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[教養小噺]「論理積」な話がしたい! お金より話が大事? ホンマかいな~

 足し算とか掛け算が、実はものすごく奥が深いものらしい、ということは、超絶難問のABC予想にまつわる話の中で、雰囲気だけは理解していたのですが。

 今回は「論理的な掛け算(論理積)」について。

「算数の掛け算」とは違います。
 論考や議論の中で比喩として使われる「掛け算」は算数のそれではなく「論理的な掛け算(論理積)」のことを云ってる場合があるんです。

「君とボクが組めば、足し算じゃなく掛け算で、何倍もの効果があると思う」 というような話は、「算数の掛け算」。

 では「論理的な掛け算」だとどうなるのか? 抽象的に云うと難しいので、具体例で示します。

 まず、わかりやすいところから。
「論理的な足し算(論理和)」のケース。
「腕力の強いものと頭の良い者が組めば、怖いものなしだ!」
 この場合は「算数の足し算」とほぼ同じ。

 一方「論理的な掛け算(論理積)」のケースは
 空手の達人と太極拳の達人が意気投合して、武道の真髄を語り合うようなイメージ。二人で組んで戦うというのではありませんし、空手と太極拳を融合するわけでもありません。
 よく雑誌やテレビで各界の第一人者の対談があるじゃないですか。○○のチャンピオンと○○の名人という異分野なのに不思議と話が弾む。一番大事にしてきたことは何か? 偶然はあるのか? といった抽象度の高いテーマだと両者は古くからの知己のように語り合える。登った山は違うのに、頂上の世界は通じ合ってたみたいな。
 ただ、それは仲間との会話ではありません。相手は予測できませんし、まったく意外な言葉が返ってくることもしばしば。でも、それが「!」となる。愉快でたまらない。

 つまり「算数的な掛け算」だと「量」が増えるわけですが、「論理的な掛け算(論理積)」の場合には「質」が高まる。ものすごくディープな世界に行ける。

 ここまでですと、ふつうの話なので、例によってトンデモを考えてみたいと思います。

 たとえば、お金。お金って基本的には「量」の世界です。底辺の人が精一杯の努力で稼いだ千円と貸した土地から入ってくる百万円は、他人の手に渡れば区別がつかなくなる。百万円は千円の千倍の価値がある。それ以上でもそれ以下でもありません。

 しかし「論理的な掛け算(論理積)」の話(以下「積談」)は、お金を出しても得られません。今は、オンラインサロンとか、お金を払えば著名人と直接、話をする仕組みもありますが、レベルが違えば「積談」にはなりません。多くの人が愉しめる(ないしは役に立つ)話題を、ここだけの話として聴かせてもらって終わりみたいな(満足はさせてもらえる~)。「話」が相乗的に飛翔していかない。「積談」はお金では買えないんです。
 こちらにも達人の話が理解できる程度の力量が必要ですし、出来ることなら、達人が耳を傾けてくれる話が一つくらいは欲しいところ。さもないと、こっちの存在が相手に認識もしてもらえません。講演会場のジャガイモの一つになってしまう。

 売れる話を考える。頑張って作れるようになる。そういう道もあれば、

「積談」が出来るよう、たった一つでも「話(経験・哲学)」を磨くという道もあると思います。以前から、なんとなく思っていたことですが、「論理的な掛け算(論理積)」なるものを知って、そんなふうに整理することが出来ました。

理屈はそうかもしれないけど、納得できない?

売れるものが書けないやつの言い訳っぽい?


それは確かに
そうかもしれません。

なにしろ、足し算と掛け算の話ですからね。




割り切れないところは、ご勘弁~



なんだ
それが云いたかっただけかよ…


見出し画像は futen_seisukeさんの作品です。
ありがとうございました。



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