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題:メルヴィル著 坂下昇訳「ピエール」を読んで

久し振りに面白い本を読んだ。メルヴィルの長編であり彼の新しい一面が見える。本書は悲劇であり喜劇である。情熱でありとともに絶望である。最近読んで面白いと思ったのはヴァージニア・ウルフとハーマン・メルヴィルの作品であるが、ウルフが人間の生きる時間と空間の内に漂う意識を描いているなら、メルヴィルは人間が天界を目指すのではなくて地の底へと下っていく、むしろ浮遊していると言った方が良いかもしれないが、人間の漂う魂を描いている。ウルフが女であることを描いているなら、メルヴィルは姉と弟になることを描いている。いずれにせよ人間と世界に光を当てて偏光させて、分波されたスペクトラムの断面を小説なる空間に丁寧に描いているのである。

早速、本書の裏表紙を引用して内容を紹介したい。『〈ピエール・グレンディングよ!そなたはかの父の一人子ではありません・・この文を綴る手はあなたの姉のものなの。そうなの、ピエール、イザベルはあなたをあたしの弟と呼ぶ身なのです!〉由緒ある家柄グレンディング家の若き後継者ピエール。美しき母とともに優雅な田園生活を送る彼の前に、異母姉と称する謎の女イザベルが現れる。濡れたような黒髪とオリーブ色の頬をした彼女の不思議な魅力に取り憑かれた彼は、イザベルを救うため、母も婚約者も捨てて彼女とともに都会へと旅立つ。やがて二人は、運命の糸に操られるまま、闇の世界へと迷い込んでいく・・。あの「白鯨」の作者が人間の魂の理想と矛盾を描いた、怪物的作品』と書いていて、おおよそのあらすじが分かる。

ただ、全体のあらすじをネタバレになるが紹介したい。ピエールには姉と弟と呼び合う美しい母と暮らしている。仲の良い美しい娘ルーシーとの正式な婚約も近い。ただ、ピエールは編物教室の定例集会で出会った神秘的な魅力を持つ女の顔が忘れられない。その女イザベルからの手紙をもらい会うと姉だと告げられる。彼の部屋に飾っていた父の画、それは居間に飾っている父そっくりな大きな画とは異なった父が描かれている。その死んだ父に、母とは異なった愛する女が居たのである。ピエールはイザベルを姉だと信じて永久に守ると誓う。だが、彼はこの事実を母に告げることができない。父を愛している母を傷つける、それに母は自らの荘園で働く若い男女の成した愛の不祥事を悪徳としてしか認めていず、腹違いの姉など認めることなど決してない。このため彼は愛するルーシーに別れを告げ、イザベルと偽装結婚をして不祥事を起こした娘デリーを伴ないに都会に逃げる。従弟のグレンに依頼していた部屋は確保されていない、グレンは昔と違ってピエールに横柄である。グレンはルーシーに恋していた、婚約を知ってその仕返をしているのかもしれない。母はピエールを廃嫡にする。財産を受け取れずにピエールは自力で稼がなければならない。結局母が死んだ後グレンが相続するのである。こうしてピエールは使徒協会の支援を受けて文筆活動で稼ごうとする。一方ルーシーはグレンの言い寄りにも負けず、例え結婚していてもピエールと一緒に暮らしたいと言って街にやって来る。こうしてピエールとイザベルとデリーにルーシーを加えた奇妙な生活が始まる。寒くて稼ぎの少ない生活は厳しい。イザベルは自分さへ居なければと自己嫌悪する。一方ルーシーは二人に構わず似顔絵を描いて生活の足しにしようと賢明に懸命である。イザベルにはルーシーが清らかな天使のように見えて嫉妬する。やはりグレンとルーシーの兄フレッドはピエールを倒そうと狙っている。ある日三人は散歩に出かけ絵画の展示会を見る。異邦人の首像やチェチェンの首像を見る。ただ、ルーシーは人ごみではぐれる。彼ら敵と出会うとピエールは戦い、グレンを打ち殺してしまう。留置場に集まったイザベルとルーシーにフレッド、彼らの傍らでピエールは横たわりながら、牧場の牧場における大きな石とタイタンの山などの自然的風景を幻想している。イザベルの指から空の鉢が落ちて彼女はピエールの心臓の上に倒れ込む。するとイザベルの黒い髪がしっかりとピエールの全身を抱いているのである。

酒本雅之が本書の解説で、この小説の意図などを概説していて納得し得る。ドゥルーズに本小説の解説はない。やはり白鯨におけるエイハブ船長と書記バートルビーがメルヴィルを解き明かす鍵となる小説人物なのであろう。この「ピエール」はそういう意味で言えば、通常の小説の形式と内容である、でもメルヴィルの魂の叫び声が大きく聞こえてくる。イザベルなる姉と弟との関係、そして愛していたルーシーともどうなっていくのか、興味深く読んでいくことができる、味わい深い小説である。もし、簡単に本書の意図が知りたければ酒本雅之の解説を読むのが良いとも思われる。メルヴィル全体の小説の中での位置づけや役割なども記述しているが、哲学的な概念的とも言える記述はない。まだメルヴィルそのものが謎に包まれている部分があり、メルヴィルの全体像を作家論として現在も表し切れていないのかもしれない。いずれにせよ、メルヴィルや本作品そのものを論じることはとても難しい。従って、気の付いた何点かについて箇条書きて示したい。まあ、私の感想でもある。できれば概念的に記述したいが、今現在は無理である。

1) 劇場型に激情するピエールの死
ピエールは激情型である。そして暗い方へと引き摺られていく魂があり劇場型に行動する。まるでエイハブ船長が白鯨を敵として戦いを挑むように、自らの定めた行動の規範を逸脱などしない、決して調和することのない運命を背負って行動する過激さがある。これは書記バートルビーのあいまいな行動からはかけ離れている。バートルビーの最後は壁のそばで身を縮めて冷たい石を枕にして横向きに寝転んでいる、ぴたりとも動かない、食事なしで生きている男、もはや生とは無縁な死んでいるような男である。でも、ピエールの最後も結局は死んで横たわっている。ピエールの激情がエイハブ船長と同じように悲劇的な死をもたらしたとも言うことができる。これらメルヴィルの作品における主人公は過酷に死に至らざるを得なのだろう。なぜならエイハブは敵に敗れたのであり、バートルビーは配達不能郵便の職員であり絶望感を深めている。そしてピエールは自らの書きあげた作品が突っ返されて絶望的であり、敵を撃ち殺したがもはや監獄の暗い穴の中に閉じ込められているためである。こうした死に何を象徴させてメルヴィルは描いたのか。道徳でも社会的な規範でもない。自らの描いていた希望や夢と異なった世界そのものの不確定性であり、運命的な恣意性であり、この世界から隔絶されていること、隔絶されていなければ隔絶するように世界に対して要求する魂にある。魂がそもそもこの世界と反りが合わなかったためであるかもしれない。良く言われる不条理ではなくて、そもそも世界が死を要求してきて知らずうちに、むしろ知っているからこそ魂自らが深くて暗い穴の中に落ち込んでいくのである。

従って母に父の秘密の恋愛があったことを知らすことができずに、ピエールは自らを犠牲にしてイザベルを守ると決める。即ち、愛するルーシーを見捨ててイザベルと偽装結婚して都会に出ると決断する。この決断は激情型の劇場的な行動でありながら、そうせざるを得ないと定められていたことでもある。暗くて深いこの世界の深い穴の底へと落ちていく運命を背負っている。後で述べるようにピエールには天と地の血筋が混ざっていて果敢に攻めながら、結局は地に這いつくばる運命を持っていたのである。決してルーシーと幸せな家庭を作り、一方では姉を愛しむ生活など送ることなどできない。なぜなら、イザベルとは姉と弟での関係である、姉と弟は特別な背徳な関係を持たなければ暮らせないためである。

2) 姉と弟
では、なぜ姉と弟は婚約者とも言える愛する人を見捨てて、特別な関係、近親相姦的な関係を持たなければならないのか。その解の一つとして本作品にはタイタンの近親相姦が書かれている。タイタンは天と大地とが姦通して出来た子であり、更にタイタンが母なる大地と姦通して出来た子の一人がエンケラドゥスなのである。エンケラドゥスはいわば子であり孫である。メルヴィルはピエールも天上性と地上性を融合したものから生まれ出ていると書いている。つまりピエールは天を望みながらも地上的な解脱を達成できない。地上的な母に縛り付けられてしまい、エンケラドゥスと同じ二重の近親相姦者なる情緒をピエールは創出しているのである。天の攻撃も辞さない孫なる情緒を持ちながら、天に至ることなどなくて、穢土に這いつくばって住む者にもならざるを得ない男でもある。こうしたピエールの情緒は劇場型に激情するピエールが突き進んで行く結末とも言える。生まれつつき天に攻撃を行っても這いつくばることになる運命を突き進んでいくことになる。この母と子の近親相姦は、姉と弟に変形していくことになる。メルヴィルはこの心理的な推移を、母を姉と呼んでいた子との対話の倒錯性にあったと記述している。元々この地と天とが近親相姦していたなら、子が母との関係を、弟と姉と呼び変えるは自然な順応性である、妻とも呼ぶこともできる。ただ、ピエールとイザベルの関係は真実な肉体性を持ってはいない、絡み合わさっても互いの暖かさを感じながら、ただじっとしている。召使のデリーは真実の夫婦関係を持っていないと嘆いている。即ち、ピエールとイザベルは近親相姦上の境界線上にいながら、もはや実質的には近親相姦関係にあると思われるが、単に境界上に位置していて至福に至ることができるのである。

3) 無垢性と近親相姦
こうした近親相姦は無垢性と対比される。イザベルは神秘的な顔を持つ姉なのであり、この神秘的なかつ魅惑的な顔が相姦を要求してくる。言い換えれば姉であるためにこそピエールにとって魅惑的な顔になる。一方、ルーシーはもはや関係性を要求してくることはない。イザベルとピエールが夫婦関係にあっても純粋にピエールを愛している。そのためにこそ彼女は捨てられたのにも拘わらず、都会に住むピエールの元にやってくる。もはや彼ら夫婦がどうしようとも関心を持たずに、ただ自らの成すべきことに没頭する。このルーシーの態度こそが謎である。まるで無垢性を持つ天使のように純粋である。もはや天上界に居るかのように、地上の出来事には無関心でただ自らの心に従ってのみ生きている。罪なき穢れなき隣人のようである。ピエールはルーシーも愛している。ただ、イザベルと同等に愛して両者を左右に配置した間に立っているのではない。互いの中間地点に居てどちらも愛しているのではなくて、やはりイザベルの神秘性に惹かれている。左右の中間地点に立って彼女たちの手を握ろうとも、ピエールはイザベルとの穢れた近親相姦の方に惹かれているのである。

これはまさしく顔が分け隔てている。最後の方になって三人は絵画展に紛れ込む。「無名画家による異邦人の首像」を見ると、ピエールとイザベルに強烈な印象を残す。ただ、この若やいだ男の像がイザベルには自らとの相似性を認めたのに対して、ピエールは父の顔を描いた画と同一性を認めていない。同じく父と思い秘めていても、彼らの近親的相姦な愛に違いが生じている。この違いはピエールの猜疑心であり曖昧性が生じたためであり、これについては後述したい。一方、ルーシーは立ち止まらずはぐれて部屋の反対側に行ってしまうのである。そして近親相姦と父親殺しなる二つの喪章をつけた「チェンチの像」の模作の前に立っている。原像の青い眸と白い肌は同じであるが、原像の金髪に対して黒髪である。金髪が二つの罪を犯したのであるが、イザベルと同じ黒髪が飾られているとは、ルーシーはピエールとイザベルの罪なる関係性を見抜いているに違いないのである。黒髪こそが罪をもたらしている。でもメルヴィルはルーシーに関するその後の描写を欠落させている。きっと、こうした無垢性との対比はメルヴィルにとってそれほど意味のあるものではないだろう。単なる相姦性との対比として描かれている。従って、ピエールとイザベルとの濃密な関係に対して、ルーシーはもはや単なる部外者でしかあり得なくなっている。

4) 敵との戦い
善や悪に罪や穢れが混じったこの混濁した世界を単純化するには悪なる敵を作り出すことである。この敵を殺してこの世界を単純化してしまえば一挙に解決することになる。憎きグレンを射殺してしまうのも、そうしたメルヴィルの願望を表している。でも射殺することで一挙に解決するのか。そうではなくて、この世界は混沌と混濁とを持ち合わせていて何ら変わることがない。変わらなければ敵を殺して解決しようとするものが死ななければならない。白鯨を敵にしたエイハブ船長は逆に殺される。ピエールも死んでしまうのである。彼らは死ぬことによって自らの混濁性を解決する。ただ、本当に敵はいたのだろうか。はなはだ疑問である。むしろ、敵を作り出して自らが殺されること、自らが死ぬことによって何事も解決できると暗示している。だが、この世界は何も変わらずにあるのである。

5) ピエールの曖昧性
メルヴィルにおいて一番重要なのはこの曖昧性である。猜疑心とも言える。この現実の出来事における疑念である。因果律に対する疑念とも言える。ピエールはイザベルを姉と認めていた、ただもはやこの事実を疑っている。姉ではないのかもしれないと思い始めている。もし姉でないとしたら、彼女に尽くした行動や愛そのものが無意味性を帯びてくる。この疑念に苛まれることこそがメルヴィルの最大の課題であり、生の無意味な消尽こそが生を成り立っている。もはや、人生とは根拠のない馬鹿げた芝居を演じていることになる。こうした視点を成り立たせているメルヴィルは暗い絶望の淵に瀕しているとも言える。一方、そうと無意味性を認めれば何かが力を貸してくれるのではないか、との私の思いもある。渕から立ち上がって作動して生を謳歌することもできる。従ってメルヴィルを読み解くには、この無意味性を広げて生の謳歌が可能かという観点から行うのが良いかもしれない。苛まれる心に秘められた生の可能性を探り得るかどうかである。すると「ビリー・パッド」がメルヴィルの重要な作品になってくる。言語論的な解釈を施す「バートルビー」ではない、この世界における不可思議性を表現した船乗りビリー・パッドの状況こそが近接している世界であるとの思いが募ってきて仕方がないのである。

6) 作家論とアメリカ文学論
アメリカ文学や作家論を小説の内に結構記述しているのはメルヴィルらしいが、本書の内容などを調べるのは面倒で割愛したい。

7) 協会と聖書にシェイクスピア
また、キリスト教会や聖書、それにシェイクスピアなどのとの関係も割愛したい。

いずれにせよ、メルヴィルを紐解くにはもう少し作品を読み込まなければならない。そして先に述べたこの世界の事実や出来事に対する疑念、猜疑心を中心に探るとそれなりにメルヴィルの像ができあがり、概念的に述べることができるようにも思われる。

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。