【短編小説】赦し粉
所属サークルの活動で、45分くらいで書いたものを若干手直ししました。
お題:「蝶」、「10年前」、「パソコン」
────────────────────
『赦し粉』
学校でヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』を読むと、身につまされるものがあった。ある日の幼いぼくは祖父の部屋に入ると、壁に立てかけてある蝶の標本を摘み、一頭ずつ羽をむしり取っていったことがある。あとから知った話、それはたいそう高価なコレクションだったらしい。幼少期のぼくはそんな事情も意に介さず、ただの興味本位で、ゆっくり、じっくりと、ただ生物の破片がちぎれていく様を眺めていた。蝶の羽根は背の高い牛乳パックに放ったので、すぐに底に着き、よく見えなくなった。
穏やかな人格者である祖父の唯一の趣味は、一夜にしてズタズタにされた。ぼくも実物を見るまでちっとも知らなかったことだが、羽をもがれた蝶の標本など、見てもなんにも面白くないらしい。叔父は明くる日の朝、見たことのない剣幕で泣いた。何者かが自分の部屋に入って高価な蝶の羽根を売り物にしたのだ、と我が家の会議では結論された。ぼくはその日じゅう沈黙を貫いたけれど、自分が駄目な人間であるということは、某日にわかったのだった。
嫌な記憶だったけれど、どうしても思い出してしまう。憂鬱な気分のまま、ぼくは家に着いた。
「ただいま」
おかえり、とリビングから母の声が返ってくる。もう歳の数かける三百五十六、マイナスアルファぶん繰り返されたことだ。なんの気持ちもない。子どもが、無事に帰ったことを報せただけ……。
ぼくは学校に行くのが嫌だった。ぼくの旧くからの友達がいじめの標的にされてしまい、おおっぴらに話せなくなったので、意図せず教室で一人ぼっちになってしまったのだ。ぼくはいじめられていないけれど、友達を助けない悪人であることに変わりはないし、ほとんど誰とも話さずに帰宅する。そんな思春期の感情の機微を、おそらく、母は察してない。
ぼくは二階に上がると、自分の部屋に入った。
鞄を置き、汗が張りついたワイシャツを脱いで、エアコンをつける。上半身を素のままで人工的な風に晒した。
ため息をつく。
祖父が亡くなったのは、四ヶ月くらい前のことだ。はじめての葬式だったけれど、特になんとも思わなかった。蝶の羽を理由なくちぎりたくなる人間に、もとよりそんな情緒などないんだろう。いまはある程度歳をとったから自重できているだけで、もしあのまま成長していたら、ぼくもユウタをいじめていたかもわからない。
とにかく、祖父は死んだ。祖父はこの家で暮らしていたから、部屋が空き、それをぼくがもらえることになった。遺品整理を済ませた二ヶ月前から、ここはぼくの部屋になっていて、以来ずっと居心地が悪い。
家でも学校でも責められている気がする。
「……そうだ」
ぼくはなんとなしに呟くと、部屋の隅にある、大きなパソコンに目をやった。母から聞いた話、十年前の型であるらしい。
いちおう、それはぼくにもわかる。蝶の羽をもいだ十年前のあの頃は、祖父がパソコンを新調して、昆虫の画像を収集し、少し浮かれていた時期だった──と覚えているからだ。
このパソコンは、かなり古いOS……よくわからないが、とにかくシステム──を使っているけれど、まだよく動くらしい。デスクトップ型……これもよくわからない……の、奥行きのある箱型の製品だ。
それは、祖父が遺した業務用シュレッダーのすぐ隣にある。
電源を入れたことはなかったけれど、せっかくだから、動かしてみようと思った。
大きなパソコンの前に座る。つけてみると、真っ青な画面に何やら言葉と、ゲームのロード中のような意匠が表示されて、しばらく経つと今度は草原が表示された。
立ち上がったのだ。使い方も知らないくせに、なぜかそう思った。
画面には、「ゴミ箱」という名前の、半透明なカップを模したアイコンが表示されている。そして、それ以外にはなかった。生前の祖父を思い出して、ぼくは、見よう見まねでそれをくりっくした。
何度くりっくしてみても、画面はほとんど変わらない。いらいらして素早く二回くりっくすると、何かの長方形が開いた。
写真が何十枚か保存されている、ということが、反射的にわかった。ただ、見ていると、ぞっとした。
ゴミ箱に入っている写真は。
すべて、蝶の羽根を一枚ずつ写したものだった。
「……え」
ぼくは、少しあとずさった。驚愕した。たぶん、それらは、ぼくがあのときもいだ羽根だった。ぼくの家のテーブルに乗った状態で撮られている。
これが、保存されているということは。誰かが、あれらを入れた牛乳パックを見つけ、その中から一枚ずつ羽根を取りだし、写真に撮った……ということになる。
それが、怖かった。
何もできずにいる。呼吸は少し荒くなり、上の服を着ていないことを忘れそうになった。パソコンの画面を見つめ続けていると、
『サクジョ シマスカ?』
という文が、表示されてきた。
なんで勝手に、と思ったけど、ゴミ箱に入っているものなら自動でそういうのが出てきても不思議じゃないのかもしれない。ぼくは頷いたが、すぐに、それでは意味がないということに気づいた。
ぼくは震えながら、『イイエ』の隣の、『ハイ』と書かれたボタンまで、まうすを動かした。
二度くりっくする。
すると、パソコンの隣のシュレッダーが──動きだした。
──ガタ、ガタ。
ぼくは叫びたくなるのを必死におさえた。口を両手で塞ぐ。嘘だ、と思う。あれは、生前の祖父が使っていたものを、ぼくがなんとなく引き継いだというだけで、コンセントにすら繋げていないはずだった。だから、本来、動くはずはない。そもそもパソコンと連動もしていない。
ガタ、と。質の悪い印刷機のような低音を立てて、シュレッダーが動いているのがわかる。
これを捨てさせなかった理由は、「何かを切り刻む」というその特性が、なんだかぼくにとって魅力的だったからだ。「情報を秘匿する」というのも素敵だった。ぼくは、何かを、何かから分離させることと、それをなかったことにして逃げ延びるということが、おそらく、大好きなのだろう。
シュレッダーの音が一瞬途切れる。
そして、がーっ、という音とともに、
蒼色の吹雪が、部屋じゅうに舞った。
いや。
それは。
蒼色、と呼ぶのも不正確だった。
黄色も、緑色も、玉虫色も、全ての上品な色が混ざっているかのようだった。実際にそうなのだろう。赤や、茶といった、下品な色は、たぶんここには混ぜてもらえないのだ、と感じた。
その、吹雪になった粉は、シュレッダーから出てきている。
絶えず、排出され続けている。
ぼくはしばらく、その光景に見蕩れていた。幻想的だった。全てが──流転していく。ぼくは次第に、なんだか、全てを許してもらえているような気分になっていった。
けれど。
世界は、そんなに甘くない。
しばらく経つと、部屋に、その蒼色たちの粉が積もり始めたのだ。
シュレッダーの勢いは止まる気配がない。
それでも呑気に待っていると、粉はぼくのかかとを見えなくするくらいまで、かさを高くした。
焦ったぼくは、立ち上がった。パソコンは真っ青な画面に変わっている。床を踏もうとすると、ぐにゅ、とした感触が足の裏にまとわりついて、戻しそうになった。それでもなんとか転ばずにバランスを保ち、ぼくは部屋のドアを開けようとした。
ドアノブをいくら捻っても、押しても引いても、開かなかった。
粉の積もるスピードは急速に上がり、ぼくの膝に辿り着きそうになった。
顔を下に向けてパソコンを見ると、こう書いてあった。
『ユウリくん。
蝶の羽をとったのは、君だったんだよね。
わたしは全部見ていたよ。
でも、大丈夫。
だって、わたしは君を許しているから。』
──息を切らす。
ぼくはおそろしくなって、二階の窓から飛び降りた。
骨を三本折った。
なんでそんなことをしたのかと号泣する母親に聞かれ、粉が積もっておぼれるかもしれなかったんだと、こちらも涙ながらに説明したが、
「何を言ってるの? 窓が開くなら、おぼれるはずがないでしょう。いい加減なことを言わないで……」
と、言われただけだった。
────────────────────
↑
noteメンバーシップ「つとめて個人的な」プランにて公開している、これよりは長い小説です。宣伝をしています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?