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題:モーリス・メルロ=ポンティ著 滝浦静雄 木田元訳「行動の構造」を読んで

メルロ=ポンティの主要な著作物を読むのは初めてである。落ち着いてしっかりと地に足をつけた文章は奇をてらったところがない、きっとまじめで一貫した論理的な思考の持ち主なのであろう。でも、なぜか、訳文のせいだろうか、ベルグソンの文章ように美文調でもないし、ドゥルーズの文章ように論理的な難解性や誌的抒情性を含んでいずに、意気込んで読むこともできず、少々飽きがきてしまう。それに丹念に読まなければ難しくなるのである。きっとメルロ=ポンティの思想の重要性に対してそれほど脚光を浴びないのは、こうした地味な文章のせいかもしれない。サルトルのようにショー的な派手さがなくて、少しばかり性格的に地味であるのかもしれない。でも彼は相当に高評価を得ているはずなのである。コレージュ・ドゥ・フランスの有名な哲学講座も担当している。いずれにせよ思想はその中身が大切だと言っても、一気呵成に読めないのは辛いものがある。 

それに、本書はアルフォンス・ドゥ・ヴァーレンの「序文」がメルロ=ポンティの記述内容を明確に要約している。これを読めば、おおよそは分かるためでもある。哲学を専攻する以外の者には、本書の本文は斜め読みしても一向に差し支えないない。なお、「行動の構造」と「知覚現象学」はメルロ=ポンティの学位論文であるとのこと。他の主要著作物としては「意味と無意味」、「シーニュ1、2」、「眼と精神」、「心身の合一」、「ヒューマニズムとテロル」などがある。感想文としては、「序文」の内容を紹介して、本文は必要があればコメントしたい。 

「序文」では副題として「両義性の哲学」と名付けられているが、メルロ=ポンティの思想とは、まさしく身体という物と眼差しという意識とが、二元論を超えて世界内に存在する両義的な実存哲学を描いているのである。簡単に述べると、ヴァーレンは、物〈=即自〉、純粋意識〈=対自〉と分けるハイデガーやサルトルの存在論を批判する。人間の意識が知覚や感覚を通じて論じることが大切なのにも関わらず、ハイデガーは数行しか触れずに、知覚が自明なものとして予め判断され、「つねに-すでに-そこに」あるのに無視していると述べている。サルトルの存在論では、意識は存在者の無化において露わになる「存在の無」であり、この無に対象が浮かび上がり対象を認識するのである。これが「対自」である。この「対自」は何らかの「即自」即ち物なる肉体に嵌め込まれて、自己の事実性を切り取るものである。 

現象学の観点から述べると、人間が体を持ち住む世界において現実とは主観の探求に応じて立ち現れる現象なのである。つまり、世界内存在においては「即自」と「対自」の二元論では説明できない、むしろ成り立たないとヴァーレンは主張し、メルロ=ポンティによって新たな実存哲学が確立されたと述べる。こうして「行動の構造」がゲシタルト学説などの科学的探究、科学が採用している存在論的な観点からは理解できないとして、同じ科学的な経験の水準から懸命に証明しようとしている。一方「知覚の現象学」では、心理学などのデータを頻繁に巧みに使用しているとしても、フッサールの現象学に基づいて捕らえられている「行動の構造」よりも完全化して、自然的で素朴な経験の平面に記述されているとヴァーレンは述べている。以下おおまかな目次を示して、必要ならコメントすることにする。 

第一章    反射行動

ゲシタルトの概念はある種の自然的全体の記述的特性をあらわすにすぎないとメルロ=ポンティ主張する。「有機体自身が、自分の受容器の固有の本性に応じ、神経中枢の閾に応じ、諸器官の運動に応じて、物理的世界のなかから自分の感じうる刺激を選ぶのである」(33頁)が基本概念となり、反射行動について論じている。つまり「知覚されたものは、知覚されたもの自身によってのみ説明されえる」反射なのである。ピアノの鍵盤や楽譜とメロディーがこの章だけではなくて、他の各章に現れるのは興味深い。 

第二章    高等な行動

パブロフの犬の実験などを通じて条件反射と異なった高等な行動の行動について説明している。行動の経験においては、対自と即自の二者択一を超えているとする。こうした観点を意識や認識の秩序の観点から細やかに述べている。なお、詳細は不明。

第三章    物理的秩序、生命的秩序、人間的秩序

『構造とかゲシタルトという概念に助けられて、機械論も目的論もともに放棄されるべきものであり、「物理的なもの」と「生命的なもの」と「心的なもの」とは三つの存在力ではなくて三つの弁証法を表すものだということに気付いた』と記述があるように、メルロ=ポンティはヘーゲルの影響を受けており、この時の弁証法とはそれぞれの意識であり、この三つの秩序を重ね合わせることはできないのである。

第四章    心身の関係と知覚的意識の問題

表題のごとく身体と意識、更に感覚的なものにつての哲学的実在論に基づいて、詳しく論じている。 

以上、おおまかに述べたが、だいぶ端折って読んでおり、細かな論理の筋道は皆目分からない。一度メルロ=ポンティの紹介本を読むか、再読するしかないけれども、そこまで行う必要があるのか、自らにもよく分からない。ともかく理由は述べないが、哲学を読む目的、主眼から外れた作品は除くに尽きる。それにしても、哲学とは思想そのものと、それを表現する文章があいまって読ませるものだと初めて知ったのである。 

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。