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夢とか、青春とか、憧れとか、ぜんぶそれは僕の人生だったという記録。

小学生の時、僕は体操選手に憧れていた。
現実離れのアクロバティックな動きにワクワクしていた。
当時、体操漫画やテレビで見た動きをできる範囲で砂場で真似していた。
体育倉庫が開いていた時はこっそりとマットに飛び込んだりもしていたけど、僕の練習場は基本的には学校の砂場だった。

田舎だったから近くに体操スクールとかなかったんです。確か。

とにかく当時はバック転がしたくて、当時はYoutubeとかなんてないから頭の中のイメージだけを頼りに無茶な挑戦ばかりに明け暮れていたと思う。

あまり前には出たくない、自分に自信もなくて、授業で手を上げるのさえ嫌だったどちらかと言えば内気(仲の良い友達には心は開くタイプ)な方だったかと思う。
けど、体育の時間、マットの授業だけは心から楽しかった。
“この技できる人いる?”ってなったら、楽しいからやりたい!って感じで前に出たりもしていたと思う。
跳び箱は普通に飛び越えるのは背がちっちゃいから苦手だったんだけど、前方倒立回転跳びとか回る系は好きだった。

そんな小学生の僕がある日、テレビの歌番組のスペシャル特番を見ていたら
アクロバットをしながら歌って踊っている6人組のグループに心惹かれた。

キラキラしていた。

たぶん小学5年の終わり。僕の憧れが一つ増えた瞬間。
それはいつの日か夢に変わる。でも、まだこの時は憧れてただけ。

ちなみに、この時の曲は今でもめちゃくちゃ心に響く曲で
たまに聴くと泣きそうになる。

“君が描いた未来の中に
  僕は今映っているの?”

ほんと、そう。もはや逆にため息出ちゃうよ。

その日から興味は一気にこのグループと関連する他グループの人たちが踊るダンスやアクロバットになった。
テレビや歌番組に出てる情報を仕入れると、ビデオで録画して何度も見返したりして更に憧れは深くなっていった。

カッコよかったなー。
今でもワクワクする。
これって今エンタメに関わっている人間からするとかなり凄いことだと思う。

でも、当時は男の子が憧れているのはバンドマンとかスポーツ選手で
アイドルに興味がある男の子は、僕の周りには一切いなかった、と思ってる。
だから男性アイドルに憧れている!とか興味がある!とは誰にも言えなかった。

遠くの星を見つめている時みたいな高揚感を抱きつつ小さな目標ができた僕のバック転への一歩も日に日に過熱していき、
ある日の昼休み僕は体育館のマットを引っ張り出し(本当はダメです、若気の至り…)、無謀にもバック宙に挑戦した。
案の定、失敗して頭から落ちた。
この時、結構やばくて多分マットなかったら大変なことになってたと思う。
その後の授業も首が痛くて動けないくらい…でも秘密で勝手にやったから誰にも言えなくて…。
ちゃんと反省した。…はず。

どうやったらバック転ができるんだろう?って必死に考えていたら
テレビや雑誌にヒントが落ちていた気がしていた。
僕が気づいたのは“みんな腹筋が割れてる!!”ということ。
謎に腹筋に目覚め、腹筋を割ることも目標の一つとなった。

気づけば中学生になった。
細かなプロセスは覚えていないんだけど…
中学生の時、ソーラン節を踊るってなった時、アクロバットを入れるみたいな構成で気づけばバック転をしていた。(記憶しているのはそんな情報)

金八先生にもどハマりしていたのでソーラン節にはかなり積極的で楽しんでいたと思う。
だからなんとか出来るようになったんだと記憶しています。

中学になる頃にはダンスにもかなり興味が向いていて、見よう見まねで踊ってみたり、選択のダンスの授業で男子は一人もいないのにダンスを選択して一人で踊ったり、振り付けをアレンジして考えるようになっていた。

ある時、親にダンスを習いたいって言った気がする。
中学2年、13歳か14歳かでダンスを習い始める。
やはり地元にはそんなスクールはなくて、車で40分ほどの隣の千葉県成田市まで行かないといけなかった。
毎週、学校終わりに車で送り迎えをしてくれた両親には感謝しかありません。
当時、部活にも入っていたから毎週火曜日だけは我儘を言って休ませてもらっていた。
顧問の先生や仲間たちにも感謝を伝えたいです…。

興味があって、好きなことには一生懸命になれた。

ただ一個問題があったんだ…
ダンスレッスンの日は、「学校へ行こう!」の放送日だった…。
ビデオ録画必須で、野球中継で放送が遅れたりすると録画できなくて、そんな日の次の日はかなりブルーだった。

ダンスの先生はカッコよくて優しくて明るい人柄に尊敬と憧れを抱いていた。
僕の唯一のダンスの師匠。
だから毎回楽しくて、毎週なるべく休むことなく通っていた。
このダンススクールには中学2年から高校3年が終わる時まで通っていたから、大学で上京する時に辞めざるを得なくて、結構本当にさみしかった。
ここで出会った友達は今でも繋がってる人が多い。

少し時を戻そう。

ダンスを始めた僕は、ようやく一つの夢を抱くようになる。
それは、この世界に入って、自分もここで踊りたいってこと。

でも、中学生の時は芸能界に入ることを親が承諾はしてくれなかった。
テレビでオーディション募集していたから、オーディションを受けたいと伝えたら「高校生になってからね」と跳ね返された。

オーディションを受けられるチャンスを逃した僕は
以来、オーディション雑誌や新聞、テレビなどで事務所名を必死に探した。
当時はオーディション情報もあまりなく、どこに送れば良いなど表に出てなかったからだ。

“次、チャンスがあるなら…”
常にそう思っていた。

高校生になった。
オーディションを受けられる。
でも、宛先がわからない。昔テレビで見たオーディションは番組の企画だったからそこに送ってもしょうがない…。
オーディション雑誌にはこの事務所が載ることはないってなんとなく察しはついていた。
奇跡を信じて、新聞の求人の項目にも目を通していた。

どうするか少し悩んだ僕は履歴書を書いては捨て、何枚も書き直した。

ある時、どこかで見つけた事務所?らしき場所(たしかファミリークラブに)にダメ元で履歴書を送った。

高校1年が終わるころ、一通の速達の茶色い封筒が届いた。

“書類選考による第1次審査に通過されましたので
第2次面接オーディションに出席できる方は参加してください”

やっと、夢に近づけた、まずは第一歩。
この手紙、今でも大切にとってある。

ドキドキでオーディション会場に向かった。
慣れないはじめての空間は特に苦手で、緊張がすごかったけど
オーディション会場の受付をすぎると何故か少し清々しかった。

オーディション会場で、事務所のトップがやってくるのを待っていると
一人の男性がやってきてその人をオーディション生みんなで囲んだ。
すると、その人は「めんどくさいから言っちゃうけど、僕が〜だから。」と名乗った。
テレビで色んな逸話を聞いてきたけど、自分から言っちゃうパターンがあるのか!と内心すごくワクワクした。
ワクワクが込み上げてきて笑みを必死に抑えた。
これもこの人独自のエンタメだなって今思うと、そう感じる。

オーディションには基本的に僕より年齢の低い子しかいなかった。
そう。高校生ではこの世界は遅すぎた…僕はそう感じていた。
小さい子が多いからなのか、その人はその後“公共交通機関で来る時の注意事項”や“人の目を見て話を聞くんだよ、など最低限のルール”を話してくれた。

周りは中学生、下手したら小学生の子に混じって
自分に出来ることを必死にやった。
ダンスはもちろん、難しかったけど楽しかった。
ずっとテレビで憧れてみていたスタイルの踊りにワクワクした。
振付師の人が怖いのはテレビや雑誌でなんとなく知っていて、デカくていかつくて(僕のイメージです。すみません)、でも優しかった。
何列にも並んで踊っている時、肩をポンと叩いて「頑張れよ」と言ってくれたのが忘れられない。
…でも、“どっちの意味なんだ…”と焦った自分もいた。
もっと無邪気に若い頃だったら、素直に「はいっ!!」って言えたんだろうけど、必死だったからたぶん特にリアクションできなかったと思う…。

「アクロバットができる人?」となった時、率先して今できる技を披露した。
あと、「ローラースケート滑れる人?」となった時も、インラインスケートは得意だったけど、ローラースケートは初めてなのを隠して出来ますと滑りを披露した。

一つやらかしたのは、オーディション中に並んで踊っている時、
後ろにステップを踏んだ時に後ろにたまたま居たトップの足を踏んだこと。
終わった…と、高校生ながら悟った。

オーディションが終わって、またトップの人がみんなを集めた。
今までテレビとかではこの事務所には[オーディションの合格が存在しない]ようなことを所属タレントが言っているのを何度か目にしていたけど、この日は合格者が2名いた。
その2人をトップが紹介して、“こういうところが良かったんだよ”って説明してくれたと記憶している。
振付師の人も他の子達を励ます言葉をくれてオーディションが終わった。
この時の合格者の一人は今でも活躍していて、人を見抜く天才的な力に身をもって感心していた。

たしかその後、みんなを食堂に連れて行ってくれて各々好きなご飯を食べた。

オーディションに通ると次のレッスンに呼ばれるみたいな説明もあったけど、僕は一通りある意味満足をしていた。
もし今回がダメでも、憧れ続けていたオーディションに参加できたことが嬉しかった。

次の週、家に帰ると留守電が入っていた。
「明日、レッスンがあるから来てください」
僕は飛び跳ねて、興奮した手で親に電話した。

それからたぶん、1ヶ月ほどレッスンに通って
ある日、“次のMステに出るメンバーを決める”と説明をもらい、またオーディションみたいなかたちで踊った。
というより、毎回オーディションなんだ。レッスンというより。
“次は呼ばれないかもしれない”毎週週末あたりになるとそんな恐怖が心を襲った。

そんな思いがあったから、これに落ちたらもうチャンスがないのはわかっていた。

必死に振り付けを覚えて踊った。

結果は不合格。
次の日、テレビを付けると沢山の仲間たちがキラキラした姿で踊っていた。
それを僕は家のテレビで見てる。

夢に一歩届かなかった。けど、正直楽しかった。でも、すげー悔しかった。

僕は高校で普通の高校生を送った。
エンタメに惹かれていた僕は演劇部に入部して高校演劇と出会った。
もちろんダンスを続けながら。
当時はダンスをやっている人なんていなかったから、学校の休み時間に廊下で一人で踊ったり、文化祭で一人でダンスを披露したりしていた。

少し話は逸れるけど、僕は走るのも得意だった。
高校受験の時も駅伝で推薦できると先生に言われたけど、その学校だと学力が足りないですと断ったことがあるくらい。

演劇部だったけど、学内のマラソン大会ではいつも上位に入って
何故か化学の先生に「君は金の卵かもしれない」と言われたり、サッカー部に掛け持ちで入って欲しいと言ってもらえるくらいの体力はあった。

そんな高校生活が終わる頃、ふと思ったことがある。

“憧れ続けたあの世界には、もう入れないのか…”

人生で唯一、具体的に掲げた夢だったから、そう簡単には忘れられなかった。

僕は再び、履歴書を送った。

これが最後のチャンス。
これでダメだったら諦めよう。と。

すると2〜3ヶ月して返事が来た。
この時は既に大学1年、18歳だった。
当時、ライブをしていた所属アーティストのライブ会場がオーディション会場だった。

最初にライブを少し見させてもらって
“合格したら来週あそこに立つんだよ”って。

正直、まじか!と思った。
オーディションでは大体2〜3チームに分けられる。
Aチーム、Bチーム、Cチーム。
前回のオーディションで、B以上じゃないと不合格になるってなんとなく感じていたから、必死に踊った。

なんとかAチームに振り分けられた。
でも油断なんかできる状況じゃない。

面接では、久しぶりにあったトップの人に
「えー!?18歳?!」と驚かれた。
たぶん、年齢と見た目と大きさが合わなかったんだろうね。
その後、履歴書を見て「まぁ、でも、ギターも弾けるしね」と謎のフォローをされて、人を見抜く天才的な力のある人だから僕は今でもこの言葉が引っかかってる。
「僕はギター練習して習得した方が魅力があるのか!?」って年に数回思い出す。

この日、無事にAチームのまま終われたから
来週の集合についても説明をもらった。

つまり、憧れのステージに立てることになった。

信じられないくらいのテンポで進んでいく世界。
出会うのも、居なくなるのも、容赦ない。

2006年、大学1年、18歳。
僕は生まれて初めて、人生史上最大規模のステージを踏んだ。
でも研修生として。このステージも常にオーディション。

心臓の鼓動を書き換えられそうになるくらいの重低音。
お客様の嬉しそうな目線、熱狂的な声援。
会場を駆け抜ける時の頬にズキズキとしつつも爽やかに感じる風。
全てが刺激的だった。

自分の出番のきっかけの曲とか実際に踊った曲とか
今でも心が躍るんです。
それくらい濃厚だった。

このアーティストのライブでは無事任務を全うしました。

一瞬で過ぎていく時間。
夢の舞台。

その後、2〜3週間後に別のアーティストのライブにも出演できた。

少ない公演期間なのに
僕はここで最大の失態をおかす…。

ある朝、目が覚めると、目を開けた瞬間でもう“終わった…”と思った。
吐きそうなくらいの鼓動で時計を見ると、集合時間だった。
半ばパニックになりながらもまずは電話だ、と担当の人に電話をした。
“何分くらいかかる?気をつけてきてね”と、そんな優しい声が逆に怖かった。
当時大学の方に住んでいたため、電車では約1時間の距離だった。

ある意味死を覚悟しながらもダッシュで現場で向かうと
その日、ライブで躍る曲が1曲増えていた。
もうみんなは振り入れが終わっていて、振り付けの人には
「居ないからセンターにしちゃったよ、振り付け覚えておいてね」と伝えられ
仲間に振りを入れてもらい、必死に覚えた。
もうとにかくやり切るしかなかった。

ライブ中はとにかく楽しかった。

近くでパフォーマンスしている先輩たちは本当にカッコよかった。

なんとか駆け抜けた数日間。
僕の憧れ続けた世界の最後の舞台だった。

以降はレッスンに呼ばれることはなかったけど
若干夢は叶った気がした。

けど、同時に
大きな目標が一つ終わりを告げた瞬間でもあった。


それからダンスを生かして演劇の世界に足を踏み込んだ。
最初はダンサーとして、アンサンブルとして、
東京で初舞台を踏んだのが2007年。

舞台に立ち始めた頃、ずっと心に置いていた言葉がある

初めてのコンサートのリハの時トップの人が研修生に放った言葉
「目の前の何十人相手にしててもダメだよ。もっと広い視野で何百人相手にしなきゃ。そうじゃなきゃ〜のようにソロコンサート出来ないよ」

客席に手を振るだけでも、こんなアドバイスをくれることにその世界の本気を感じた。

僕の中でだいぶ変換されてるかもしれないけど、ステージで踊る時の一つの目標にもなった。
自分は身体が小さいからどうやったら見てくれるんだろう。印象に残るんだろう。
どうやって見られることが正解なんだろう。って考えるようになった。

僕は高校、大学である程度大人に近い状態でこんな瞬間たちと出会っているけど
もっと若くして出会っていたらきっとそれは本当にかけがえのない自分のパーツになっていくんだろうなと感じた。

だからこそ、この世界でエンタメに生き続けている人たちには尊敬しかない。

表面上だけ見られたら、ダンスがあまり上手じゃないとか、歌が、演技がって批判の声もあるかもしれないけど、それを積み重ねていけること自体すごいことなんだって知ってほしい。

みんな思ったより自分のパフォーマンスに命かけてて魂削ってその舞台に立っているんだろうなって、そう思う。


そんな世界が、今音を立てながら崩れていく姿を見ると
正直胸が苦しくなる。

僕は触り程度しか、なんならその会社の一部にもなりきれなかった存在だからなんとも言えないけど。

けど、その世界に夢を描いた一人の人間として。
少なくとも刺激をもらっていた一人の表現者として。

世間がただ、積み上げられてきた歴史を抹消しようとしていることが悲しい。
もちろん葬り去らなきゃいけないこともあるのもわかっているけど
良いものを命かけて作ってきた人たちがいることを忘れてほしくない。

キラキラと目に映っていたものは現実だし
今でも夢や憧れを抱いて日々励んでいる未来ある子たちがいると思う。

汚いものは隠せばいい。そんな時代じゃなくなりつつあるんだと思う。
事実を目の前に叩きつけられても、それでもこの世界で生き抜くんだって、これからの世代はそう強くなっていくんだとも思う。

憧れ続けた。それも人生。
僕の青春。

僕は結構人生の一部になっちゃっているから
今まで沢山パワーをもらってきたから

どんな現実で終結しても
“自分が信じていけるもの”を大事にしたいと思います。


僕は密かに思っているんだ。
あの人のように壮大なものは描けないけど
小さくても、魅力のあるエンタメの中で生きていたい、それを作りたいって。
或いは、それを作る一部になりたいって。

それが今の僕を動かしているモチベーションでもある。

だから僕はダンスでも芝居でも写真でも
方法にはこだわらず、表現の中で生きていたいって思うのです。


それが僕の人生。


憧れから夢に繋がって
いまがある。

永遠はないんだなって感じたけど

だからこそ、エンタメは面白いんじゃないかって

そう思います。

あの日から、これを超える夢を抱けていないけど
いつかまたそんな夢と出逢えるように
自分の中に生きるエンタメを探し続けていきます。


これは記録として。


2023.10.3

富田大樹

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