見出し画像

【メン限小説】シュークリームのなれのはて

2023年7月28日執筆、11000字超

記事の最後にあるフォルダから
pdfをダウンロードすることができます。




────────本文────────




「本当は何の感情も抱いていないのにまるで感情がある普通の人間であるかのように振る舞う仮定上の人間存在を哲学的ゾンビっていうけれど、あれの何が哲学的だっていうのかな。舞浜幕張くんはどう思う?」

 と言われた。
 いまいる駐車場は暗かった。
 車の排気からか少し強調されてしまっている陰気な蒸し暑さは、地下特有の閉塞感で、さらに僕たちから逃げ場を排除し続けている。これからすることの、僕にとっての規模の大きさを考えれば、出発点はもっと開けていて雄大な場所であってもよさそうなものなのに、現実はこうだ。そしてやはり、会話の内容もどこか陰湿だった。

「あれはゾンビそのものが哲学的なんじゃなくて、哲学的な視点を持てばそういう存在も想定できるよねってことが言いたいんだと思います」

 と、僕。
 対して新宿豊洲さんは、僕の帽子のつばを触りながらこう返した。

「それは全くけっこうにその通りなんだろう。だけれどもさ、じゃあ哲学的視点って何なのかな? 『自分がいま喋っている相手は、実は何の感情も持っていないのかもしれない』と考えることのどこが哲学的だっていうの?」

「それはおそらく、懐疑のことをいうのかもしれません。当たり前に受け入れられている常識を、いったん疑ってかかってみる。それをもって哲学的なプロセスを生んでいるって解釈なのでは」

「ふうん、デカルト?」

「いえ、これなら無知の知まで遡ることができるかもしれませんよ、新宿豊洲さん」

「ああ、まあ……たしかにね……」

 僕は彼女のことを新宿豊洲さんとフルネームで呼び続けていた。名字と下の名前、どちらも東京の地名だ。どこかちぐはぐな印象を与える新宿豊洲さんは、東京の名門国立大学に通う二十四歳(三浪)。そしてなぜか、血縁関係もないというのに、病気で死んだ両親に代わって、ずっと僕の面倒を見てくれている。それは現在十八歳である僕が、中学生の頃に塾に通っていた時分からの縁だった。
 新宿豊洲さんは車のドアを開け、「乗って」と僕に声をかけた。

「これで、この千葉から東京まで行くんだ。世界を抜け出すんだよ」

「はあ……」

 最初に入るのはなんとなく気が引けたけれど、彼女が開けてくれた側からは、先に行かないと助手席に座ることができない。運転免許を所持しておらず、そしてこれからも取る気のない僕は、おっかなびっくり、その中古車の中に入った。家族以外の車に乗せてもらうというのは僕にとってはじめての経験で、若干緊張する。

 新宿豊洲さんは、僕が助手席に座ったのを確認すると、すぐに運転席に入ってきた。彼女の髪は長く、そしてカスタード色に染まっている。もっと上品な比喩があるのかもしれないが、見たまんまを言えば、シュークリームの中身程度のきらめきしか僕には感じられなかった。

 シートベルトを指示通りにしめてからしばらくすると、走り出した車は、すでに隣町のスーパーの前を突っ切っていた。窓から見える景色は、僕が自転車で数十分もかけてようやくたどり着く世界を象っている。時間帯は昼間だった。夕食は東京で食べる予定だ。

「速いですね」

 そう素朴に言ってみると、

「──ねえ幕張くん。私たち、結婚するんだよね」

 と、斜め上の質問が返ってきた。

ここから先は

10,162字

つとめて個人的な

¥500 / 月
このメンバーシップの詳細

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?