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Q 15. 地獄は本当にあるのですか? 愛の神が地獄で人を永遠に苦しめるのはおかしいのではないですか?

チャールズ・テイズ・ラッセル

A.
 聖書は地獄の存在、永遠の裁きについて述べています。エホバの証人や多くの人々は「愛の神であるなら、人間を地獄で苦しめるのはおかしい。」「人が死んだら無意識、無存在になる。だから死後、地獄で苦しみを味わうことは不合理なこと、おかしいことである。」と主張します。エホバの証人の創始者C.Tラッセルはキリスト教会に通っていたが、教会から離れた大きな原因は、まさにこの地獄の存在でした。彼も「愛の神であるなら、人間を地獄で苦しめることはおかしい。」と思ったのです。聖書に何と書かれているかよりも自分の心情が地獄の存在を許せなかったのです。心情的に考えるなら、そのような思いをもつことは不思議なことではありません。だれしも死んでから裁かれ、苦しみを受けることは望まないでしょう。「神様がそのようなひどいことはされないだろう」という願いをもつことはごく自然なことかもしれません。しかしそれはあくまでも罪ある人間の側の願望であります。義なる神、聖なる神、完全な神という観点から考えるならどうでしょうか?聖書ははっきりと、どんな小さな罪でも罪は罪であり、罪は滅ぼされなければならない、罪人は裁かれなければならないことを述べています。そして同時に神の愛と恵みによって、罪を赦す方法を示され、それでもその愛と恵みを受け入れない人間を神は裁かれること、それが地獄での永遠の裁きという方法であることを聖書は述べているのです。では、聖書は「地獄」についてどのように述べているのでしょうか?

 まず、エホバの証人は「人が死ぬと無意識・無存在になる、死後には命はない。死者が行くシェオルやハデスでの裁きがあるのはおかしい。地獄が存在するのはおかしい。」と教えている。では、聖書は何と述べているでしょうか?

1.シェオル、ハデス(死者の行く所)で意識があり、裁かれている。

 旧約聖書、新約聖書共に死者が行く所としてシェオル、ハデスという言葉が使われています。いくつかの聖句を見るなら、そこに行った死者は裁かれて苦しんでいる様子が描かれています。いくつかの例を見てみましょう。

①申命記32章22節

「火は私の怒りで燃え上がり、よみ(シェオル)の底まで燃えていく。」

②詩篇116篇3節

「死の綱が私を取り巻き、よみ(シェオル)の恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。」

③ルカ16章23・24節

「金持ちがよみ(ハデス)で苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』」

2.ゲヘナ、火の湖に投げ込まれる人々は永遠に裁かれる状態である。

①マタイ5章22節

「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は、最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

②マタイ10章28節

「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

③マタイ25章41・46節

「それから、王は左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火(地獄)に入れ。』・・・こうして、この者たちは永遠の刑罰(コラシン)(地獄)に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

*エホバの証人の聖書(新世界訳)は、「永遠の刑罰」を「永遠の切断」と訳しています。ギリシャ語「コラシン」を「切断」と誤訳しているのはエホバの証人だけです。すべてのギリシャ語辞典、他の翻訳において「コラシン」は「刑罰(責め苦)」となっています。

④ヨハネの黙示録19章20節

「しかし、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣と共に捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池(地獄)に投げ込まれた。」

⑤ヨハネの黙示録20章10節

「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池(地獄)に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。」

*悪魔や獣や偽預言者が無意識、無存在になったとは書かれていません。むしろ、「世々限りなく苦しみを受ける」と書かれています。またヨハネの黙示録20章15節には「いのちの書に記されていない者はみな、火の池(地獄)に投げ込まれる。」と書かれています。これらの記述から、地獄は永遠に裁かれる場所であることが分かます。


【結論】

①地獄は存在します。

 聖書には、死者が行く場所として「シェオル」と「ハデス」という言葉が使われ、いずれも苦しみの場所(裁き)となることもあります。また「ゲヘナ」や「火の池(火の湖)」は千年王国の後に悪魔や獣や偽預言者が投げ込まれる場所、そして主イエス・キリストを受け入れなかった人々の霊と魂もハデスから出て、大きな白き御座の裁きを受けて火の池(地獄)に投げ込まれ、永遠に裁かれるのです。(ヨハネの黙示録20章11〜15節)
神は義なる神として、罪に対して正しく取り扱われるのです。

②ルカ16章の「富んだ人とラザロの話」の解釈

 エホバの証人は、ルカ16章の「富んだ人とラザロの話」をたとえ話なので、地獄の存在を教えているとは言えないとします。しかしこの話は、「ラザロ」や「アブラハム」という固有名詞が使われており、事実の出来事として記されています。通常、イエス・キリストが語るたとえ話は固有名詞が出てきません。「ある人」「ひとりの人」「主人」などの表現が使われます。「富んだ人とラザロの話」は、人の死後に何が起きるのか、天国あるいは地獄のどちらにいくかはその人が悔い改めるかどうかにかかっているという真理を教えるために語られた話です。イエス・キリストははっきりと地獄の存在を教えられています。

③人の心情によって真理を曲げてはいけない

 地獄の教理は人間の側から見れば、受け入れがたい事です。しかし神の側から見れば神の義を立証する真理であり、神の言葉である聖書の中に述べられている真理です。神が述べているなら信じるべきです。人が受け入れられない教えであるという基準で受け入れないなら神の真理を曲げていることであり、それ自体、罪です。またそれはヒューマニズムの考えであり、神を信じない者と一緒です。そのような者は神に裁かれるでしょう。


  • 地獄の教理を否定することは異端の特徴です。エホバの証人も創始者のC.T.ラッセルの誤った心情から地獄否定が始まりました。エホバの証人は「聖書を神の言葉として信じている」とは言えないでしょう。エホバの証人の皆さん、どうぞ真理の上に立ってください。神の義のゆえに地獄が存在していることを信じて下さい。そして地獄ではなく天国で永遠を過ごして下さい。心よりお祈りしています!

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