【長編小説】さよならぼくたちの探偵団②
一章 田中くん─2
1
旧校舎へ行くのは結構骨が折れた。まず、四年一組がある二階から一階に降りる。これは普通の下校時と何も変わらないからOK。
けどそのあとが面倒ではあった。一階から旧校舎へは渡り廊下を使わなければ行けないんだけど、まず一度、体育館行きの渡り廊下と間違えてしまう。ぼくは転校時に旧校舎への道のりを案内された覚えがなく、苦労した。
そしてそこからがまた大変で、なんとか旧校舎の廊下は、なんというか奥に長い。しかも、どうやら色んなクラブの部室として使われている部屋が多いみたいで、奥から四番目といっても、確認するのには冷汗が必要だった。現に一度間違えて開けてしまっている。色んなほこりをかぶった箱があり、よくドアを見ると「ボードゲームクラブ」という小さな表札があることに気づく。中に誰もいなかったのが救いだった。
だから、表札を確認しながら奥から四番目の部屋を尋ねようとしたのだけど──そこには、「美術部」という表札がかけてあった。
「美術部……?」
困惑して息を漏らす。
また間違えたのかと思ったけど、いや、さすがに間違ってはないはずだ。廊下の一番奥の、直方体のふたをするように突き当りに設置された「バドミントン部」の部屋を数え直したから、もう計算ミスはない。
でも、じゃあどうして……?
気が弱いぼくなので(自覚はある)、普段ならここで帰ってしまっていたかもしれないけど、今日は決心に満ちていた。これからぼくの「計画」の第一歩を踏み出すのだ、勇気を出さなくちゃいけない。
第二美術部室のドアを引くと、そこには田中くんと、もう一人、見たことのある女子生徒がいた。
「あ、」
ぼくは何をいうより前に安心した。田中くんが指定していたのは、ちゃんとここで正解だったみたいだ。
気が抜けて間抜けな声を漏らしてしまったのは、なんとか見逃してもらうことにしたい。田中くんの目の前に置いてある、本当は学校に持ってきちゃいけないはずのサイダーの情報と交換でどうか。
などと小粋なことを言いだせるはずもないので素直に会話することにした。
「かーくん! 来てくれたんだ」
「う、うん……、ぼく、山肥くんの隣の席だったし、登校班も一緒だから」
なぜか舌が義務感で仕方なく来たのだと主張している間に、もう一人の冷静なぼくが部屋の中をざっと見渡した。
広くはない部屋で、直感的には十二畳くらいだと思う。学校で使うことがあるスペースの量とは思えなかったけど、ほどなくして理解した。奥に暗幕がかかっていて、あそこにもし物置なんかがあれば、実際のスペースはいまの倍以上は広くなりそうだ。入るときの二枚のドアの位置を思い出し、だいたい三十畳くらいの部屋を割って、横長にして使っているのだろうとあてをつけた。
ガラス蓋付きの棚がいくつかあって、蛍光灯の電気がそれらを照らしている。もっとも何かの資料らしい本ばかりで気になるものはない。
そして、二人は長机に向かい座っている。
「嬉しいよ! えっと……何から話したらいいかな」
入団希望ということはいわずとも伝わったらしい。イベント感がなくて拍子抜けするけど、田中くんの早とちりに異議を申し立てる理由もなかった。逆に、田中くんでもそういうことがあるんだな、というささやかな親近感が嬉しいとすら思った。テンションが明確に上がっている。
とはいえ、上がりきっても恥ずかしい。この部屋には、ぼくのよく知らない子がもう一人いる。
ええと。たしか、名前は……。
「……はじめまして」
「えっ」
うかがっていると、喋らずに本を読んでいた背の低い女の子が、急に口を開いた。
そしてそれっきりで、まるでもう必要なことは全ていったとでも主張するかのように……本に目線を固定したまま、黙ってしまう。
読んでいるのは、よくわからないけどたぶん推理小説だった。読めない字のあとに、『館の殺人』と続いている。
「あ、あの」
せっかく来たんだからと勇気を出そうとしたけど、話そうにも名前を覚えてないからやり方がない。同じクラスであることまでは疑いがないんだけど……。
半端に声を出してしまったのでたじろぐ。田中くんはそんなぼくを不思議そうに眺めている。ああ、くそう。これでも、転校前に配られた名簿の名字くらいは全員分覚えてるんだけどな。顔と名前が一致しない。失礼だけど、誰だっけ?
ぼくが焦っていると、
「……涼曇」
「すずぐもり、さん?」
「そう。あたしは、涼曇音歌」
これから一緒にやっていくんだから覚えておいて、とはいわれなかったけど、暗にそんな意図を感じるような、親しみと厳しさを兼ね備えたような声だった。
やわらかそうな頬がほとんど動かないのを見て、ぼくは、この子は本当にほとんど曇り空みたいな感じなのかもしれないと直感する。
表情筋が死んでいる。
「よ、よろしく。涼曇さん」
軽く頷いた彼女の視線はもう活字の中だ。さっきの「はじめまして」から察するに、ぼくは涼曇さんと、転校してきてから向こう一度も喋っていないんだろう。そしてこの子は、その履歴を完璧に覚えて学校に来ているんだろう、と考えた。
ぼくたちの様子を見ていた田中くんが、ようやく口を挟んできた。
「あー、そっか。改めて自己紹介するのが一番かもね」
手を合わせた田中くんを見て、苦手な流れになったと直感する。
たぶん、田中くんは、ぼくが涼曇さんの名前を覚えていないとは思わなかったのかもしれない。だからいまの名乗り合いを、アイスブレイクの時間だと思い込んだ。
もしくは、ぼくが彼女の名前を覚えていなかったことをうやむやにするために、改めて自己紹介パートを挟もうとしてくれたのかもしれないけど……、だとしたらさすがに聖人すぎる。ただ、聖人という言葉では、クリスチャンである母親のことを思い出してしまうので、そこは一度あんまり考えないようにした。
促され、自己紹介をする。
「えっと、ぼくは……」
名前と、いちおうあだ名。転校してきたこと。クラブ活動は入っていなくて、人数確保で保健委員に入ったこと。趣味が特にないこと。
「……以上です。よ、よろしく」
ぼくは自己紹介をしながら、自分はなんてつまらない人間なんだと思ったし、その次の山肥くんの自己紹介を聞いたあとはもっと自分を恥じた。
サッカークラブと野球クラブに入っていて、どちらもガチでやってるわけじゃないけどよく助っ人に呼ばれること。休みの日は弟とゲームで遊ぶこと。
色とりどりの友達になりたい情報が舞い込んできて、ぼくは少しだけ、胸焼けしそうになった。
ただ、涼曇さんは、
「……涼曇音歌、A型。好きなのは、考えること。歌が得意じゃなくて、字を書くのが得意じゃなくて、髪を整えるのが得意じゃなくて、運動が得意じゃない。美化委員会に入ってる。美術部にも、入ってる」
「そ、そうなんだ」
というところで。
ぼくにすれば、いまどきAIでももう少しマシな自己紹介ができるだろう、というのが正直な感想だった。
髪を整えるのが苦手というけど、見た限りだと涼曇さんの髪は綺麗なボブカットに溶かされていて、艶のある黒さを見せている。よって、そこは本人の判断基準があるんだろう。運動に関してはたぶん客観的に見ても本当で、見学ばかりしている印象がある。
「美術部ってことは、ここは?」
ぼくが尋ねると、田中くんが代わりに(か、どうかはわからないけど)答えてくれた。
「そうそう。美術部は、スズくらいしかちゃんとやってる部員がいないから。本当はだめなんだけど、この部屋、使わせてもらってる」
「ふうん……美術部なんて、もっとたくさん人がいてもよさそうなものなのにね」
「それがさ、『第二美術部』に吸われちゃってるみたいで。あっちはイラストとかも描くから人気があって、普通に絵画をやりたい人まで流れちゃってるらしいよ」
なるほど、そういうことか。
紛らわしくても表札に「少年探偵団の部屋」とは書けないわけだ。
「じゃ、正式に少年探偵団のメンバーが一人増えたことだし!」
田中くんが唐突に音頭をとった。
一人増えた……ぼくも結構ぬるっと加入してしまったけど、まぁ仕方ないと思うことにしよう。そうだ、田中くんたちにしてみたら、今日集まった目的は、決してぼくの歓迎会なんかじゃないんだ。
今日集まった目的は──。
「そろそろ始めようか!」
田中くんの視線の先を追って、ぼくは、はじめてこの部屋にホワイトボードがあったことに気がついた。
2
あとからほかのクラスメイトが来る、という可能性もないとみてよさそうだった。そもそもぼくがここに着くまでにだいぶ手間取ったので、もう十分時間が経っている。それに、あの旧校舎の廊下の空気は、お世辞にも人を寄せつけるとはいえない。
なのでぼくたちは会議に入ることにした。
ぼくも、永律小四年一組、少年探偵団の一員として。人数が少ないから実感はわかないけど。
「そういえば、もう一人は今日はいないんだね。さっきは『三人のメンバーがいる』っていってたけど」
と、聞いてみると、どうやらもう一人の団員の男子生徒はしばらく学校に来ていないらしい。
顔の浮かぶ男子との消去法で、名字は「二野」か「三枝」だろうとあたりをつけた。どちらかは不登校児ということになる。
家に行ったり、電話したりすれば推理に参加してくれるらしい。
「さて、それでは」
田中くんがホワイトボードを引っ張り、黒のマーカーで書きながら前説を始めた。こほん、と咳払いが入る。
いよいよだ。
「推理会」の、始まり。
「今回の事件は、山肥くんの給食費が誰かに盗まれたというものです。
事件当日の六月七日は、おれたち四年一組の給食費回収がある費でした。各自、封筒か何かに、指定の六三八〇円を入れて学校に来たはずです。
しかし、いざ五時間目の回収の時間になったとき、山肥くんのランドセルからは給食費が見つかりませんでした。
これは、そんな大金を午後の時間まで回収せずにいた学校側にも責任がありそうだけど……、それはいったんおいておくとしましょう。何せ、先生方は運動会の準備で忙しかったみたいだから。それに、先生の責任を問うても仕方ない。
あくまで、誰が盗んだかだ。
かーくんの証言では、山肥くんは登校時には確かに給食費を持っていた。それを取りに戻るために遅れたくらいなので、これははっきりと覚えている。
だから、考えられる可能性は主に三つだ。
① 登校中に盗まれた。
② どこか、かーくんの見落とすようなときに盗まれた。
③ 盗まれたのではなくて、落とした」
田中くんは主に「①、②、③」の部分をわかりやすく白板に書いた。まだまだ余裕で余白がある。
「いくつか、いいかな」
ぼくは手を挙げた。雰囲気づくりである。……涼曇さんが冷めた目線を送ってきたような気もするけど、気にしない。
「登校中に盗まれたっていうのは、ないと思う。なぜかというと、ぼくは山肥くんのすぐ後ろについて登校してたんだ。みんなもそうだと思うけど、登校班は一列だからね。何かあればすぐにわかるはず。
それと、山肥くんは給食費を、ランドセルのチャックがついたところに入れていたんだ。それを閉めたのもぼくは見てる。だから、何かの機会がない限り、落としたっていうのは考えにくいと思うな」
「そうか。じゃあ、①と③は排除してよさそうだね」
とはいいつつも、まだ白板にクリーナーは使わない。田中くんはペンでそれらの可能性へと重ねて線を引くだけにとどめた。いちおう考慮した証を残しておくのが、少年探偵団流なのかもしれない。
「となると、かーくんの目が重要になってくる」
田中くんは自分の左目にひとさし指を立てた。
「えと。ぼくは山肥くんの隣の席だから、ランドセルに不自然な触れ方をする人がいたら気づくと思う。もう時間が経ったから断言するのも怖くなってきたけど……、あの日に関しても、覚えはないよ」
「ふむ、なるほど」
「ただし。あの日は、昼休みに田中くんと話したことがあったよね。そのあとぼくはトイレに行ったんだ。移動時間を含めると、十分から十五分くらい、教室にいなかった時間があるはずだと思う」
もちろん、ぼくが見落としただけという可能性もあるけど。
でもいまのところ、そのつもりはない。
「じゃあ、その空白の時間が焦点になりそうか。……ちなみに、六月七日は水曜日だったから、時間割は、国語、算数、体育、理科、総合になるな」
「そこなんだけど、ぼくも考えた。体育の着替えの時間なら、机の脇にかけてあるランドセルに触っても不自然じゃないってことだろう?
けど、山肥くんのランドセルが机の右側にかけられていたのに対して、体育袋は左側にかかってたんだよ。だから紛れるはずもないし、もちろん注意して見た自信はないけど、ランドセルのチャックを開けるような手間は誰もしてなかったはずだよ」
うん、と田中くんは頷いた。
「ちなみに、あなたの体育袋はどっちにかかっていたの?」
そこで突然、それまで黙っていた涼曇さんから質問が入る。
「左側だよ。山肥くんがランドセルが右側にかけたから、そっちの方により小さい荷物をかけようと思うでしょ」
「ええ、そうね」
それっきりで、涼曇さんは言葉を終えてしまった。
そっけない。
……ちなみに、教室の後ろにある荷物用ロッカーはいま、使えない状態になっていた。
永律小は運動会のときに対外的な学校見学を兼ねるのだけど、そのときに保護者に睨まれないようにロッカーの塗装を塗り直したのだそうだ。それは事件の二日前である五日から、その週の登校終わりの九日まで続いた。
一年生のときにも同じことがあったらしく、どうやら三年おきに必ず行われているらしいことは噂でわかっている。
「少し話はずれるけど──そこがさ、参るよね。後ろのロッカーにみんなのランドセルが密集してるような状態の方が、中身は盗みやすいはずだ。にもかかわらず、犯人は堂々と机の脇から盗みを行った」
「堂々と、じゃなかったかもしれないよ。ぼくがいった、教室に誰もいない十余分の時間なら簡単だったはずさ」
「ああ。なるほど、そっか」
度々ペンを躍らせていたため、ホワイトボードにはもうそこそこの書き込みがある。整然としていて見やすい。田中くんのノートもきっとこんな感じなのだろう。
何一つ推理は進んでいないけど、田中くんと対等に話せている感じがして嬉しかった。
ただ。
「じゃあ、スズはどう思う? この事件、どうしたら解決できるか」
田中くんが涼曇さんに聞くと、
「──まだ考慮されてないのは、あなたが犯人である可能性」
と。
ぼくの方を見ながら言ってきた。
「……え? ぼくが?」
「だって、いままでの話は全部あなたの証言をもとにして進められているわ。昼休みの間一人で教室にいたあなたなら、その間になんでもできるんじゃないのかしら。万が一廊下から誰かに目撃されても、自分の机の左側にかかっている体育袋を見ようとしただけだといえば片がつくわ」
鋭い眼光に撃たれるようだった。
まさか、そんなことをいわれるとは。
「ちょ、ちょっと待ってよ! もしぼくが犯人だったとしたら、『盗まれた』なんていうはずないじゃないか。それに、ぼくのいったことを同じ登校班の子に確認すれば、すぐに全部本当だとわかるはずだよ。そんな楽にばれる嘘をつくはずがないよ」
「ええ、そうね。だから、あなたは犯人ではない」
涼曇さんはそういって、また顔を逸らした。
ええ?
あっさり、引き下がった……。
「ああ……ごめんね。スズ、こういうとこがあるから」
「何も、犯人だって告発したつもりはない……。それとも、いまの話し方は失礼だった?」
目が合うと、それが嫌味でもなんでもなく、本当に失礼だったかどうか確かめたがっているような意志だということがわかった。
……この子は、このぼくより人との距離感が測れないのかもしれない。
「でも、可能性として考慮することは必要だったわ。そのおかげでいま、『あなたは犯人じゃない』という確証がとれたんだもの。ようやく、犯人候補が二十九人から二十八人に減った」
「二十八人──すると、涼曇さんは犯人が同じクラスの中にいるって思ってるの?」
「限定されうるという意味でなら、そう。目的がお金だったなら、わざわざほかのクラスに忍び込む危険を冒すとは思えないわ。給食費の回収日は全校生徒が共通だもの」
たしかに、それもそうか。
目的がお金、と聞いて、ぼくはなんだか少し違和感を覚えたけど、口にするか迷った。どうして山肥くんの給食費だけが盗まれたのか、というところが、いまさら強い違和な気がしてきたんだ。
けど、それを考えるのはまだ先という気もしたし、何よりそれは、さっきなかったことになった「ぼくが犯人である可能性」の疑いを強めるだけだとも思ったので、やめた。
いちおう考慮した証を残しておくのが、探偵団流……かぁ。
「まぁ、そういうことで! 犯人じゃないかーくんの話を聞けただけでも、今日はよしとしようか」
明るく努めている田中くんがホワイトボードにクリーナーをかけた。
彼には悪いけど、まだちょっと面食らっている。ぼくは本当に犯人ではないんだ。
俯いて考え込んでいると、
「疑うことで、ようやく信じられるという場合もあるの」
と涼曇さんが呟いてきた。
それはぼくに対する彼女なりの謝罪の言葉だったのかもしれないし、ほかには、もしかしたらお気に入りの推理小説からの引用だったかもしれない、とぼくは思った。
解散の合図の前に、田中くんがクラスの席順をまとめた紙を配ってくれた。田中くんはぼくの左前に、涼曇さんはぼくの右後ろにいた。二人とも近くはない。
3
それから二日経った。
六月十四日。水曜日。
連続で話し合ったんだけど、一向に答えは見つからない。涼曇さんは大部分で寡黙に過ごしているし、田中くんの言葉はいままでの流れを整理するだけだった。
ぼくは、おそらくは涼曇さんとは違い、何も思いつかないという理由で沈黙ばかりしていた。すでにならされたグラウンドにトンボ掛けをするような手ごたえのなさが積もっていく。
けど、同時に、ぼくたちは真相に向かっているんという自負は芽吹いてきていた──。
ぼくは人見知りをこらえて、独自に他クラスへの聞き込みも実施した。内容は、あの昼休みに四年一組へ出入りした人はいなかったか、というものだ。結果は田中くんとぼくの名前が挙がるのみだったけど、「やった感」はあった。
そして、今日も帰りの会が終わった。
開放済みのロッカーから取り出したランドセルを背負って。ふと、遠くの窓を見やる。梅雨には珍しい晴天だ。騒がしい子どもの同級生たちの声を聞き流しながら、ぼくは、なんとなく……、もうすぐ犯人がわかるんじゃないかと前向きな気持ちになっていた。
そして、あとの結論だけを、いえば。
ぼくのその予感は完璧に当たっていたということになる。
4
水曜の放課後は学級委員会の活動があるらしくて、田中くんはそっちにいってしまった。でもそんなにかからないといっていたので、待つことにする。
根性をきかせているうち、長引いたのか、四十分くらいあとに田中くんはクラスに戻ってきた。
「ごめんね! 待ってなくてもよかったのに」
べつに、暇だったから。そういったのは嘘ではなかった。水曜日は、ぼくが急いで帰らなくてもいい日なんだ。むしろ、普段の活動の遅れのほうがそろそろ母さんに詰められそうで、
いやいや。
ぼくは田中くんと一緒に帰ることになった。いうまでもないけど、涼曇さんはいない。あの人は毎日、帰りの会が終わってすぐに姿を消す。部室にいっているのか用事で帰宅したのかわからないことが結構あった。
昇降口を出て、歩んだ。ぼくんちの近所は都内の市内なら百回は見られる平凡な風景だけど、永律小の周りだけは、歩道に花壇が埋め込まれたカラフルな道が特徴的だった。ぼくの好きな道。
ぼくは少し前をいく黒いランドセルに話しかけた。
「ねぇ、事件、解決できるかな」
「できるよ。絶対に」
左手に、どこかの家の庭からアサガオが見えた。
「……おれさ、感謝してるんだ」
「え?」
「だって、あの呼びかけで少年探偵団に入ってくれたの、かーくんだけだったからさ。たとえ情報を持ってるって責任感があったんだとしても、嬉しかった。あんなの、『犯人を捜します』って宣言するようなものなんだから、じつは内心結構ひやひやしてたんだよ」
「ああ……」
いわれてみれば、たしかに危険な提案だったかもしれない。「このクラスの中に窃盗犯がいるかもしれないので、おれたちでそれを捕まえようと思います」というのは。
もちろん、そんな直接的ないい方はしてなかったはずだけど、反感を買っても仕方ないかもしれない。
でも、ぼくは田中くんが善意で動いていることを知っている。この、ぼくの憧れの人は、学級委員長として、クラスの、そして山肥くんの平和を取り戻そうとしているんだ。まだ子どもなのに、大人からその責任を代わって。
それはぼくの理想とするような小学生のあり方だった──。
「こちらこそ、すっごく感謝してるよ! 田中くんが一緒に考えてくれるおかげで、毎日退屈しないんだ」
いったあとで、しまった、と思い口を塞いだ。言葉選びがよくない。
しかし田中くんは「いいよいいよ」と、振り向いて笑いかけてくれた。その笑顔は足元に咲いているどれかしらの花にも形容できそうだ。僕は田中くんに、さらに話しかけた。
「そうだ。ねえ、これから、もう一人の団員の家にもいってみない? また何か違う見方を教えてくれるかもしれないし。それに、ぼく気になってるんだ、二野くんがどんな人なのか」
ちゃんとクラスを見た結果、不登校の団員は「二野敬」くんだということがわかった。
ぼくは知らないけど、田中くんなら彼の家を知っているはずだ。実はすでに、ぼくの家にいくのとは違う道に進んでいるんだけど、それでも田中くんについていくのをやめなかったのは、この目的が最初からあったからだ。教室で辛抱強く待ったのもこのため。
しかし、
「──いや、その必要はないかな」
田中くんは、断言するような力強さをもって、ことわった。
そして。
ぼくが心の準備をする間もなく。
ぼくが心の準備をするまでもなく。
「んー……、そろそろいいかな?」
急に歩道を立ち止まり振り返ったかと思えば。
田中くんは到底信じられないようなことをいった。
「──おれなんだよね、山肥くんの給食費盗んだの」
僕は……とまどった。
何を、言ってるんだろう?
「ど、どうしたの急に。そんな冗談、田中くんらしくないよ」
脳が追いつかず、展開を挟む。
しかし一蹴される。
「冗談、ねぇ……。うん、まぁ、かーくんの立場やかーくんの頭じゃそう思うかもしれないね」
サイレントにぼくへの謗りが混ざる。
歩みが止まったここは、交差点に差し掛かる広めの歩道だ。田中くんは無作法にガードレールに寄りかかった。
「でもさ。ほら。スズが言ってたろ? 疑うことで、より強く信じられる場合もあるって」
「ああ」
それを聞いて、ぼくは半分安心した。田中くんは、ぼくにわざと自分を疑わせて──というより、自分が犯人であるという仮定を通して結束を深めようという魂胆なんだ。
でも、もう半分の心がおぼつかないままだったのが、ぼく自身でわからなかった。
彼が、その割にはにやにやしているからかもしれない。
田中くんはゆっくりしゃべった。
「……まず、『きみ』が昼休みに席を外した、例の十分少しの間に犯行が行われたとする。その時間に教室に近づけて、かつ近づく動機が存在したのは?」
「それは、ぼくを除いたクラスの二十八名の中から……」
「違うって。転校前の学校はそんなにアイソレーションがひどかったかい? ずっと教室にいるきみには、たしかに思い当たりづらいのかもしれないけれど、みんな、友達と一緒にサッカーなりバスケなりやってるんだよ。それ以外の動機で教室から出ることは少ないし、あったとしても、赤城くんと日ノ本さんみたいなクラス内カップルが人目を避けようとするくらいじゃない? まぁ、つまり──当時、ほとんどの人にはアリバイがあったはずだ」
いわれて、はっとする。気づかなかった。涼曇さんが「二十八人に絞られた」といったのは、あくまでも机の上での計算の話。実際に聞き込みをして裏をとれば、事態はもっと単純化できる。
「スズは安楽椅子探偵を気取るところがあるからね、もっともその傾向はニノも同じだけど。さて……、じゃあ、蓋然性に注目するために、わかりやすく全くアリバイのない人物の数を『五人程度』と考えようか」
がいぜんせい。まだ知らない言葉を使われたぼくは、田中くんが広げた五本の指をじっと見た。
そのうちに額に汗がにじんできたのは、六月の湿度のせいだと信じたい。
「その『五人程度』のうち、二人はもう既に確定しているね。一人は、もちろんきみ。もう一人はおれ」
「でも、ぼくたちは一度会っているじゃないか──」
「それはアリバイとはいわない。わかるだろ? 現場不在証明──『現場』を『現』と『場』、つまり時間と空間の組み合わせだとウィットで捉えてみるなら、この場合は前者が違う。犯行時刻との同時性がない。
それに、きみはメンバー秘匿の探偵団で、堂々と他クラスまで聞き込みをしてくれたんだろ? じゃあ、その結果を教えてくれよ」
「それは……」
言いたくなかった。
ぼくと田中くんしか、昼休みに四年一組の教室に出入りしたという目撃情報はない。
「田中くん、もしかして本当に──」
いおうとした瞬間。
殴られた。
右頬を、かたい拳で殴られた。痺れと勘違いするように鋭く、しかも鈍い痛みが頬に走る。全くの本気というわけでもなさそうで、痣が残ったりすることもなさそうだったけど、それでもその突然さは、ぼくの歯のもとに陰湿な衝撃を加えてきた。
「どう、して?」
ぼくがいっても、田中くんは真顔だった。この委員長にこんな顔があるとは思えない、真顔だった。咄嗟に頭の中で二重人格説を組み立てそうになったけど、この場の数秒でつじつまを合わせられる自信はない。
それでもぼくは信じたかった。いまのは、ちょっとでもぼくが田中くんのことを本気で疑おうとしたからこその、愛あるパンチなんじゃないかと。だって、この人は、ぼくにとっての最初の憧れで、
最初の、友達だったんだ。
田中くんは冷えた声を出した。
「もうすでに教えたことをまた聞いてくるからだよ。そう。おれが、山肥くんの給食費を盗んだ犯人」
──ぼくの心は八つほどに割け、そのまま目の前の道路に転がっていき、車に轢かれて割れた。そんなだから、いま、田中くんに手首から掴まれているこの体は、危機感を抱きながらもちっとも動いてくれない。
「安心して。おれはべつに、きみを再起不能にして口封じする気はないよ。だってそんなつもりなら最初から自白したりなんかしないでしょう?」
「……ぼくがわからなくても、いずれ、涼曇さんが気づいていたかも」
「スズが?」
田中くんは意表を突かれたような顔をして、
「あはは、そりゃ無理だよ。スズが身内を告発できるわけないんだから」
と笑った。
すると、ぼくはまだあのとき身内ではなかったということなんだろうか。
いや、あのときも、実際彼女は、ぼくのことを本気で疑ったわけじゃない。ぼくが犯人である可能性を否定できる材料が見つからなくても、「しかし、彼はそんな人ではない」で終わらせてしまいそうなところが、たしかにあった。
「まぁ」
田中くんは一息おいた。
「おれは、これから学校に戻って自首してくるよ」
「えっ?」
「だから、おれはこれから学校に戻って自首してくる」
二度聞いても、ますます意味不明な言葉だった。
しかし、田中くんは、いい終わるや否や、ぼくから右手を「ぱっ」と放し、いままで歩いてきた道を逆方向に進んでいってしまった。
──僕は一人になった。
「なん……だよ」
わけがわからず、こぼす。
一人になると、ぬるい風でも右頬が染みた。
五分程度してから、後を追うみたいに、だけど二度と間違っても出くわないように、ぼくは自分の家へ帰った。ランドセルが右腕までずれてしまっているのには、誰もいない家にただいまをいってから気がついた。
5
わけのわからないあのパンチの翌日。
ぼくは朝の会で、一部始終を聞いた。
まず、田中くんにはどうしてもほしい靴があったらしい。それはぼくでも名前を知ってるようなメーカーの六千円のスパイクシューズだ。外での競技用に、一つ迎えておきたかったのだそう。だけどお金が足りず、そこで、ぴったり同じくらいの金額の給食費を頼ることにした。山肥くんを狙ったのは、その昼休みにたまたま会った転校生の隣だったから。
でも良心の呵責に駆られ、結局盗んだお金は使わなかった。昨日の午後五時くらいに、田中くんは反省の涙を流しながらそのままの給食費を返還しにきたのだという。彼のしたことはとても悪いことです。でもいつも真面目な田中くんだから、逆に自分のやりたいことを相談できる相手がいなかったのかも。だから許してあげましょう。山中先生の言葉はそんなふうだった。本性を知らないふうだったから、あれはぼくだけが見た顔なんだと直感した。
クラス内で適当な拍手が起こり、朝の会は終わった。
まだ不可解な点がたくさんある。
田中くんはその日、学校を休んでいた。山肥くんの長期休みも続いたままだ。
気になったぼくは昼休みに部室にいき、目当て通りに涼曇さんをつかまえたけど、事件の細部に説明が与えられたくらいで、心からの納得は望めなかった。
いわく。
「彼が山肥くんを狙った理由はほかにもあったはずだわ。山肥くんは、宿題になっていたクラスの作文を出していなかったんでしょ? だったら、提出先である委員長の彼なら、誰かに見とがめられても、痺れを切らして勝手にランドセルを漁ってしまったという言い訳ができる。先生にもそういっていたかもしれない。
彼は、一度目は教室に人がいないものと考えて油断した。でもあなたがいたので、適当な嘘の用事をいってごまかす。あたしの名前を出したのは、きっと、理由はわからないけど、あなたをこの探偵団に引き入れる算段をすでにつけていたから……。
そして、あなたが席を外したのを見ると、近くに隠れてチャンスを窺っていた田中秋葉は教室に忍び込んだ。あなたの聞き込みはあくまで『誰が出入りしていたか』というものだったので、彼が二回ドアを開けたことを聞き漏らしてしまった」
とのことだった。
どれも温度がこもっていない声だ。
「涼曇さんは、これで事件が終わったと思うの?」
きいてみると、
「それは秋葉しだい」
と答えた。
そうしたあとは放心のままに一日が終わり、翌日を迎え、朝の会と授業と一人の昼休みをやり過ごし、帰りの会まできた。
探偵団に入る前と同じ。ぼうっとしながら、先生の話を聞き流していた。遠くの窓を見ると雨が降っていた。眠気を誘う音だというけど、一回も賛成したことがない。
心が焦らされる音。
たんたんと。ぽつぽつと。
ざー、と、見たことないのに知っている、テレビのノイズのように……。
ぼくには……。まだ子どもで、探偵団にも入ったばかりのぼくには、わからないことだらけだった。こんなに自分の頭の回転の悪さ、知っていることの少なさを呪うのは、ぼくにとって珍しいくらいだった。
でも、ただ一ついえるのは。
これで事件が完全に終わったわけではない──というぼくの直感だけは、全くその通りに当たっていた、ということだ。
それは帰りの会の途中に挟まった臨時の職員会議のあと、わかった。
具体的には。
今日。
田中くんが給食費を盗んだことがわかった二日後に。
田中くんが、自殺した。
三話→5/17(水)の夜に更新予定
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