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信じることを信じないこと

 人に言うと書いて「信じる」
漢字の成り立ちから喋る金八先生スタイルだが
それは、自分に言い聞かせるとか他の人に言うとか、要は伝えることなのだ。

 神様がどのようなスタンスでいるかも知らないし、天国と地獄が存在するかも知らないし、
その考えを誰かに伝えることで宗教という関係性ができあがる。
内に秘めるだけなら、誰も関心を持たないし、理解者を増やす必要もない。
自分の作品が凄いと伝えることで評価を受け、
この商品のデザインが良く機能性が優れてると伝えることで購入に至る。

あなたが何を信じるかはどこにチャンネルを合わせるかということである。
興味のないニュース番組は垂れ流すだけで、そこから情報を読み取ることもない。
だが、それを批判して何かを言いたいとなるとそのニュースに目を向けることになる。
提示される情報の真偽は定かではないのに、あなたの思考は組み立てられていく。
そして、有識者を名乗る大人が評価をし、足りない部分や違うところを修正する。
あなたは有識者の考えに賛同し、自分は正しい考えを持った人物だと思う。
その考えを誰かに表明し、相手に考えさせる。
これで、宗教に似た入口の完成である。

ミイラ取りがミイラになる。宗教の考えを否定しようとするばかりに、あなたの主張は肯定しつつも丸みこまれていくという手段である。
伝わらない相手に伝えてもしょうがないが、
知ろうとする者に知らせるのは簡単だ。
自分が何を信じるのかではなく、相手が何を伝えようとしているのかを意識するのが大事である。

この壺を買えば幸せになると言われたら、何で幸せになるかを質問するだろう。そしたら、用意してきたストーリーを話し、あなたがどうなりたいかを聞く。それは全て信じ込ませるための手段で作戦通りにことを進める。
その壺には不思議な力があると言われても、力がないことは法律や科学でも証明できない。
ただ、相手が伝えたいことはただ一つ、この壺を買うべきだということであり、それ以外はただの肉付けしただけの情報でしかない。

相手と自分という矢印が同時に向かうことによって信じるという構図ができる。伝えるという行為は一方的で、こっちがどう感じるかである。
何を伝えたいかを知ることで無駄な情報が削ぎ落とされ、目的や本質が見えてくる。
さて、この文章はあなたにどう伝わったのだろう。






久しぶりに競馬をやったら、見事に外したよ
自分を信じた罪だというのかマイナス収支…
2022.8.27通りすがりのヨシダ

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