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[暮らしっ句]銀杏落葉[俳句鑑賞]

 最初は、スナップ写真のような作品から

 掬ひては 銀杏落葉をまた散らす  藤本艶野
 母に子に 銀杏落葉の明るさよ  関薫子
 嵩ばれる 銀杏落葉を蹴り上ぐる  二村蘭秋

 この三つのシーン、いずれも撮影したことがあります。一つの風物詩。毎年、各地で何百組という家族やカップルがやってきたし今も続いている。平和というのは、案外そんな積み重ねかも。
 じゃあ、それを邪魔するもの何か? 何だと思います?
 もしかしたら「有料サービス」?

「公園行こうか?」
「いや! テーマパーク連れて行って! ○○買って!」

 同じ写生句でも違った趣きの句も。

 外苑の銀杏落葉や 人淡し  石田邦子

 見たままを詠んでるようですが、写真に撮れば「人」は「淡」くなりません。「銀杏落葉」が明るいので逆光のように黒っぽくなる。じゃあ、これは心象風景なのか?
 ちょっと考えさせられましたが、思い当たったのは水墨画。水墨画の濃淡は明暗ではありません。前景や主題が濃く描かれ、背景は余白につなげるために淡く描かれます。この句の光景を、前景が銀杏、背景に人がいる水墨画だと思えば辻褄が合うのです。
 こういうと作者の視覚はユニークだと思われるかも知れませんが、近代以前の東洋人には、それが普通だった。わずか百年くらいの間に変わってしまったわけです。
 素直に感じることは大事ですが、その素直は現代の常識に染まってる…… そんなことを気づかせてもらえました。
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 降り散れる 銀杏落葉の日溜りに  浅井青陽子

 普通に考えれば「銀杏落葉の日溜りに」……「何があるねん?」となると思います。肝心なことが描いてないやんと。
 でも、そうやって問を発すると、それが自分に跳ね返ってきます。

「肝心なことって何んや?」

 実際、この句のような実景を見た方は思い出してみて下さい。ある種の「神々しさ」を感じられたのではないでしょうか? いわば「聖域」です。「聖域」って「場」がすごいんです。その「場」はそこに何かを置くための土台だったり、そこで何かやったりするための舞台ではない。日が射した瞬間に「場」が依り代になっていた。
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 振りむけば 銀杏落葉の舞ふばかり  岡田誠吾

 自分の人生を人生を重ねて詠んだ句…… 年寄りのわたしにはそう感じられました。なので、そんな読み解き。
 落ち葉の一枚一枚が過去の出来事だったとして、それは哀れなな残骸でしょうか? クヌギやらブナの落ち葉ならそんな印象になりますが、銀杏は光り輝いています。過去は光に満ちている。
 それはいわゆる「過去の栄光」ではありません。家族に話しても一度しか聞いて貰えないようなささやかな出来事。でも自分の中では何度でもリプレイしてきた思い出。そういう思い出は思い出す度、身体熱くなる。あるいは恥ずかしくなったり懺悔したくなる。要するに思い出が動き始める……
 思い出す人がいる限り、その物語は終わっていないと思います。ほんと「量子の世界」っぽい。観察すれば現れる。振り返らなければ無いも同然。
「振り向けば」輝くし「舞」いはじめる!
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 銀杏落葉 一筋掃きて径とせる  加藤暢一

 禅の世界みたい。隅から隅まで丹念に掃除した方がよい場所もありますが、径(みち)「一筋」、わかれば良いというのなら、それ以上のことはしないというのも一つの見識であり美学でしょう。
 いよいよ衰えてくると庭の掃除もままならなくなります。そんな時、歩くところだけ掃くというのは、むしろ絵になる光景。利休が朝顔を一輪摘んであとはすべて撤去したとか、きれいに掃除したあとで、いくらかの葉を散らしたとか、そういうのがあざとく感じられるほど。
 利休だって、もし長生きしていたら「老の美」を発見したかも。
 というか、もうすぐ登場しますよ。「老の美」を発見し伝導する利休や柳宗悦のような美の巨人が! 早く登場していただいて、年寄りの評価をあげていただきたい~ いや人頼みしてないで頑張ろう!

出典 俳誌のサロン 歳時記 銀杏落葉 
銀杏落葉
ttp://www.haisi.com/saijiki/ichouotiba.htm


画像は kawatamaico さんの御作品。ありがとうございます。



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