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【エッセイ】たなかという肉体、ぼくりりという概念、そしてDiosへの陶酔

 僕が「ぼくのりりっくのぼうよみ」という歌手を知ったのは今から2年と少し前、2019年の1月の事だった。そしてその月の終わり、彼は死んだ。

 あの時、「ぼくりり」はすでに彼自身のものではなくなっていた。当時ぼくりりはよくメディアにも取り上げられていたし、何より大勢のファンがいた。そうした沢山の人や物がぼくりりという概念を定義付けていたように思う。

 そうしているうちに概念だけが一人歩きして、やがて暴走をはじめた。それは彼自身ですら止められなかったし、止めるつもりもなかったのかもしれない。だから、彼はぼくりりを殺した。自らの手で葬る事で自由になろうとした。

 本当は違うストーリーがあるのかもしれないけれど、少なくとも僕にはそう見えた。

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 そして、彼は残った肉体と魂に「たなか」と名付けた。

 ぼくりりではなくなった彼は楽しそうだった。

YouTubeに出たり、

ボルダリングをしたり、

焼き芋屋さんを始めたりしていた。

 僕は、彼のそんな姿を遠くから眺めるのが好きだった。彼には純粋に幸せになって欲しかったし、それが僕の幸せでもあった。

 同時に、ぼくりりの曲も毎日欠かさず聴いた。僕は彼の歌声と曲が好きだ。それはまがうことなき事実だ。そして、たなかとぼくりりは同じ声だ。それも確かに事実だった。

 そうしているうちに、たなかは逃避行というシングル曲を引っ提げて、Diosというバンドを立ち上げた。

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 この曲は難しい。分からないことが沢山ある。



MVの男女は何から逃げているのか



彼らはどこに向かおうとしているのか



魚と鉢は彼らのメタファーなのか



彼らは向かう先に何を求めているのか



赤く散った魚は何になったのか



彼らが水へ飛び込むことは何を意味するのか











たなかは本当は何からも逃げられないことを知っていたのか














 いや、もうやめよう。本当はそんな事どうだっていいはずだ。正解のない問いの答えを探すことになんの意味があるのだろう。

 答えがあるのはただ一つ。たなかとなった彼はこの世に存在していて、音楽の世界に戻ってきたということ。

 そして、僕が言うべき言葉もただ一つ。

「ありがとう」

 伝わらなくたっていい。インターネットの海に僕がこの言葉を放ったこと。その事実だけで十分だ。

(Tom)

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