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【長編小説】パンプキン・パイの不思議な冒険 その6

 ノックの音もなく、目が覚めました。
 辺りはまだ暗く静かでした。朝までだいぶ時間があるようなので、もうひと眠りしようと寝がえりを打ちました。

 あと数時間後に出勤だと思うと憂鬱ですが、目覚まし時計に起こされるよりはましです。なぜなら目覚まし時計のアラームはもう執行猶予のない起床時間ですが、深夜の目覚めは、まだ数時間は自由の身であることを約束してくれるからです。

 まどろんでいると、ところでぼくの仕事はなんだっけかと妙な疑問が湧きました。いくら思い出そうとしても思い出せず、まるで夢のなかでなにかもわからずなにかを探しているような感じで恐ろしくなりばっと上半身を起こしました。
 頭を振って意識をはっきりさせると、これまでの夢が不思議なほどにはっきりと思い出されました。

「妙な夢だったな」
「どんな夢だったの?」
 驚いて振り返ると、婚約者が枕元のベッドの端に座っているのでした。
「あなた、うなされてたわよ」
「そう…… ごめん。高層ビルから落ちる夢を見たんだ。それにカエルに追いかけられたり、少女が空を飛んだり、ホテルのボーイが突然歌いだしたり」
 そこまで言うと笑ってしまいました。
「おかしいんだよ、そのボーイ。エンエンエエーンって、ビブラート利かせて………あっごめん。こんな話つまらないよね。明日も忙しいのに起こしちゃったね」
「忙しい? どうして?」
「最近仕事が忙しいって言ってたよね?」
「仕事って?」
「きみの仕事だよ、あの……」
「あの?」
「その……」
「その?」
「忙しい仕事……」
「恋人の仕事を忘れたの?」
「まさか。目が覚めたばかりで頭がぼんやりしているんだ……」
 しどろもどろに弁明しますが思い出せませんでした。
「いいのよ、意地悪言ってごめんなさい。夢なんてそんなものだもの」
「夢? なんのこと?」
「夢で見た人のこと」
「空飛ぶ少女のことかい?」
「それは夢見た人でしょ?」
 とくすくす笑うそのシルエットの向こうに月が見えました。
 はっとして見上げると瞬く無数の星々。見回すと壁も天井もありません。
 ベッドの周囲は、それは静かな大海原が星々の光を反射させながら広がっているのでした。
「やっと目が覚めたと思ったのに」
「そうね、やっと目が覚めたと思ったのに」
「どういう意味?」
 ピティ・パン、あらためピティ・パイは振り返ると、欧米人のように肩をすくめました。
「きみが助けてくれたのかい?」
「まだ空を飛べそうだったから」
「そうか。ありがとう。ついでに元の世界に戻る方法を教えてくれるとうれしいな」
「せっかく助かったのに?」
「え?」
「なんで戻りたいの?」
「決まってるじゃないか。そこにはぼくの生活があるんだもの。仕事があって、両親がいて、友達がいて恋人がいて……」
「でも本当は戻りたくないんでしょ?」
「まさか。近く結婚するんだよ」
「本当はしたくないのに?」
「そんなわけないだろう」
 と笑いながら自分の顔が引きつるのがわかりました。
「嘘ばっかり」
 あまり確信をもって言われたので羞恥を覚えましたが、彼女には夢と現実が違うことを教えるべきだと思いました。
「ピティ、きみは夢の住人だから現実がどういうものか知らないんだよ。現実ではいろいろなものを捨てなくちゃならない、ほしいものの代償として。その代償がほしいものよりも大きかったなんてこともあるし、代償をけちったせいでほしいものが手に入らないということもあるし、代償を払ったのにほしいものが手に入らないということもあるけど、それも現実なんだ。それをあきらめて受け入れるのが現実なんだ」
「あなたが空を飛べない理由がわかったわ」
「なんとでも言ってくれ。ぼくはもう理想や夢に生きるのは疲れてしまった」
「それはよいことね」
「どうして?」
「夢のなかで夢に生きなければ夢が現実になるでしょ」
「夢が現実に?」
「うん」
「なんだかなぞなぞみたいだね」
 うまく考えられないなかで、考え方を考えているような考え方で考えていると、ここが現実世界であるかのような渇きを覚えました。
「なにか食べるもの持っているかい?」
 ピティは首を振りました。
 見回したところで絨毯の海しかなく、大海原にベッドひとつ、そのうえにぼくと彼女だけということをあらためて自覚すると渇きは膨れ上がりました。
 ピティを飢えた目で見ると、その服の花々が月明りに美しく輝き、なんともおいしそうでした。
「きみのその花、柔らかそうだし蜜もたくさんありそうだね」
 ピティは心持ち身体を固くしたようでしたが、持ち前の気の強さで顔をぷいと背けると、
「これはだめよ」
「そんなこと言わずに、花びら一枚でもいいんだ。肩にあるその赤いチュー、リップ」
「チュー、リップ? ほんとにそれだけ?」
「ああ、ほんとにそれだけ」
「じゃあ」
 少女はおずおずと肩のチューリップの花びらを一枚ちぎってぼくにくれました。
 口に含むと柔らかい花弁は甘く、咽喉の渇きが一瞬和らぎましたが、飲み込んでしまうと反対に渇きが増してしまいました。
 ぼくは少女を貪欲な目で見つめ、少女は不安定なベッドの上で後ずさります。飛んで逃げて行ってしまう可能性を考えると、それ以上近づくことはできませんでした。
「お願いだよ、チュー、リップじゃ渇きがいえない。きみのその髪に刺してある椿の花びらを一枚おくれ」
「椿はだめ。お嫁に行けなくなっちゃうもの」
「そんな昔の歌謡曲みたいなこと言わずに、ね、哀れと思ってピティ」
「じゃあロマンチックなフォークソング歌って」
 人前で歌うことなどないシャイなぼくですが、ここで歌わねばならないと思い、覚悟を決めました。

  ♪ぼくには
  フォークギターがない
  フォークボールも投げられない
  でもフォークでパスタは食べられる

「だめ、全然響かない」
 咳払いをして、夢の恥かき捨てと自分に言い聞かせ、もう一度。

  ♪色とりどりのお花を積んだ
  お花屋さんが
  夜の海辺に打ち上げられた
  それは小さな女の子の夢

  太っちょのシェフも打ち上げられた
  それは小さな男の子の夢

  夢は次々打ち上げられた

  スポーツ選手に
  新幹線
  イチゴケーキに
  ガラパゴス諸島
  アイドル歌手に
  高視聴率
  晴れた週末
  渓流釣り
  夏休みに
  蛍狩り

 (ここでピティがかわいらしい声で加わりました)
  それじゃ海辺は夢だらけ
  ウミガメが
  高視聴率にからまっちゃって
  イルカが
  蛍狩りを飲み込んじゃって
  小魚たちの体のなかには
  マイクロドリーム
  マイクロドリーム

 (ぼく)
  心配はいらないよ
  夜も更けると砂浜に
  大人たちが集まってきて
  好きな夢を探すのさ
  夢をなくした大人たちが
  夢を拾って帰るのさ
  部屋に飾って貼って立て掛けて
  夢でいっぱいになったなら
  ぱちんとはじけて
  ビックバン

  赤ちゃん宇宙は夢の中
  マクロドリーム
  マクロドリーム
  きみはぼくの
  マクロドリーム

「ふーん。タイトルは?」
「えっと、『オー・マイ・コスモス』」
「じゃあ一枚だけだよ」

 真っ赤な花びらを受け取ると、すぐに口に含んでかみしめました。すると泡のように柔らかい液体が口中に広がりました、が、次の瞬間、思わずペット吐き出してしまいました。
「うわ、まず。なんか酸っぱいし、タバコのにおいがひどいよ、この椿」
 するとピティはわっと泣き、そのまま飛び上がって一度だけ振り向くとぺっとつばきを吐き、
「あんたなんてオオイヌノフグリのヘクソカズラよ!」
 と泣きながら叫ぶと、あっという間に飛び去ってしまいました。

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