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[暮らしっ句]ふきのとう[鑑賞]

※画像は、クリエイター・なめ潟もくじ さんの、タイトル「ドローイング【春きたるらし、フキノトウ】0068」をお借りしました。ありがとうございます。

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 好きな季語というより、ふきのとう自体が大好きで、何度か書いたことがあるので、今回はちょっと違った視点から。

「いただく」編

 貰うより、自分で見つけたほうがいいに決まってる! とついこないだまではそう思ってました。ところが今回、あらためて鑑賞していると、「いただく」ことの味わいもあるなと。それは準ずる喜びや代替ではなくて、また別の感慨。
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 蕗の薹 郵便受に届きたる  秋川泉
 待ちわびた 郵便受に 蕗の薹  秋川泉
 丁寧に包まれ届く 蕗の薹  宮崎千恵子

 こういう句を拝見すると、自分で見つけて自分で採るほうが、いいに決まってる! とは云えなくなります。
 へんなたとえですが、骨董品の話。同じ奈良時代の同じような工芸品であっても、人から人へ伝えられた物と出土した物とは違うそうです。ふつうは伝世品のほうが価値がある、実際、貫禄のようなものがある。深みが違う。
 経済的にいえば、価値は交換されることで発生するものですから、その出土品が国宝級であったとしても、それは交換されるまで未確定なんです。買わない専門家が鑑定してもそれは予想でしかない。ちょっと余計なたとえでしたが、誰かの手を経てることで、増す価値もあるということです。
 あ、もっとわかりやすい例がありましたね。バレンタインデーで貰ったチョコ。まったく同じ物を自分で買っても全然違う~
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 走り来し 童女がくれし 蕗の薹  谷村幸子

 通りがかりに子どもから挨拶されたら、それだけでかなり嬉しいですが、「蕗の薹」をプレゼントされたりしたら……。たとえその後、自分で採っても、そっちは人にお裾分けして、貰ったほうを食べるんじゃないか……というとあれなんで、そこまでは云いませんが、いただいたものにはそれはそれで別の価値があるというより、プレミアムがつく感じですね。
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 ひとり住む 媼の呉れし 蕗の薹  宮川迫夫

 誰にいただくかによっても印象が変わります。「媼」と「ひとり住む媼」でも違う。
「いつかご迷惑をかけることがあるかもしれませんが、よろしく……」と。そんな気持ちが「媼」の方にあるのかどうか。彼女にはそんな気がまったくなかったとしても、いただく方としては意識されます。わたしもまもなくそっちの側になる人間。何もなくても、周囲に心配をかけることになるんだなと、ちょっと考えさせられました。
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 蕗の薹 手を差し延べて もらひけり  村越化石

 受け取り方って、気持ちが表れます。回覧板一つでも、ちゃんと手で受け取って下さる人もいれば、ポストに入れて置いてという態度の人もいる。逆に、相手が「ポストに入れときますね」と云う場合もあるし。
 また、自家製の野菜とか何かのお裾分けを受け取る時と回覧板とでは態度が違ったりすれば、それも見られてますよね。態度に気をつけようということではなくて、平素の気持ちの持ち方が大事。
 でもそれはそれ、本当にうれしければ、がさつな者でもうれしい手が伸びます!
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 病む人へ 朝日はとどく 蕗の薹  森俊人

 どういう意味でしょう。ちょっと考えなくてはいけませんね。「病む人」に届いたのは「朝日」なのか「蕗の薹」なのか。国語の先生にもご覧いただいているようで緊張しますが、「蕗の薹」が届いたことを「朝日」が射したようだと表現されたのだと思います。
 大袈裟すぎる? 過剰な表現だったらいいんですよ。でもそれが素直な気持ちだったとしたら、「蕗の薹」が届くまでの日常は闇だったということになる。

 若い頃、一年足らずしかいなかったデイサービスで出会った、きんさんというおばあさん。病名は忘れましたが、症状としては、ある程度思うように動かせるのが片手だけという状態。行動範囲はベッドとその傍らに置かれたトイレとそこだけの生活。ただお金持ちだったんで、郊外の小さな一軒家をあてがわれて、一人暮らしというのか座敷牢というのか、そんな生活の方。
 わたしが他に移った時、その方から葉書をいただきました。お世話になりましたという内容。きんさんとは移動の二ヶ月くらい前に出会ったので、ほんのわずかなふれあいでしたが、不自由な身体で、わざわざ書いて下さった。ギリギリ読めるような文字。動く方の手は利き腕ではなかったんです。
 これ、たぶん今では考えられないと思います。職員の連絡先を利用者に知らせることはありませんから。当時だって、そうだったんですが、わたしは連絡先を廊下に貼ってた。まあ、トガってたわけです。
 それがきっかけで年賀状のやりとりを三回ほど続けました。もしかしたら、わたしの書いた年賀状を壁に貼って一年間、眺めているのではないかという気配を感じつつ、年賀状以外のやりとりはしませんでした。向こうもされませんでした。
 別の方で、しょっちゅう電話かけてくる人もいましたが、きんさんはそういうことはされませんでした。
 この句を拝見して、ふとそんなことが思い出されました。デイサービスの良いところは、記憶に夜がないこと。思い出されるのはすべて昼の時間。 で、それをいいことに、きんさんの夜を考えることもしてきませんでした。今回、その「闇」が届いた、ということかもしれません。

 物語は続きますね。たとえ自分が死んでも、生きている人の記憶に残っていれば、その間は……
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 こんな所に子供のころの 蕗の薹  西川五郎

「蕗の薹って、どれも同じに見えるよね」といえば、それまでの句。つまり、味わいは読み手次第。
 その場所が昔と少しも変わっていなかったからそう思ったのか。
 訪れた時刻も同じだったかもしれません。
 しかし、それでも作者が二十代ならそんなことは思わなかったでしょう。中年を過ぎ、あの頃が懐かしく思える心境だったからこそ、スイッチが入りやすかったのだと思います。
 何のスイッチ? あの頃と同期・同調するスイッチ。
 タイムマシーンは移動する装置ですが、同期・同調だと通信のイメージですかね。あの頃と、つながる。
「蕗の薹」が通信機だったんでしょうか? そうかもしれません。
 わたしにはこの句が通信機になりました。これを綴りながら、ある場所の「蕗の薹」をずっと思い浮かべていましたから……。あれは三十歳くらいの時でしたが、知人の陶芸家が山村に工房を持って招待されたんです。その時に蕗の薹があたりにたくさん出ていた。根拠なく、次は自分の番だと思っていた無邪気な時間……。
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 蕗の薹 採りに来よ との里だより  細川コマヱ

 句のうれしさはそのままダイレクトに伝わると思います。
 ですので、原作から逸脱するようなことを云いますと、

 何かを思い出すというのは、その思い出から呼びかけられているということかも。

「元気にしてっか? たまにはこっちさ、けえってこい」 と。
あの頃から、呼んでもらえる……。
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 してもらふことに慣れずよ 蕗の薹  岸洋子

 要介護になられた方とお見受けしましたが、長生きすれば誰もが通る道。とはいえ、申し訳ないなという気持ち、あるいは、自分を責める気持ちがどうしてもわいてくる。
 それが、「蕗の薹」にどう関係するのか?

 ここはぜひ皆さんの記憶にある「蕗の薹」を思い出していただいて、しばしそれを眺めていただきたいのですが、

 おそらく、あるがまま、ということではないでしょうか。

「蕗の薹」は介護もしないし介護されることもない。生まれたばかりともいえるし、根のことを考えれば歳をとった姿の現れとも云える。そして、そういう解釈は人の考えることであって、当の「蕗の薹」は、そのいずれとも思っていない。「蕗の薹」という名さえ知らない。

「してもらふことに慣れず」というのは、「あるがまま」の心境に辿り着く、その手前のデコボコ道かもしれません。慣れれば、違和感や不快感を感じなくなるのではなくて、「あるがまま」の世界に行ける。そこにはデコボコはない。
 たとえば、お地蔵さん。掃除して貰って、お供えして貰って、話しかけられて、自分はじっとしているのに、なんだかうまくいくようになる。
「地蔵さん」などというと、今時のシニアには嫌がられるかも知れませんが、それを云い換えれば、たとえば「蕗の薹」。
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出典 俳誌のサロン 歳時記 蕗の薹


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