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[暮らしっ句]黄 砂[鑑賞]

「不穏」編

 不確かに 兆しはじめし 黄砂かな   天野きく江

 悪い「兆し」とは書かれていませんが、良い感じはしませんね。胸騒ぎっぽい。作者に何か気になることがあるのか、それとも黄砂には不安にさせる何かがあるのか。
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 大笑ひして 口中の黄沙かな   小田島美紀子

 一見すると「大笑ひ」ですから屈託のない句のようですが、ホラー映画だってね、他愛もない日常の描写からはじまるんです。はじめはほんの小さな異変に気づく。そんなところから恐怖の物語がはじまる!
 この作品の場合は、口の中にかすかなザラつきを感じた。たいしたことじゃない。でも、それが…… 
「黄砂」には、なんてことを想像させてしまう何かがあります。
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 シーソーの相手の をらず 黄沙降る   鳴海清美

 実景のようですが心象風景でしょうね。自分一人でシーソーに座っているとか、そんな人を見かけたということは考えにくいですから。
 誰も使ってないシーソーを見かけて、「わたし一人では出来ないな」とか「あの人と遊んだこともあったっけ」と思ったのでしょう。
 それだけなら、単なるノスタルジーですが、そこに「黄砂」が降っている。黄砂がひどいと景色が古い写真のように感じられます。すると、つい昨日のことのよう、なんて甘い感傷に浸ることが許されなくなります。それは遠い昔のことだと思い知らされる。
 もっといえば、何者かがあの日を、あの人を作者から奪っていったかのよう。むろんそれは気のせいであり「黄砂」を恨むのは八つ当たりですが、やり場のない思いが作者の中で、にわかに騒ぎ出す。
 気味が悪いほど静寂な「黄砂」と、シーソーを見かけて作者にこみあげた狂おしい感覚と、その対比が見事。
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 黄沙降る 鴉の群のみ 目に立ちて   大橋麻沙子

 普通の人が固唾を呑んで見守る状況で、活発に行動する者たちがいる。今の戦争がオーバーラップしますね。大勢の人が心を痛め、不安になる中で、一部の人たちがこの機会を逃してなるものかと燃えている……。
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 黄砂来て 落書されたボンネット   中田寿子

 子どもの無邪気なイタズラと解釈すれば、かわいらしい句ですが、落書きの内容によっては、別の意味合いになります。この作品がどうなのかということはわかりませんが、落書きについて、ひとつ思い出したことがあります。

 友人から聞いた話ですが、散歩コースにある公園の地面に落書きがあったそうです。
「大好き」という文字が目に飛び込んできたので、つい全体を読んでみると「○○先生、大好き」と書かれていた。もう一行あったのですが、それは伏せます。
 落書きは、赤土に小枝なんかでしっかりと彫られていたので翌日もその翌日も消えずに残っていた。最初は子どもの微笑ましい落書き思っていたそうですが、何度目かに気がついてしまった。
「○○先生」とは、友人が通っていた精神科の先生のことだったと。個人が特定されるといけませんので詳細は伏せますが、ほぼ確実だったそうです。
 友人は胸が詰まりました。友人はその先生の薬物治療に否定的だったからです。やっとのことで、そこから逃げ出せたと思ってる者にとっては、今現在、そこで嬉々と過ごしているものが痛ましく思えてなりません。ましてや子どもであればなおさらのことです。
 以上は、この句とは関係のない話ですが、「落書き」というのは、内容次第で、印象がガラリと変わるという一例。
 実際、雪の上に描いた落書きというのとは違うわけで、やっぱり微笑ましい句ではないですね。よくわからないけれども、一抹の不気味さが感じられます。
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 黄砂とも再開発の塵かとも   竹内弘子

 云いにくいことを句にされました。黄砂には工場やクルマの排煙、排気ガスの成分が相当付着しているそうです。核実験や原発の事故があれば放射性物質も含まれます。
 しかし、近年はそういうことはあまり報道されなくなりました。有害物質が大量に含まれている、などと云えば、間接的に、その対策ができない政府への批判になるからでしょうか。
「黄砂」によってバタバタと人が倒れるわけではないですが、二人に一人が癌を患うという異常な世界になっているわけで、それを思うと楽観は出来ません。「黄砂」もまた警戒すべき対象。
 とはいえ、「黄砂」避けるために家に閉じこもって空気清浄機をひたすら回し続けるとか、それも出来ない話。そのモヤモヤが「黄砂」のモヤに重ねられている……
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 机上なる 本の黄沙に 指のあと   上野正子

 誰かが作者が留守の間に本に触れたのか。それとも気がつかないうちに作者の指先が触れていたのか。そのあたりは描かれていません。
 ただ、想像力を刺激する作品ですね。わたしにはこんな展開が妄想されました。

 この指の跡、わたしのものだろうか?
 A子は何気なくその跡に自分の手を重ねてみた。
 すると、ふいに記憶が蘇った。
 そういえば本を開こうとしていた手にあの人の手が重ねられたことがあった。部屋に籠もってないで外に出かけようという誘いだった……。ふだん本ばかり読んでるアナタに云われたくないと云い返したが、あの時は確か一緒に出かけた…… ふきのとうがおもしろいように見つかったっけ。
 今頃、あの人はどうしているのだろう。向こうの世界でも、やはり本を開いていそうだ。ならば、今度は、こっちから誘ってやろう。
 本ばかり読んでないで出てきなさいよ。アナタの好きなモクレンが咲きはじめたわよ……


「不穏を超えて」編

 イエス説く 大いなる掌に 黄砂降る   安藤和子

 教えを説くイエスの像にも「黄砂」が降り積もっていた、そんな実景の写生のようにも受け取れますが、やはり公園のゾウやライオンの造形物とは違うのであって、神の子が意識されていると思います。
「黄砂」は神の子さえも恐れていない、とも読めますし、逆に「イエス」のほうが、大量の「黄砂」にもたじろいでいなかったと。そんなふうにも読めます。正解はどちらでしょう?
「大いなる掌」とありますから、讃えているのはイエスですね。世俗世界は一筋縄では行かないけれど、イエスは敢然と教えを説いていると。
 つまり、日を遮って世界を不安に陥れる「黄砂」も、真に偉大な存在の前では、引き立て役になってしまうという。そんなニュアンスだと思います。
 どんな困難・試練も、乗り越えることが出来れば、それが糧に変わる。自信につながる!
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 大陸は 父の奥つ城 黄砂降る   山本喜朗

「奥つ城」ということですから、父上は大陸で戦死されたのでしょうか。
軽薄な言葉しか出てきませんが、すごい時代でした。うちにも祖父が武漢から持ち帰った書があります。大陸に派兵されたのは日中戦争の時だったのでその時は生きて帰ることが出来ました。亡くなったのはその後の大東亜戦争。南方です。
 異国の地で死ぬというのは、いかばかりか。察するにあまりありますが、リアルに想像されたことが一つあります。「帰りたかっただろうなあ」ということです。
 若ければ「お母さん」となるのかもしれませんが、中年ともなれば長く暮らした町の光景、人々の日常が丸ごと愛しくなるのではないか。
 さぞかし帰りたかっただろうな、と思った家族には、蛍や蝶々どころか「黄砂」の塵にも故人の魂が感じられる。むろんその場合の「黄砂」は嫌悪の対象ではありません。
 さきほどの句では、神の前では「黄砂」も引き立て役、糧に変わると云いましたが、この句においては「黄砂」は思慕の対象になっています。いったい何が「黄砂」のイメージを百八十度転換させたのか?
「愛」でしょうね。ひと言で云えば。
 恋人が出来ると世界の見え方が変わると云いますが、あの「黄砂」だって、「愛」の前では天使になってくれる。はるばると海を越え、故人の魂を運んできてくれるのですから!
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出典 俳誌のサロン 歳時記 黄砂


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