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[暮らしっ句]春近し[鑑賞]

 土曜日は冷えそうなので、ちょっとズレましたが……

 春近し 風の軽さの 金の箔  山路紀子

 これはうまいですね。素人がいうのも何ですが。
「軽さ」って、少し重いということではないんですよね。浮き上がりそうなのを「軽さ」と感じる。実際、花かつおは飛んでいく。「金箔」は削り節よりはるかに薄いですしね。クシャミなんかしなくても、普通の呼吸で舞い上がってしまう。
 そこにこの時期ならではの、光の鮮やかさ、キラキラ感も伴われているという。技能賞!?
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 玄関に 縄跳びの縄 春近し  皆川盤水

 お孫さんと同居されているのでしょうか。
 実は今朝、夢の中に縄跳びが出てきたんです。行為じゃなくて、物が。なんでそんなものが出てきたのかと不思議に思ってたのですが、春の使者なんですかね~
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 古代史の講座 満員 春近し  山田恵子

「古代史の講座」、おそらく不要不急の外出の典型として持ち出されたのではないかと思います。つまり、そんな穴場とおぼしき場所も人であふれていた。春だなあ、と。
 しかし実際には、熱心な歴史ファンは結構おられる。寒さくらいで休んだりはされません。それに、そういう講座は単発ではなく何回かの連続講座で休むわけには行かないんですよね。
 作者も参加されてそのことに気づかれたと思いますが、でも敢えて修正しないで発表された。なぜ? そのちょっとズレたところが、まさに「春近し」だから!
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 春近し 姉ちゃんと呼ぶ ホスピス棟  水野弘

 普段は「看護師さん」とか「○○さん」と呼んでおられた方なのでしょう。ところが気心が知れ、親しく会話を交わせるようになって、思い切って「(お)姉ちゃん」と呼んでみた。そんな気分になれたのも春の兆し~
※上記は、高齢者施設のイメージです。「ホスピス棟」について経験してないんで解釈しませんでした。

 ちなみに、あんまりいうとあれですけど、おじさんが云う「オネーちゃん」には、やはり特有の意味合いがあると思います。若い女性がそう云われて、嫌な気がするというのは半分、正解。
 では、残りの半分は何か?
 説明は出来ませんが、こんなことがありました。
 わたしがまだ若かった頃の高齢者施設での話。五十代の女性職員が、就職して一年くらいの若い女性職員に、「ちょっとお尻くらい撫ぜさせてあげれば」と云ったのです。
 利用者がセクハラして、それを多目に見なさいということではありません。反応の乏しくなったお爺さんへのカンフル剤ということです。
 立ち聞きしてて、当時は「何てことを云うんだ」と感じましたが、後になると、「さすがベテラン。おじさんのことをよくご存知」だと。
 こんな云い方をしても、やっぱりセクハラになりそうですね。不快な思いをされた方、ごめんなさい。
 あ、「オニーちゃん」の世界もありますよ。わたしだって「オニーちゃん」だった時代には、耳かき持てば、行列が出来てたんですから!
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 春近し 病院食も 口に慣れ  二村蘭秋

 昔は、社会的入院というのがあったんです。平成にはもう無くなっていたかな。雪深い地方の弱った方などが、緊急性はないけれど、念のため冬期の間、病院で過ごすということが大々的にあった。
 もしかしたら、そのことかなと。晩秋に入院して、二ヶ月くらいしてようやく病院に慣れてきたという。
 この句の深みというか余韻は、来月にはもう退院だ、ということが潜んでいるからですね。退院の喜びと淋しさ、病院に慣れたことの喜びと淋しさが重ねられている。
 で、その感情に倒錯がある。病院に慣れたことは本当は喜ばしいことではないし、退院が淋しいと思うことも喜ばしいことではないからです。
 生物には適応力というものがあるわけですが、適応しない方が良いことにも適応してしまうということがあって、その悲しさが、せつない。
 文学にも疎いわたしですが、そういうのは文学っぽいですね。成功とか幸福には直接つながらない行為、努力の悲しさ。

※ここに、今の時代を読み解く一つの手がかりがあると思い、書いてみたのですが、長くなったので、別記事にします。
 要するに、サンミツサケルとかマスクとか、悲しい適応の時代になったと。我慢することでトンネルを脱けられるのならいいんですが、その先は鉱山の奥かもしれない。「もう少しの辛抱」「皆で頑張ろう」と云い合って従うのは、あの時、収容所に連れられた人たちと同じではないのか……。
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 追伸に逢ひたしとあり春近し  木村享史

 事実経過を反芻してみましょう。

1, 手紙の末尾に追伸として「会いたい」と書いてあった。

 その次に、来るのは何でしょう?

「来週は、もう三月か。桜の時期はどこも混雑するし、その手前でスケジュールを調整してみるか」

というようなことでしょうか? 普通はそんな感じだと思いますが、作者の場合は、こうです。

2, 「逢ひたい、と云ってくれた、その気持ちがうれしい」

3, 「このうれしさを句にしてみよう」

 会う算段をする前に、もう二段階あったわけです。
 手紙の「余韻をかみしめてる」ともいえますが、これから起きる出来事の「”予”韻」を味わっているとも云えそう。

 ちょっと大袈裟なことを云うと、楽しみや嬉しさを追い求めるとキリがないので良くないという考え方があります。欲望や煩悩扱いですね。でも、この句の感性からは、そういった中毒的な渇望は感じられません。ひとつの出来事を、よーく味わっておられる。
 もしかしたら、この追伸の話だって、今のことではなく、過去を思い出しておられるかも知れない。あの頃は幸せだった、ということですね。
 そう考えると、このような感性は「足るを知る」という以上に、一つの出来事を何度でも味わうことにつながると云えそうです。出来事を消費していないんです! さあ、次は何。来週は何して遊ぼう、ではない。

「いまの伴侶は同居人。好きだったのは過去のこと~ いつまでも同じ思うな!」という世界があることは承知していますし、そういう生き方に対する批判では決してありませんが、違いは大きいですね。

※この句の鑑賞からも、近未来のことが少しイメージされました。それも長くなったので、上の句から広がったイメージと共に、別記事にさせていただきます。

 さて、締めくくりは自らの「行動の兆し」

 予定表消して加へて春近し  木村享史
 繰返し農日誌読む春近し  高野荘司

「予定表消して加へて」ですから、まだ少し先のことですね。そういう段階もまたかなり愉しい時間ですね。
 あ、歳を取って少なくなりがちなのは、そういう時間かも。予定を入れるのが億劫になれば、予定表から目を背けますからね。おいしいところを一つ食べ損ねている~

「農日誌」、家庭菜園者でも、この気持ちはとてもよくわかります。シーズンがはじまると怒濤のラッシュアワーですから。記録を見て、ぬかりなく準備する必要がある。あ、もう目前だ……

 出典 俳誌のサロン 歳時記 春近し



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