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題:ゲオルク・クニール、アルミン・ナセヒ著 館野受男、池田貞夫、野崎和義訳「ルーマン 社会システム理論」を読んで

確か、どこかで良いと紹介されていた本である。読んでみると簡潔に書かれているが密度が濃くて確かに良い本である。ルーマンの社会科学的なシステム理論を紹介した本であり、この社会システム理論はオートポイエーシス理論に基づいている。河本英夫のオートポイエーシス理論を何冊か読んでいるが、またハーバーマスのコミュニュケーション理論を若干読んでいるが、これらを読んでいなければ理解するのに相当手間取ったに違いない。そして、密度の濃い文章が、読み終えて分かったつもりになっても、細部がどうにも思い浮かんでこない。言い換えれば、上っ面だけを理解していたような気がする。もし、もっと詳細を知りたければ、理解度を深めたければ、難解と言われるルーマンの著書そのもの、もしくは他の解説書に当たらなければならない。また、この社会システム理論は「意味」や「出来事」など哲学的な内容も含まれていて面白いし、その思想は斬新である。ドゥルーズの「意味の論理学」における「意味」と比較検討すると良いけれど、その時間的余裕はない。なお、本書は各章の項目毎に、簡単ながら基本概念をまとめていて、それが心憎いばかりに上手である。なお、ルーマンは行政官として働いていながら社会科学者に転向している。主著「社会システム」は1984年に発刊されている。脱構造主義とも、脱中心主義として親和性があるようであるが、詳細は分からない。

さて、この社会システム理論を理解した限りに簡単に紹介したい。社会システムとは指示し合う行為から成り立ち、出来事や状態の総体として捕らえる。このため複雑性が増大する、人間の受容能力には荷が重すぎるのである。この時、社会システムは複雑性を縮減して人間の複雑性の処理能力との間を媒介する。つまり、社会システムはこの世界の複雑性を縮減することにより、より人間の能力を拡大するとも逆に言えるのである。ルーマンの「機能―構造理論」において、この世界の縮減が社会科学機能主義に重要な意味を持つ。更にルーマンはこの縮減などを含んだ「機能―構造理論」をハーバーマスなどとの論争を通じて、一般社会システム理論へと展開していくのである。なお、ルーマンの「機能―構造理論」においては、システムと環境との相違を問題にしている、これらのうちにすべてのものは区別されるべきものである。ただ、世界だけは例外であり、自らを限界できる外的なものをもたずシステムとは言えず、また環境でもない、世界はシステムと環境との統一されたものと言えるのである。

このシステムと環境との区別は、オートポイエーシス理論に基づくものである。オートポイエーシス理論では、有機的な細胞のように、自らを再生産し保存する閉じられたシステムであると同時に、外界からの物質の交換も可能とする開かれたシステムである。つまり自律的に作動するが自足的ではない、閉鎖性と開放性を持つシステムである、この点は留意しておきたい。さらに神経システムが世界への直接的な経路を持っていず、認知と知覚の過程は現実自体の像を与えるのではない、システム内部的な構成物を作り上げるものとする概念も重要である。これら生物システムの社会システムへの適応がルーマンなどによって行われている。特にルーマンがオートポイエーシス概念を社会システムへと一般化している。有機体システムや神経システム、心的システムなどは閉鎖的であり、人間が他の人間とコミュニュケーションすることはできない。ただ、ルーマンによれば社会的な出来事が固有のコミュニュケーションを産出し、継続的にコミュニュケーションできる。つまり社会システムはコミュニケーションをコミュニュケーションに結びつけるオートポイエーシス的なシステムなのである。なお、コミュニュケーションは個人や集団の意識にも還元することができない、また思考することもない。これら考え方、及び心的システムと社会システムの構造的なカップリングなどの詳細は本書に記述されているので、そちらを参照のこと。

さて、意味をめぐる問題である。ルーマンの考えによれば、心的システムと社会システムは意味を構成し使用するシステムである。両者ともこの意味によって複雑性を加工する。ただ、これら二つのシステムが融合しているということではない。意味とは選択によって起こる出来事であり、不断に崩壊、強制されて新しいものを選び出しそれを現実化する「現実性」と、そのとき選択されなかったものも後に現実化される「可能性」とを指し示すものである。このため、時間的に異なる取り扱いを許し、現実性を提示されるさまざまな可能性にそって処理することができる。従って意味は自分自身を推進する過程を統一したものであり、顕在化の過程と潜在化、再顕在化の過程と再潜在化の過程を統一したものなのである。

もう一度社会システムについて述べると、社会システムは継続的にコミュニュケーションからコミュニュケーションを生産するオートポイエーシスなシステムなのである。そして、ルーマンはコミュニュケーションを情報、伝達、理解という三層の選択過程を互いに結合するものとする。情報は可能性からの一つの選択であり、情報はコミュニュケーションという出来事に構成されたものであって、社会システムはこの究極的な要素であるコミュニュケーションをさまざまな出来事として問題にする、即ちコミュニュケーションの不断の再生産を行い、自らを持続させるシステムなのである。なお、構造という考え方は、システムのオートポイエーシスが任意の要素ではなく、特定の諸要素をより蓋然的なものとする、特定の諸要素だけに継続されうるようにするものである。

だいぶ長くなったので、システム概念における観察概念だけを示したい。社会システムは観察するシステムであるという概念は重要である。観察と言う操作は、「区別すること」、「指し示すこと」の二つからなる。区別してそのどちらかを指し示すことでもある。本書ではこの観察について詳述しているが、観察についての観察、即ち二次的観察とは自分自身の観察操作を観察することができる。これは自分が見ることのできないものを見ることができないということを、奇しくも見ることができるということである。なお、本書はこの後「社会の理論」として「社会構造と意味論」、「統一性と差異」、「人格、包摂、個人」など項目を設けてそれなりに詳しく書いており、また「リスク」や「道徳」や「批判」などの社会診断を行っており、興味深い。

いずれにせよ、本書は紹介本でありながらその内容を完全に把握するのは無理である。それにしてもルーマンの「社会システム理論」にはとても関心を寄せる。なお、この後ジル・ドゥルーズ著小泉義之訳「意味の論理学」を読んだ感想文の一部を再掲しておいたけれども、長すぎるので削除した。感想文を書いているのは忘れないためであり、少しは思い出すことができて役に立つこともある。

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。