく同じく大統領令でそれを打ち消していく、ということが行われている。

 ナチスドイツに話を戻すと、ヒンデンブルク大統領のもと首相となったヒトラーは、33年3月、「政府が立法権を得る」という授権法を無理やり国会で成立させた。ここでまず完全に国会が有名無実のものとなった。
さらに、1934年8月にヒンデンブルク大統領の死去に伴い、あらかじめヒンデンブルクの死去直前に成立させた国家元首法により、大統領と首相の権限を併せ持つ「総統」という憲法に記載のない独裁的な地位に就いた。

簡単にまとめれば、ヒトラーは、自身のカリスマの限界を悟ったところで、ヒンデンブルクの権威を借りて自身の権威を最大化することに成功したのだと思う。ヴァイマル憲法を改めて参照すれば明確に違憲となることが、権威によって乗り越えられた。

 ここで、その合法性を問うても意味がない。法を法として成り立たせる権威が、ヒトラー個人の権威に敗れているからだ。どのような法も……明文化された法も、慣習法も、正当な手続きを経た法も、そうでない法も……権威なくして成り立たない。だからもし、法よりも独裁者を選ぶことに民衆が従うのなら、独裁は成立する。これは、民衆が独裁を選ぶ、つまり民主主義的独裁という意味ではない。民衆はいつのまにか、不正選挙の結果、既成事実の積み上げ、無言の圧力などで権威を与えられた独裁者にその自由に反して逆らえなくなる。

 そのように考えると、アメリカで1月6日に起こった議事堂襲撃事件は大変興味深い。暴徒のスローガンは「ペンスを吊るせ!」だった。当時の副大統領マイク・ペンスはその前日、トランプ前大統領に上下両院合同会議で大統領選挙の結果を覆すように要請されており、それを断っていた。まず、そのようなことは法的にはやってはいけないと書いてはいないかもしれないが、当然やるべきではないことは言うまでもない。それは選挙の結果を上下両院が確認するだけの形式的な儀式なのだ。この点で日本の学術会議任命拒否問題と似ている。総理が会員を任命するのは形式的なものに過ぎなかったはずなのだ。
 また、暴徒が議事堂に乱入した、ということについては、暴徒たちには当然法的にさまざまな罪があることが分かっていた(そして実際に次々に逮捕されているようた)。ところがその直前に行われたトランプ前大統領のホワイトハウス前での演説で、彼らは議事堂を襲撃する正当性を得たと感じた。彼らの中で、トランプ元大統領の権威が、法の権威に勝ってしまったのだ。暴徒たちはおそらく一人残らず逮捕されるだろうが、これはただごとではない。法的には許されていないことをできる権威を、ドナルド・トランプという個人が一時的にせよ得たことが明らかになったからである。

 もちろん、トランプはすでに大統領職を退き、Twitter、Facebookアカウントの停止など、彼の権威の維持を難しくさせる要素は多い。とくに上記二つのSNSアカウント停止は、発信力の低下を招き、権威の下落は避けがたいだろう。

 あらためて、法はいかに守られるのか考えたい。法にも権威が必要だ。議会制民主主義では、選挙で選ばれた議会が立法権を持ち、法を制定する。このことが法の権威を保障している。ただ、もし、議会の力が弱まれば、いや、「弱まったように見えれば」その権威は損なわれ、法の軽視に繋がってしまう。何かの集団が、「法を破っても平気」だと思えることがあっては、まずいのだ。
 もし、「議会に意味がない」という意識が浸透すれば、ナチスドイツのようなことが再び起こりうる。また、いま現在でも平気で破られている法というのはいくらでもある。それらはある権威によって、「破ってもいいことが保障されている法」であり、そのこと自体が慣習法ようなものになっている。「法の柔軟な運用」という言葉も、それを指していると思っていい。
 とにかく、法というものが、ときに紙切れに書いた空虚な文言に過ぎなくなる瞬間もあるのだな、ということをここ最近の日本の出来事、アメリカの事件を通して実感した。

 それにしても、恐ろしいのは、民意によっても権威は形作られるということである。そして民意は国勢調査や世論調査ならまだしも、たとえばTwitterや、Facebookの「いいね」数でも形作られてしまう。それらは仮想上の民意だが、少なくとも現在はある程度の影響力を持ってしまっているように見える。これらスマートな民意は、今のところ少し害が目立つようだが、今後我々が持ってあたはずの民主主義的な法や慣習、流儀を守るためにどうすればよいのだろうか?


※1……「学術会議「政府は形式的任命」 中曽根氏答弁の裏であったせめぎ合い」、毎日新聞オンライン、2020/11/20
https://mainichi.jp/articles/20201120/k00/00m/010/119000c

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