樹木陽和

教師として、見たこと、読んだこと、考えたことなど、さまざまな断片をまとめ、ためてゆく&…

樹木陽和

教師として、見たこと、読んだこと、考えたことなど、さまざまな断片をまとめ、ためてゆく<試み>としてのノートです。

最近の記事

私にとってのサードプレイス

 サードプレイスをもつことは「根をもつことと翼をもつこと」(by見田宗介)につながるのではないか。自身の根っこを掘り下げ、新たな可能性をもって羽ばたくこと、それらを実現するための秘密基地として、サードプレイスを捉えられるのではないか。  というのも、研究であったり、読書であったり、仕事であったり、それを家でやることって自分の中では難しいからだ。家では家でやるべきことがあり、職場ではやるべきことがどんどん生まれていく。その結果、家での自分、職場での自分とは違う自分を求めてしま

    • 実習指導から見えてきたこと

       教育実習生を受け入れた。指導することによって、自分の考えていることがつまびらかになっていく。教師として、自分が考えていることが言語化されていく。  実習生に「実習期間で一番大切だなと思ったことは?」と聞くと、「見ること」と言っていた。たしかに、実習期間中、「見ること」の重要さを繰り返し言ったかもしれない。  声をかけることも必要だが、まずその子がいったいどんな子どもで、そして、なにに困っているのか、そのことをよく見て声かけをした方がよいと実習最初の週に伝えた。声かけは何

      • 来年は

         今年はできなかった分、来年はといってると、なかなか実現しない。来年になると、同じことの繰り返しになってしまう。来年こそはと思っているのならば、今年着手すべきなのだ。  着手することによって、見えることがある。やったことがないことは始動に時間がかかる。やったことない分、先が見えないからだ、そして、その分試行錯誤を必要とする。  しかし、何事も試行錯誤は伴う。万全の準備をしても、想定外のことは起こる。だから、万全の準備がしてないからと避けていると、ずっと着手することはない。

        • 本をダシにする

           長い間、読書をテスト勉強の延長線上でとらえていた。しかし、『知的生産の技術』をよみ、かんがえ方が変わった。    今までは、本の内容をおぼえようということに躍起になっていた。テスト前に必死に教科書を丸暗記するように、本をよもうとしていた。試験勉強から脱却することができずにいた。よむこと、即ちおぼえることだった。  しかし、それはひじょうにきゅうくつだった。  本をダシにする。よむことで、みずからの考えがかたちづかれていく。本をダシととらえるだけで、軽やかによむことがで

        私にとってのサードプレイス

          豆論文というアウトプット

           まとまったものを書こうと思っていてもなかなか書けない。だから、こうして思いついたことをカタチにしておくということは大事だ。  梅棹忠夫の『知的生産の技術』の中で、カードには、単にメモではなく、自分が忘れた頃に読んでもわかるように、豆論文というまとまったカタチで書いておくことが勧められていた。  たしかに、論文ではなく、豆論文をコツコツまとめていくことは、インプット、アウトプットの両輪をうまくまわすためのコツだとおもう。というのも、箇条書きメモより、豆論文というカタチで残

          豆論文というアウトプット

          あえて空になる

           夏休みの過ごし方を変えてみた。これまでの夏休みというと、とにかくインプットを考えていた。あれも読みたい、これも読みたい、そして、セミナーや研修会にも参加し、映画、美術展を見に行き、さらには一人旅もする。日頃の「したい」を一気に詰め込もうとしていた。  けれども、今年の夏は、あえて、何もしなかった。  夏にあれをしたい、これをしたいを詰め込むと、結局、あれもやらなくては、これもやらなくてはと心が休まらない。学期中に一杯一杯になっていた自分がさらに溢れて、気持ちの余裕のない

          あえて空になる

          張り切りすぎない

           結局のところ、張り切りすぎないことだ。6月になると、年度当初に考えていたことが実行できているか、いないかがわかる。学級の様子を見ても、その学級の空気というのか、そのクラスカラーというのが出てくる。  スタート時期は、たしかに「黄金の3日間」かもしれない。その時は、こちらも気を張っているので、敏感になる。けれども、その張りつめた神経はいつまでももたない。徐々にゆるみがでてくる。  そこで、ゆるみの時期をどう乗り切るのかが問題となる。ゆるみっぱなしにして、そのままなんとなく

          張り切りすぎない

          インプット欲

           インプットの量が圧倒的に減ってきたと感じる。それは、読書量が減ったことと比例している。昔のノートを見ながら、気付いた。こんな本を読んでいたんだ、と改めて気付いた。ビジネス書、新書、自己啓発本、専門書など、幅広く読んでいた。こんな本を読んでいたんだ、とすっかり忘れていた。    それがきっかけで、今の自分のインプットを振り返る。確かに、社会人はインプットも大事だが、それ以上にアウトプットすることが求められる。けれども、どうせアウトプットにつながらないだろうという思って、インプ

          インプット欲

          僕とゴダール

           ゴダールが亡くなった。そのニュースは、衝撃だった。もちろん、その死因も。  ゴダールというと、それは僕にとって、教養の香りのする固有名詞だ。それは、どこか、青春の象徴のような気もする。  その名が僕に最初に刻まれたのは、村上龍の自伝的青春小説『69』だ。地方の男子高校生であった主人公と友人との会話の中で出てきた「ゴダール」という人物。それが、僕とゴダールの出会いだ。同じく、地方の高校生であった僕にその名前が刻まれた。もちろん、その時、ゴダールの作品を見ることなんてできな

          僕とゴダール

          夏休みだ!

           夏休みとなった。7月に入ると、夏休みまでのカウントダウンに入る。成績処理や所見など、期末に向けての仕事が一つ一つ終わっていくと、ウキウキしてくる。そうした気持ちは子供たちと一緒なのだろう。そうしたウキウキした気持ちと同時に湧き上がってくるのが、学びたいなという思いである。  と言っても、夏休みになって、いきなり、湧き上がってくるわけではない。むしろ、1学期の中の課題意識の中で作られていく。だからこそ、夏休みにはたくさんのセミナーや研修があるのだろう。  けれども、その一

          夏休みだ!

          文章を書くこと

           自分で考えていることをこうして文章にすると、考えがまとまる。逆に、考えがまとまっていなければ、文章をうまく綴ることができない。書くことは、自分の考えをまとめる良い方法なのだ。  面白いのは、書いているうちに、最初に書こうと思ったこととどんどん離れていくことだ。自分でこんなことを書きたいと、ある程度着地点を決めていたはずなのに、いざ書き出してみると、自分の思いもしなかったことを書いている。文章を書くことによって、自分の考えが新たに展開される。つまり、考える力を身に付けたけれ

          文章を書くこと

          時間も資源である

           どうも無自覚に長時間職場にいることが癖になってしまっているようだ。あるいは、土日に職場に行って、平日に終わらなかった仕事をやることが当たり前になっている。当たり前になると、怖い。  感覚も慣れてしまう。朝から晩まで、土日関係なく、職場に行ってしまう。そうすると、常に何かに追われている気分になる。すぐに、イライラしてしまう。イライラしている自分にもイライラしてしまう。感情が悪循環だ。  心も、体もしんどくなる。  そんな状態を何年も続けていた。  だからこそ、生産性を

          時間も資源である

          振り返りと読み返し

           授業の最後に「今日の授業の振り返りを書いてください」と生徒に指示をする。そうして書いた振り返りや感想を回収し、そして、コメントを入れながら、返却をする。返却された生徒は、そのコメントや評価を見て、ファイリングしたり、ノートに貼ったりする。  しかし、その後、生徒は読み返すことがあるのだろうか。むしろ、以前、自分がどんなことを考えて書いていたのかを読み返すことがあるのだろか。というより、私たちは生徒がそうして読み返す機会をつくっているのだろうか。  つまり、「振り返りを書

          振り返りと読み返し

          教師として「大人になる」

           教師として経験を重ねる。異動先で、さまざまな同僚と出会う。その中で、すごいなと思う同僚や先輩たちに惹かれる。生徒と同じように感化され、自分もこんな風になりたいと、同じような振る舞いをするようになる。  例えば、先輩は授業、学級経営に役立つようなネタや教材、子供たちの行事へのもっていき方など、教わる。その教えを受けてやってみると、うまくいく。それによって、充実感をもつ。だから、それが「正しい」と思う。  それをさらに自分でアレンジを加えながら、それらのネタ、技術が自分に馴

          教師として「大人になる」

          「根っこ」をめぐる対話の必要性

           夏休みになり、研修を受ける機会があった。その中で、教科に関わる研修を受けた。研修を受けることによって、学習指導要領をどう実際の授業に落とし込めばよいのかという授業づくりについて知ることができた。だが、それだけでよいのだろうか、という違和感を感じた。  その違和感とは何か。それは、本質的な議論をしなくてよいのかということである。例えば、教科の目標そのものに関する議論である。中学社会科の教科目標は次の通りである。  社会的な見方・考え方を働かせ、課題を追究したり解決したりす

          「根っこ」をめぐる対話の必要性

          再び書きはじめる

           書こうと思っていたけれども、結局書けずじまいだった。思っていても、そのままにしていた。だが、考えているということを文章にしなければ、考えているとは言えない。思いついたことを箇条書きにしたとしても、文章にしなければ、どんな考えであるのか、輪郭が見えてこない。書くことによって考えていないことに気づき、また書くことによって考えが進み、まとまっていく。  だからこそ、こうしてまとまった文章にして表現することが大切なのだ。文章は、自分の考えを見えるものにしてくれる。無意識を意識化に

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