子どもをギューッとしたら、リスクが下がった話
子どもを朝ギューッとしたら、リスクが下がった話。
*
夫は、できるだけ毎朝、
子どもがその日1日を、
安全に過ごせるかどうかを計測してくれる。
夫にはそういうような特技があって、
それを生かした仕事をしています。
危険、といってもいろいろ。
精神的なリスク、身体的なリスク、
多少痛い目にあっても、
この子の人生にとって
プラスになるかもしれない、
経験したほうがよいリスク、とか。
まぁでも、
夫がせっせと計測してたところで、
あれ?顔にあざがあるけど、ぶつかったの?
とか、
悲しいことがあったのか?とか、
日々いろいろはあるんですけどね。
毎朝。たいていは。
「オッケー大丈夫。
今日もけっこう楽しいし、安全だよ。
あとは、名前を5回言ってあげて。」
というので、父と母で、
フルネームを何度か唱えてから送り出す。
呼べば呼ぶほど、
この子のお守りになるような名前を、
と思ってつけました。
この先、
もっとふさわしい良い名前が見つかったり、
授かったりするようなことがあれば、
名前は大事だからね、
法律上の漢字を変えることこそ難しくても、
遠慮なくそれを使っていったらいい。
そして、先日の朝。
「ん?あれ?
なんかちょっと・・・。
危険度が・・・。
えっとね、ギューッとしてあげて。」
というので、
制服を着て準備万端の子どもを、
何秒間か、ギューーーーッとした。
「お、いいね。
大丈夫になった!オッケー!」
という。
あー、そうなのね。
こういうのも、
祈りのひとつなんじゃないかと思った。
心配しすぎやおせっかいすぎるのは、
気を付けねば、と常に思っているけど、
愛や祈りって、
堅くて重い盾にはならないかもしれないけど、
しなやかで軽い透明なクッションのようには、
間違いなくなってくれる気がする。
うちの院にお子さんが治療に来られた時、
そういうことは、ときどきある。
本人にとって、目に見えるリスクや、
なにか霊的なリスクがあったり、
なにかを発症するべき原因があるはずなのに、
ご両親の愛がこの子を守ってますね。
ということが。
または、夫の脳裏に、
その子の親ではない誰かの顔が見えて、
「あぁ、学校の担任の先生ですかね。
この子をとても愛して、守ってくれていますね」
ということもときどきあるんです。
「そうです、そういう感じの先生です、
いい先生だなとは思ってましたけど」って、
ご両親が驚かれたりする。
うちの子は、
まだまだ甘えん坊男子なので、
ギューッとするのはしょっちゅう。
だけど、朝の登校前に、
朝日を浴びながら、
この子が安全にいい一日を過ごせるように、
と思ってもう一度ギューッとするのは、
あらためて考えても、
やっぱりとってもいい気がする。
毎朝、子どもの危険をいちいち計測だなんて、
やりすぎ、心配しすぎかな、
って思ったこともあったけど、
夫の言葉がたまたま「計測」というだけで。
例えば、
ずっとずっと昔の人たちだって、
何が起きるか分からない旅をすることで、
よりよく生き延びられる可能性を見出してきたり、
今だって、
何時間も歩いて飲み水を汲みに行く子どもが
いることを想うと、
大切な人の命が安全であるように、
元気でまた帰ってきてくれるように、
そのために祈ったり、
心からの言葉をかけるのは、
とてもとても自然なことで、
送り出す人が影響を与えられる
唯一のことのような気がする。
なんでもない、いつも通りの朝でも、
フッと何かを感じて、
予定を変更する決断ができるかどうかは、
もしかしたら、
なにより大切なことかもしれない。
子どもがひとり、
学校という社会に出かけていくことだって、
大人には想像できない危険でいっぱいなはず。
毎日変わらず、
学校から無事に家に戻って、
笑って遊んだり、
ブツブツ言いながら宿題をするのだって、
たぶん、奇跡だしね。
何ごとも経験、ってよく言うけど、
経験したほうがいいこともいっぱいあるけど、
経験しないほうがいいこともいっぱいある。
夫と、
夫の誰より気の合う飲み友達と二人で、
意気投合してそう話していたのを思い出す。
うちの子が、
どんな人生を歩んで、
どんんな経験を積んで生きていくのか、
私たち親の知るところではないし、
ケガだって病気だってしながら
なんとかやっていくんだと思うけど、
あなたがイヤだと言うまでは、
ギューッとさせてもらうし、
目の前から巣立ったら、
忘れちゃうくらいが楽かもしれないけど、
できるだけ邪魔にならないように、
思い出したら祈るよ。
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