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フットボールが失われロックダウンするスペイン及びジブラルタルから脱出するまで。ウイルス感染に怯えた恐怖の3日間。

OWL magazineをご覧の皆様こんにちは。
ジブラルタルという国でサッカー選手をしております冨澤拓海です。

ジブラルタルというのはスペインのアンダルシア半島の最南端にある、人口3万人強のイギリス領の国です。ジブラルタル1部リーグのチームと契約しスペインの住居をチームから提供されていたので、僕はロックダウンを経験しました。

現在のジブラルタルの新型コロナウイルスの感染者は140名ほどで死者は0名。
スペインよりかなり早い段階で入国者の制限はしており、日本からの旅行者を含めて2月中旬の時点から入国制限をかけていました。

その影響で僕も公式戦の当日に旅行者と勘違いされ入国管理に引っかかり、試合の集合時間に遅刻するということが起きるぐらい国として徹底していたのでスペインに隣接しているものの死者が出ていないのだと思われます。

ただ僕の住んでいたスペインは23万人弱の感染者がおり2万3000人ほどの死者が出ています。僕の所属するリーグのスペイン人監督も感染し僕にとってはかなり身近に感じる事態であるのは想像していただけるかと思います。


この記事では、ヨーロッパ在住の一選手の目線から見たコロナウイルスとロックダウンについて書いた後、ヨーロッパのクラブがどのよう実際に動いているのかについて書いていきます。

そして2日続けて僕の帰国までの道のりから現在の活動、今後の展望まで2回に分けて投稿していきます。

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その日僕の周りからフットボールが消えた。
小学生の時に『フットボールが消えたら』という文章を読んだことがある。
その時はあまりにも非現実的に思えて途中で読むのを止めた。

そして10年以上が経過し23歳になった今、

僕は生まれて初めてフットボールを奪われた。

いや僕だけではなく、

世界中の多くの人がフットボールを失った。

結論から言うと今僕は日本にいる。
既に日本に帰国して1ヶ月以上が経過した。
帰国したタイミングでPCR検査も自ら希望して受けた。

僕がフットボールを失うだけでなく、
僕の周りの人の人生を終わらせてしまわないように。

僕らの日常が見えない得体の知れないウイルスという存在によって奪われるまでのスピード感は一瞬だった。

3月上旬僕はドイツ、オランダに選手以外の仕事で行っていた。
1つは僕自身で展開する輸入代理ビジネスにおいてオランダのアパレルブランドの日本展開を目論んでいたこと。

現在ウェブサイトを構築し終えて日本展開を開始したのでご興味がある方は是非見て頂きたい。
オランダ1部リーグ2チームのサプライヤーも務めるオランダでは有名なフットボールブランドである。

Robey Sportswear
https://www.shorters-equipment.com/robey-sportswear

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もう1つは指導者の勉強、そして日本のGKアカデミーで自分の請け負う国際事業の一環としてドイツではハノーファーにある提携先のGKアカデミーに訪れ、オランダでは随一のトップクラブ、アヤックスの視察に行かせてもらった。
かなりエキサイティングな数日間を過ごした。そこでは当時流行っていたアジア人差別は受けなかった。

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ただJFAの田嶋会長はアムステルダムで感染をしたというニュースも確認し、僕が訪れたHannover 96の選手もコロナに感染したとのことで今回の危機が身近に迫ってきているのではないかという感覚はあった。

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ただその頃僕のいたヨーロッパでは大きな問題になっていたわけではなく、あくまでアジアで起きている問題であった。日本人同士で話をしている時にどちらかが咳をすると「大丈夫?じゃない?」と軽口を叩かれるぐらいの感覚だったのだ。
僕もマスクはしていたが正直そこまで深刻だと思っていなかった。

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写真はオランダへ向かう電車内で家族に向けて撮ったもの。

それは間違いだった。

大きな間違いだったのだ。

僕自身どの国でも完璧に言語を扱えるわけではないが、日常会話の中でウイルスの猛威が迫っているということを3月初旬の時点では少なくとも僕の周りでは誰も認識していなかったように感じる。

そしてドイツとオランダでの素晴らしい数日間を終え、スペインに帰国して2度のトレーニングを終えて、3月12日の木曜日にリーグ戦を迎えようとしていた。

しかし3月11日にスペインのアンダルシア州のピッチが使用禁止になり、練習が試合前日だけど中止になったとクラブから昼間に連絡が来た。

僕らのクラブを含めてジブラルタルのクラブはジブラルタル領内にフットボール場が少ないため平日のトレーニングは近隣のスペインのクラブの施設を借りてトレーニングしている。

だからスペインの練習場が使用禁止になったのでトレーニングはできず、試合は行うというなんとも珍しいシチュエーションになったのだ。

しかしその後厳密にはスペインのクラブが活動停止になっただけで、ジブラルタルのクラブのトレーニングは禁止になっていない、というなんとも無理矢理な理由で練習予定時間の1時間半前急遽トレーニングになった。

グレーゾーンだったのだろうけど試合前日にトレーニングをしないことは良くないとチーム側も判断したのだと思う。練習場では前の時間に昨年のチャンピオンチームもトレーニングをしていた。


そして木曜日の夜無観客試合でリーグ戦が行われた。

結果は散々なもので僕が人生で経験したことのないスコアでの敗戦だったのだが、僕はベンチに座っていた。その理由はリーグ優勝がかかっていない試合だったから2nd GKにチャンスを与えたいとのことだった。下位リーグとはいえど首位相手の試合だったのでかなりフラストレーションが溜まっていた。

結果的にはそのまま日本に帰国することになりなんともやりきれない気持ちのまま僕は日本に帰国している。それが3月12日のこと。


その次の日にリーグからナショナルリーグの上位リーグ以外のジブラルタル国内の全てのフットボール関連のイベントに無期限即停止の声明が出た。

僕らは後期は1部の下位リーグだったのでリーグ中断が確定した。ジブラルタルは小さい国ながらも1チームがCLの予備予選へ、2チームがELの予備予選に出る環境であることから上位リーグは続けるという判断を下したのだと思う。


練習も中止で今後は政府の対応を待つとなり、本当にやることがなくなった。その時僕は家族にチームからお達しが出ない限りは日本には帰らないよと伝えていた。
フットボーラーが僕の仕事だったから雇用先のクラブの指示なしに日本に帰るのはあり得なかったから。

外出禁止令は出ていないけれど、町と町の間には警察がいて違う町へは移動できないという話も聞いていた。もっとも車で移動することもないのでその詳細はわからなかった。

夜ご飯は近くの行きつけのスペイン料理のレストランで飯を食べた。

何か確証があったわけではないが、ただなんとなく思った、もしかしたらしばらく食べれないかもしれないなと。だからいつもよりたくさん食べておいた。

店主のおっちゃんとはいつも通りハグをして今日も最高の飯をありがとうと伝えておいた。ハグをやめようとか、握手をやめようという話はあったけどもうしばらく会えないかもしれないし、いつもいろんなことを話せる素晴らしい関係のおっちゃんだったからいつも通りハグをした。

おっちゃんはこう言ってくれた。
「明日も来いよ、みんな政府が閉めろと言わなければ閉めないって言ってるから俺らは明日も店を開けるから」

日本食レストランを経営しているスペイン人の友達の話も含め、まわりではレストランは近いうちに閉まるって言われてたけどあの時はまだ明確に禁止令は出ていなかったと思う。

でも本当にあれが僕の最後のスペインでの外食になった。
3月13日。

次の日朝起きたらイギリス人のチームメイトは母親のルーツがジブラルタルにあったためジブラルタル領にある親戚の家に移動していた。スペインがロックダウンする可能性があるという記事を見てすぐに彼はジブラルタルに入ったとのことだった。

僕とアメリカ人の2人はやることもないし身内も近くにはいないので、外でご飯食べられないのかなぐらいの話をしていた。

外食はスペインじゃできないし、ジブラルタルのカジノでも夜行くか?と昼間は話してた。


そんな中、夕方に事態が動いた。
監督とダイレクターから連絡がきて外国人選手はそれぞれの国に帰したいという話だった。将来どうなるかわからないし、スペインで外出禁止令が出るのはほぼ確定で何ヶ月も続くと給料も払えなくなるかもしれないし、何より家族がいないこの地にみんなを残すのは良くないと判断したとのことだった。

そこから僕ら2人でアメリカ人選手と2人での航空券探しが始まった。
往復で取るか?とか片道で良いんじゃないかとか。
様々な憶測ととにベストな判断を模索していた。


帰らないといけないことへのショックなんてものはその時一切なく、数時間単位でスペイン、ジブラルタルともに首相の声明が変わり、とにかくスペイン語と英語での情報収拾に疲れていた。

既に外出禁止令の出たスペインの空港からのフライトはやめてジブラルタル空港からのフライトにしろと言われていた。ただ多くの人がジブラルタルもしくはスペインから脱出するためにフライトを予約しており30万円以上の航空券で、かつイタリア乗り換えのフライトが多く、良い航空券がなかなか見つからなかった。さらにトランジットする国の情勢を見ながらのフライト検索をしなければならなかったのだ。結局その作業だけで数時間かかった。

結局日本語のサイトでは見つからず、ブリティッシュエアウェイズのサイトもパンクしてしまっていたため英語版の旅行代理店からチケットを確保した。

そして慌てて引越しの準備を進め眠りについた。

まだこれが3月14日。帰国の3日前。


次の日起きてからは外出禁止令が出て基本的には外を出歩けない中で引越し作業が始まった。

3月17日のフライトを確保していたのだが、クラブ側の人間からジブラルタルとスペインの国境が閉じるかもしれないから何としても17日中にジブラルタル領内に全ての荷物を持って入とれ指示されていた。
そのため本当に急ぎの引越しだった。

ただ引越しの準備なんてまるでしてないわけでテレビや扇風機、自分たちで買った家具が部屋にたくさん置いてあった。家の外では自転車で買い物に行ったスペイン人が罰金を食らっていたり、スペイン警察が外出している人を羽交い締めにしている動画が出回ったりしており、強い緊張感が町中から感じられた。

僕らが住んでいた家は町の中心部で歩いて10秒で町のシンボルの教会という立地だったためテラスから町の中心が見渡せたのだが、出歩く人はほとんどおらず町は閑散としていた。

そんな中ジブラルタル領内に1度目の荷物移動。

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ジブラルタル人はジブラルタル国内は制限がかかっていないものの、スペインに住んでいるチームメイトも含めて皆スペイン国内では外に出られなかったため、僕とアメリカ人の2人で全ての荷物を運び込まなければならなかった。

国境では飛行機のチケットだけでなく、日本人でなぜここにいるのかも入念にチェックされ、スペイン国境においてはパスポートを提示する距離が近すぎて警察から思い切り汚い言葉を浴びせられた。

人々が何かしらの脅威に怯え独特の緊張感が走っていた。

そして2度目の移動は扇風機とテレビをタクシーに乗せてもらい、何とかジブラルタル領内に入ることができた。領内に入ってから車も人も移動するジブラルタル特有の滑走路内で車内から「Chinooooo」って言われたけど僕は何も思わなかった。

Chinoは中国人に対する差別用語。僕自身も試合中にファンによく言われる言葉でだが、僕はいつも笑って俺は「Tomiだよ」と試合中でも返すようにしている。僕らは1人の人間でただ肌の色や生まれた場所で区別されているだけだから、
僕自身を知ってもらいたいという意図がある。

ただそんな差別用語を聞いてもその日に限っては、むしろこいつらはなんて幸せなんだろうかと笑えてきた。

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せっかくだから引っ越し姿を写真に収めておいた。

なんとか引越しを終えジブラルタルで僕がお世話になっていた日本人のご自宅にお邪魔することになった。アメリカ人選手はチームの用意したアパートに宿泊することになっていたが僕はその申し出を断り、その家族と最後の2日間を過ごすことにした。

入団の経緯から何から何までその家族が僕を助けてくれたのだが最後もまたお言葉に甘えることにした。

そしてその日の夜にクラブのグループチャットに別れの挨拶を入れた。

最初はチームで集まる予定だったがそれも政府から禁止令が出たのでそれしかできなかった。

みんな予想以上に僕が去ることを悲しんでくれて、最初の数ヶ月ずっとベンチ外だったけどクラブにとって価値ある存在になれたのかなと思えて感慨深かった。
今まで所属したチームの中で1番価値を示したという、その実感が湧きにくいチームだったから。

そして2日間はその一家との時間を過ごした。

何か特別なことはなかった。
寂しいというより、帰ってこれるのかもわからないからどうなるんだろうなぐらいしか思わなかった。不安もなかった。日本で会いたい人たちに会えるから。


そしてフライト当日になった。

監督が迎えにきてくれて、空港まですごい近い距離だったけど監督と話をした。最後ではないと思うけど次がいつになるかわからないからと僕に対する感謝を述べてくれた。

監督はスコットランド人で僕の数百倍早口で訛った英語を話してくるので僕は言いたいことを全て伝えることはできなかったけど本当に気持ちが伝わってきた。素晴らしい監督だったのでまた再会できるのが非常に楽しみである。

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日本人家族とも最後の別れを告げてなんとかフライトに乗ることができた。

フライト中咳き込んだ老人に若者が怒号を浴びせ一瞬ざわつくことがあったがCAさんも全員に逐一アルコール除菌をさせるなど配慮のされたロンドン・ヒースロー空港へのフライトだった。

物事が急に俯瞰的に見えて、みんなパニックなんだよなと思ったのを覚えている。

そしてロンドンに到着して長かったのが17時間のトランジット。
僕はいち早くホテルを取ろうと思ったのだがお金を節約する目的で一緒に帰るアメリカ人選手が空港泊をするとのことで最後の夜だし付き合うことになったのだが、いかんせんどこも開いてない。

イギリスは飯が不味いと言われるけど僕は今まで一度も感じたことがなかった。ただレストランも開いていなかったので、キオスクのようなスーパーで買ったご飯は心から悪いと思えた。

そして2人で空港の椅子で寝た。
この瞬間から僕とウイルスの孤独な戦いが幕を開けた。

空港の乾燥も酷く喉が乾燥してしまい声が出にくくなった。
今までは他人事だったけど、初めてウイルスに怯えた。

もしかしたら僕もかかっているのではないかという恐怖が途端に襲ってきたのだ。

周りも少なからず咳をしている人がいたというのもある。

スペインにいる時から無症状が多いから自分もかかってるよねとは言っていたがあくまで他人事だった。

しかしこの時に急に自分が悪者になってしまうのではないかという恐怖に苛まれた。

感染経路を公表され、僕のいたところ、帰国までのルートを含め絶対に僕しかありえない確実に特定されてしまう道を歩いていたからというのもある。

そして朝を迎えた時には恐怖でアメリカ人選手との会話も上の空状態でフライトに乗った。彼とハグしたのは覚えているし、今後どうするかみたいな話をしたのは覚えている。ただ友人との別れを心から感傷に浸れない自分が確かにそこにはあった。

それよりも感染したら自らカミングアウトした方が良いのかとか、自分がどうしたら悪者にならずに済むかとか、検査を受ける方法とかばかり気にしていた。
その頃は感染したものは悪だという風潮を少なからず感じていたから。

そのことを家族にも伝えていた。
父親はいつも通り冷静だったけどとてつもなく心配はかけたと思う。
母親もいつも通り自分のことのように心配してくれて、何個か記事を送ってくれたのだが、「もう全部そんなの調べてるよ!」と返信してしまった。
本当に今だと申し訳なく感じるけどその時ばかりは僕も焦っていた。

だっていきなり息子に、
「俺コロナウイルスに感染してるかもしれない」なんてことを言われたのだから。

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日本に帰国したその瞬間。

それは僕にとって得体の知れないものと直接対決が始まった瞬間だった。

次回に続く。

以下は有料コンテンツとさせていただきます。
僕自身が今クラブから何を話されているか、そして世界各国のクラブがどのような対応を取っているか、話しても良いけどあまりネットにはあげてこなかったことをお話ししていきます。興味ある人はぜひご購読ください。

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