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夏から秋へ

夏から秋へ、クーラーを付けずに1日を過ごすようになり、音楽コンテストが入賞で終わり、3枚のアンビエントミュージックのアルバムを仕上げた。YouTube、サブスクリプションへの登録を終えて、アウトプットの期間を経て、心が空っぽになっている中で、本棚にあるヘーゲル「精神現象学」を見つけて、手に取って読み始めた。読み始めてみると、今の私にとって「精神現象学」はちょうどいい難易度で、知(概念)のパズルに挑む気持ちと、概念について学ぶのが心地よく、時折驚かされたり、私の感受性に響く文章に出会うので、どうしても書き写したい文章はノートに手書きで写本している。

 近代になると個人は、抽象的形式がすでにできあがっていることを眼の前にみている。この形式をつかんで自己のものとしようとする努力は、内的なものをそのまま駆り立てることであり、普遍的なものを切りとってとり出すことであって、具体的なものから、多様な定在から一般的なものが出現することではない。そこで今われわれのすべき仕事は、個人を直接的な感覚的な在り方から純化し、思惟された実態、思惟する実態にするという点に在るのではなく、むしろそれとは反対の点に、つまり、固定し規定された思想を止揚して一般的なものを実現し、一般的なものに精気を与える点に在るのである。だが固定した思想を流動させるのは、感覚的定在を流動させるよりずっとむずかしいことである。その理由は前に示してある。前にのべた諸々の思惟規定は、自我を、否定的なものの威力を、つまり純粋な現実を実体としており、自らの定在の場としている。これに対し、感覚的な諸々の規定は威力のない抽象的な直接態、つまり存在そのものだけを実体とし、定在の場としている。純粋思惟が、つまりこの内的直接態が、自ら契機であることを認めるとき、言いかえれば、純粋な自己確信が自らを抽象するとき、思想は流動的になる。だがこのことは、そういう確信が捨てられ、片よせられることではなく、そういう自己措定の固定的なものが廃棄されることなのである。つまり、廃棄されるのは、さまざまな内容と対立した自我そのものであるような、純粋の具体者を固定させること、純粋思惟の場に措定される諸々の区別、前にのべた自我の無制約な姿に関わる諸々の区別を、固定させることなのである。この運動によって純粋思想は概念となる。そしてこの運動によって初めて純粋思想は、自ら真に在る通りのものであり、自己運動であり、円であり、思想の実体であるようなものであり、精神的な実在である。
ヘーゲル「精神現象学」序論 樫山鉄四郎訳

ようやく「精神現象学」の序論と緒論を読み終えて、これから本文に入っていく。「精神現象学」の目次に目を通すと何を論じているのか、いまいち分からなかったのだが、ヘーゲルの当初の予定に反して、筆が走ってしまったのか広範な内容になってしまったらしく、前半と後半で用語の意味の齟齬が起こってしまっていると訳者の解説に書かれていた。だからこそ、私は厳密な意味、本のテーマ性を重視せず、気楽にヘーゲルさんのお話を聞くぐらいの感じで「精神現象学」を読み進めている。
「精神現象学」は難解な哲学書であるが(分厚いし)、随所に書き手であるヘーゲルさんの感情というか本音が垣間見られて、私からするとエモい。そもそも当初の予定をはみ出して書きたいことは全部書きたい、論文としての完成度を落としてでも読者を頑なに信じ、語りかける姿勢にとても人間味を感じる。

さて、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」の最終章である「愛の実践」を全文写本し終えて、現在、私は配信でヘーゲルの「精神現象学」の読書配信をしているのだが、さすがに自身の意識を高め過ぎているというか、配信における姿勢の意識を高め過ぎた感はある。私の配信の常連リスナーは中学生達で、まぁ、中学生でなくても「精神現象学」の内容について語っても通じないだろうし、そもそも、中学生達に聞いてみたらヘーゲルという名前さえ知らなかった。
ヘーゲルの「精神現象学」の読書配信は、私にとってアンビエント空間であり、現代詩的な場だと言っていいだろう。読書配信で私は主にアンビエントミュージックを流し、リスナーが誰も来ない(夏休みが明けた平日午前の配信、というのもあり)、もし来てもすぐに居なくなる配信をしていても、私自身はほとんど気にならない。実際、一昨日は2時間配信をして誰も来なかった。
現代詩がそうであり、アンビエントミュージックがそうであるように、そうそう人様にウケるものではなく、多くの場合、理解を得ることさえ難しい。何故ならば、いわゆるエンターテインメントではなく、エンタメでないということは、消費されにくい、消費したくさえないコンテンツなのかも知れない。私は読書配信でエンタメを行う気が
全くなく、「精神現象学」の読書配信などをしているのは私1人なのかも知れないが、今の私にとってちょうどいいことをしているのだから仕方があるまい。

エーリッヒ・フロムの「愛するということ」の特に「愛の実践」については、時間をかけてじっくりと咀嚼していく予定で、とりあえず、高次元の意識を常にキープすることが肝要であることを理解した。これは大変なことで、いつでも精神の統一をし、あらゆることに集中しないといけない。そうでなければ他人も自分も本当の意味で愛することは出来ないとフロム先生は仰っていて、確かにそれが実現されれば、私は人間として成長し自身の希死念慮を克服することが出来そうではある。
「愛の実践」を課題として掲げつつ、現在、就職活動を始めた。無職から1年が経とうとしており、そろそろ社会復帰を果たして、何とかこれからの人生を生きていけるようにしていきたい。

 どこで、そしていつ信念を失うかを注意することである。この信念の喪失をいつもおおいかくすところの合理化を看破すること、どこで卑怯なやり方で行動するか、そして再び、どのようにしてそれを合理化するかを認識することである。信念を裏切ることがいかにその人を弱めるか、そしてその弱さがいやましてゆくがいかに新しい背信へと導いてゆくかということ、このようにして、いかにつぎつぎと悪循環がつづいてゆくか、ということを認識することである。そうすれば、人はまた、われわれが愛されないことをおそれていると意識している時でも、現実には、たとえ、このことは意識されないのが常であるとしても、そのおそれは実は愛することのおそれであるということを認識するであろう。愛することは、保証なしに自分自身を委ねること、すなわち、われわれの愛が、愛されているその人の中に愛を作り出すであろうという希望に完全に身を委ねることを意味している。愛は信念の行為である。信念を豊かに持たない人は、また、愛をも豊かに持つことはできない。
エーリッヒ・フロム「愛するということ」 懸田克躬訳

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