ガブリエル・夏 37 「ハムスター」
「どうする、どうする、どうする、どうする?」
リフト降り場はあと5メートル先で、レイとまみもの脚は一本ずつ重なったままだ。さっき4本脚を絡ませたままこけた2人を、呆れた顔で見ていた係の人が、小屋の中の人に何か話しかけている。さっきのばか2人組がきたから、リフトを止める準備をしておいて、とでも言っているのだろうか。中の人が、窓の向こうからこちらを見る。
「このまま。まっすぐで、バランスしたら大丈夫。」
レイからは、均等に力をかけるとか、板を平行にとか、重心をなんとかするとか、普段の話し言葉ではあまり使われない日本語は出てこないけれど、全然慌てていなくて頼りになる。大丈夫と言われて、また大丈夫という気がしてくる。
まみもは、小さい頃から、スキーではリフトの降り場が一番苦手だった。名古屋出身の戦中生まれでスキー初心者の父は、自分がうまく降りることに必死で、まみものことまで気にしていなかったし、それは兄2人にとっても同じだった。みんな緊張して、バランスを崩しながらもなんとか転ばずに滑り降りる。まみもは大抵、スキーの先が重なったりしてこけてしまう。その度にリフトが止まる。まみもが、恥ずかしさと情けなさで半ベソでそのエリアを出ると、父も兄も、お前は本当に恥ずかしいやつだという顔をしている。兄1は、こっちを見るな、近づくな、と言い、兄2は、次は絶対ついてくるなと言う。父は、そう言う兄たちを叱ったり、まみもを庇ったりはしない。悪いのはお前なんだからしょうがないだろうという顔をしているだけだった。母はリフトには乗らなかった。スキーをしたのも、北海道へ引っ越した最初の冬だけだ。
気づくまでにずいぶん時間がかかったが、まみもには、オリジナル家族関連では嫌な思い出が多い。それでもスキーやスケートに、海水浴、ピアノだ、習字だ、日本舞踊だと、父母が自身はやったこともないようなことをいろいろさせてくれた。そのおかげで、まみもはできることが増えた。こうしてレイと、スキーも楽しめる。
レイとまみもは、”そのまま” 、”まっすぐで”、”バランスをして”、内側の脚が交差したまま、スイーっと問題のエリアを滑り出ることができた。係の人は、口を片方だけ持ち上げるようにニッと笑って、まみもと目が合うと親指を立てた。まみもも、大きな手袋をはめたまま、サムズアップをやって返した。
「できたね。」
レイの声は、近くの、上の方から聞こえた。
まみもの右脚と左脚がだいぶ離れているため、体勢が低くなり、まみもの頭がレイの顎の下あたりにきているせいだった。
「うん、できたね。」
見上げたレイの顔は、青空をバックに陰になっていて、眉毛から鼻と口のところへの凹凸が目立って、ドラマチックだった。
まみもはレイにつかまって、徐々に右脚を体幹のそばに持ってきた。レイの顔の位置は、まみもの上から横に変わった。夕陽っぽい色の太陽が当たって、あったかそうな黄色い顔。この色の光線を浴びると、みんな幸せそうに見える。
レイの眉毛が、ヒュイット持ち上がる。重力から解放されましたみたいに、軽そうに。目の上の側も一緒に持ち上がって、口が開く。何か思いついた時のレイの顔だ。きっとレイのお父さんやお母さんは、しばらく見ていない表情だろう。レイも、最近は家ではこんな顔しないのかもしれない。今度はなんだろうとこっちも楽しくなるような、劇的な瞬間の顔なのに。
「このまま下まで行こう。」
大きめの声が出て、また少し声がわれた。
「ちょっとチャレンジで、おもしろいよ。」
子供の頃、こんな風に、誰かが何かの遊びを思いついて、みんなでそれをやろうかやるまいか、やるならどんなルールで、と会議をしたことを思い出す。
「ゆっくりでもいい? すごく痛い怪我とかしないように。」
レイが、笑い顔からため息を1つ吐く。
「まみもちゃん、心配ばっかり。すごくお母さんの感じ。」
「だって。痛いじゃん、怪我したら。それにもう滑れなくなっちゃう。(それに、お医者とか保険とか、色々ややこしいし、こんなとこ来てるのも全部ばれちゃうじゃん。) ゆっくりしようよ。」
また一つ、機嫌の悪くないため息。「いいよ。ゆっくりね。」
一体化したレイまみもセットは、そのままボーゲンで進むところから始めた。ゲレンデを横切ったら、すごくゆっくり、大きくターンをした。ゲレンデは空いているので、遠慮は要らなかった。危険も少なかった。
それから2人は、ハムスターがどこへも行かない丸い階段のおもちゃを走って遊ぶように、同じコースを何度も滑った。
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