初めて納豆を食べた日

子どもの頃は苦手な食べ物が多かった。赤飯はごはんがもちもちしているのが許せなかったし、刺身は魚を生で食べるのが気持ち悪い、焼き魚は骨があるからめんどうくさい。玉ねぎや長ネギはにおいが駄目。漬物もにおいが駄目。お腹を満たすために、ふりかけごはんばかり何杯も食べていた子どもだった。

そんな苦手だった食べ物も、大人になるに連れ、何かのちょっとしたきっかけで、気が付くと食べられるようになっていた。玉ねぎは切ると涙をぼろぼろこぼしてしまうけれど、炒めてしまえば美味しく食べられる。大内宿に行って葱を箸の代わりにして食べる葱蕎麦だって食べた。赤飯も刺身も焼き魚も漬物も、不思議なことに今は大好物だ。

もう一つ子どもの頃、食べられなかったものがあった。

納豆。

あの独特のにおいがどうしてもダメで、給食に納豆が出るといつも納豆が好きな子にあげていた。納豆好きな子たちが「やったー!納豆二倍がけー!」「すげー、うまい!」なんて楽しそうに言っているのが少し羨ましかった。でもやっぱり、苦手なものは苦手。食べたくないものは食べたくない。私には関係のない世界なんだ。

小学校5年生のある日。給食に納豆が出た。

「うえー、納豆。誰かにあげちゃおう」

そう思って、隣の席のいっちゃんに声をかけたら

「ももちゃん、小学校5年生なんだから納豆くらい食べないと」

と怒られてしまった。

「うーん、納豆、どうしても好きになれないんだよねえ」

「じゃあ、私が美味しく食べられる食べ方を教えてあげるから」

「うーん…」

「絶対に美味しく食べられるからさ、食べてみよう」

「わかりました」

うわあああ、なに「わかりました」とか言ってんだよ私。やっぱり食べられなくて、納豆の乗ったごはんとか残したら恥ずかしいな。あああ、もうこうなったら食べてやる!何が何でも納豆を食べてやるぞ。いっちゃんが、「美味しく食べられる食べ方」を教えてくれるんだから絶対に食べられるはずだ。私は納豆が食べられる、納豆が食べられる…そんな自己暗示をかけた。

いただきます、の挨拶をし終えると、いっちゃんは納豆のパックの蓋をぺりっと剥がした。

「はい、ももちゃんも蓋をはがしてください」

私も蓋をはがした。嫌なにおいが漂ってくる。本当にこれを私が食べるのか?

「まだタレは入れません。納豆を混ぜます。時計回りに50回、反時計回りに50回」

いっちゃんに言われた通りに混ぜる。ああ、もう見た目からして嫌だ。混ぜる音も嫌だ。

「次にタレを入れて混ぜます」

「はい」

「混ぜおわったかな?じゃあ、ごはんにかけましょう」

よく混ぜて、いかにも納豆らしくなった納豆をご飯にかける。ああ、かけちゃった。っていうか、これが「納豆を美味しく食べられる食べ方」なのか。ちょっと混ぜ方が違うだけで、普通の食べ方なんじゃないの。納豆が乗ったごはんを眺めながら、他のおかずに手を付けていた。そしたらいっちゃんに「ごはんが温かいうちに食べたほうが美味しく食べられるよ」とせかされた。

しかたない。ここで残すわけにもいかないし食べるか。納豆の乗ったごはんを箸で掬う。箸で掬った納豆ご飯とにらめっこする。一粒の納豆が糸を引きながらゆっくりとごはんの上に落ちていきそう。思い切って納豆ご飯を口の中に放り込む。ぱくっ。

納豆を噛むと広がるほんの少しのほろ苦さ、タレの旨味。あれ…これおいしいじゃん。すごくおいしい。

「どう?」

「おいしいです」

「納豆を美味しく食べられる食べ方」を教えてくれたいっちゃんに、グルメレポーターのような気の利いたコメントは返せなかったけど、本当に美味しくて夢中になって食べた。完食して、いっちゃんにすごく褒められた。

あの日から、私は、いっちゃんが教えてくれた「納豆を美味しく食べられる食べ方」で、ほぼ毎日納豆を食べている。納豆オムレツや納豆スパゲティ、納豆トーストも好んで食べる。私の知らない納豆の可能性を求めて、刻んだゴーヤを入れてみたり、茗荷を入れてみたり、ケチャップを入れてみたり、いろいろな食べ方をしてみたけれど、初めて食べた時の納豆が一番美味しかったなあ。

もしもいっちゃんがあの日、隣の席じゃなかったら私は今でも納豆が苦手なままだったかもしれない。もうずっと会っていないけれど、いっちゃんは、納豆嫌いな私の所に突然現れた、納豆の妖精だったのかも。