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不器用な自分は「畳の上の針」でありたい。

自分は昔から不器用だ。
なんでこうも上手く物事が理解できず、ヘマばかりしてしまうのか。
周りの友人たちと比べていつも不安だった。

一番最初に「あれ、自分のペースってもしかして周りと違ってる?」と感じたのは小学校低学年の時。

3学期に「学活」という授業で一年の思い出の写真をアルバムの中に挟んで完成させるという授業があった。フィルムをはがし、フィルムとシールの間に写真をいい感じに入れてまたフィルムを被せる、といったごく簡単な内容だった。

たったそれだけの作業だったが、なぜか先生の説明を聞いても何をするべきなのかが全く分からない。周りの友達がスイスイと作業を進めてキャッキャ笑っている中、とてつもない焦りと孤立感を感じていた。

「え、なんで今の説明でわかるの...?」

不安ではあったがとにかく作業はしなければいけない。内気な性格であったため周りに聞くこともできず、こっそりと周りの子の手元を見て真似をした。

間違えるような手順もなければ難しい作業でもないのに、見様見真似でやった不安からか、先生が見回りにきた時は死ぬほど怖かったのを鮮明に覚えている。

内気な性格も少しずつ変化し、友人も増えた頃には、要領が悪いことで失望されないようにと、大袈裟にアホっぽく振る舞うことで「こいつはいつもこうだから仕方ないよ」と笑われることの方が楽だと気づいた。でも不安やコンプレックスは消えることはなかった。

それ以外にもとにかく忘れ物が多った。
小学生4年生の時、忘れ物一個につき校庭の石100個拾うというペナルティがあったのだが(今の時代であれば大問題かもしれない)1日10個の忘れ物をしたことがあり、大きな一輪車を校庭に持っていって1000個の石をあつめたこともあった。サッカー少年団の同級生たちが走り回るのを横目にひたすらに小石を集めたのは苦い思い出だ。まるで賽の河原だ。

そんなこんなで自分が周りよりいまいち要領がよくないことを子供ながらに感じていた僕は、小学校4,5年生くらいの時にそれとなく母親にそのことを話したことがあった。もちろんプライドもあったため、深刻な悩みの相談という感じではなく軽い感じでだ。
「本当にあんた抜けてるんだからしっかりしなさいよねー」的な返しが来るのではなかろうかと予想していたが、母は意外なことを言い出した。

「あんたは畳の上の針だから大丈夫」


...?
予想外の反応と謎の言葉にハテナが浮かんだ。...畳の上の針???誰かの金言かなにかですか?とポカンとしていると意味を教えてくれた。

どうやら「畳の上の針」というのは母親の造語らしい。
畳の上に細い針を落としてしまうと、規則正しく並ぶ畳の目に紛れておそらく一目では分からなくなってしまうだろう。ところが色々角度を変えてみた時、針が光の反射でキラリと光る一瞬がある、そういう情景をイメージした言葉であるとのこと。

つまり、要領も悪くて目立たない存在である僕は一見すると畳の上に紛れた「針」であるが、いろんな角度から僕という人間をみた時に人より優れているもの、光るなにかは必ずあるんだからコンプレックスに悩みすぎるな、良いところを伸ばせという母なりのアドバイスだったのだ。

僕は昔から絵が好きでノートの端や机の上にたくさんの落書きを描いていたのだが、お世辞にも上手いと言えない僕の絵を母は「天才だ!」「素敵」と褒め続けていた。

そのお陰もありスケッチ大会などで入賞したこともない自分がなんとなく「絵なら自分でも人並みのものが描けるんだ」と少しばかりの自信を持てた。僕の場合の「針」の反射の部分に当たるのだろう。
母や周りの友人たちがいい意味で僕を勘違いさせ続けてくれた結果、今も描き続け、デザインや表現の世界にいることができている。

これから先も周りの人とのギャップや自分の不甲斐なさに凹むことはたくさんあるだろう。でもそんな時こそ卑屈になるのではなく、母のこの言葉を思いだして、「畳の上の針」として輝けるように、精一杯自分の役割を全うしたい。

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