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「奈美さんと長良の乙女」(短編集その3)より引用

活きの良い人間がいて、活発に暮らしている者もいるが、体を病める者や心が狂って牢に閉じ込められている人、それに美術品を愛でている者も居た頃の話である。その昔、人間たちは共有地の内に粗末な家を持ち、統率者の命令に服しながら働き、日々物品や食物を得て暮らしていた。彼らの中から要領よく振る舞い統率者と同じに富める者もでてくる。自らの代わりに幾人かを働かせることもできるようになる。逆に生きていかれない者もでてくる。
極貧の者は物乞いなどせずに山の奥へとゆっくりと姿を隠した。森の中の大きな木の根元で静かに眠るようにして死ぬのである。川へと飛び込む者もいた。ただ川幅のある大きな川は遠くに行かないとない。そこらあたりの小さな川に飛び込むと死体となって流れ流離う代わりに、生きて浮かび上がって動転することもある。自らの命が永らえていることに驚くと、川辺の人目を避けて一瞬の内に村の外へと逃げ出している。こうした生活の窮状に応じた自死や逃亡は人殺しも含めて、それほど生じるわけではない。哀れに思えば相互扶助して暮らしを成り立たせているためである。つまり貧しい者は慣習として生活を支援されている。


まれに生じる人殺しは諍いに起因しているのが一番理解しやすい。食べ物や着物などの暮らし向きは扶助されるが、土地や高価な物品の所有権は暗黙のうちに半ば設定されている。これらに関する諍いも少なからず生じる、結末が無慈悲であっても事由が明確なため、人殺しの原因として容易に理解し納得できるのである。それに色恋に結びついた人殺しも納得しやすい。横恋慕して愛する者を奪い取ろうとする者は恋敵を殺すに違いない。端(はな)から娘に相手にされていない場合、競合者を殺したとしても愛おしい娘を手に入れることができないため、二人とも殺してしまうしかもしれない。殺人は手間がかかるために涙ながらに諦めて遠くに去るか、自死するしかないのである。恋する者たちのそれぞれの心の思いの深さや動きはとても重要な要因で、この恋する者たちの感情の偏向や深さこそが心を横道や邪道に行き惑わせて、ある日思いがけない結果をもたらしている。ただ、横恋慕は基本的に成り立たない。恋する二人を裂くことなどできない、裂くためには非道徳的な行為を起こすしかないのである。


さて本題は二人から恋されている娘の場合の殺人ではない、自死である。漱石の作品「草枕」にて「長良の乙女」が、二人の男に同時に懸想されてどちらに靡こうか思い惑っている。どちらの男とも決めることができずに、秋の尾花の上に置く露のように、淵川へ身を投げてはかなく消えてしまうのである。娘は他者の感情を傷つけることを恐れている。それに自らの思いや他者の思いに性格も良く分からない。二人の男たちとの相性の違いを見出して、どちらの男を選択するか決めることができない。もしくは優しさに溢れた娘の感情は両者の願望のどちらも拒絶できない、そのためにこそ自らを亡き者にして二人の前から姿を消滅させる。もし奈美さんのように奔放に行動できれば二人とも男妾にするだろう、自らの命を絶つこともないはずである。
そもそも奔放さとは男たちとの交歓がなされていなければならない。月が出ている夜に本堂に入れば、仏様が男たちと引き合わせてくれる。一人であるのか二人であるのか、多数の男であるのか、絡み合った肢体の作動に心ゆくまで堪能しているのだろうか、誰とこそ堪能できるのか、肌と肌は触れて感激していようとも誰であるかの判断は難しい。こうした時にこそ、仏様は娘子のために満足度の名札を男たちの額に貼り付けてくれるのである。闇の中に輝く名札を貼った男がいれば、手を握り連れて帰ればよい。もしどの男たちとの作動も気に入らなければ、娘はどの男も殺して仏様に物品として返し、月の光を浴びながら夜道をゆったりと帰っていくのである。


娘の顔と着物は肌着も返り血を浴びている。自らの意志に導かれるまま次々と男たちの体に短刀を差し込んでいた、男たちの腹部からはどす黒い血が溢れ出ていた。風流などとんでもない、戦場でさえ見かけない血吹雪に満ちた本堂の現場である。兵隊さんは柱の陰から去って行く娘の後姿を見送っていた。といってこの殺人は娘が引き起こしたのではない。娘に見捨てられ恥にまみれた男どもが、娘の面前で自らの命を絶った結果であると兵隊さんは知っている。つまり娘が淵川に身を投げるのではない、男たちが行き場を失い仏様の前で自らの命を絶つのである。こうした男たちの潔さを褒め称えようではないか。見目麗しい娘が哀れにも自ら身投げするとはあまりにも可哀そうである。望むらくはそうした記述は避けたい。


男たちの死者を生み出さないためには、また恋い焦がれる男たちが現れて娘子に男を選択してもらうしかない。娘子は容貌や性格の採点を甘くしてどの男を選び取るか決める。選び出せば残りの男たちは退散して命を失わずにすむ。でもこの美しい娘が出戻りのキ印と同じ狡猾さを持つならば、どの男にも満足しない。月の光や燭台の明りを薄くして本堂の仏様がおぼろに男たちの容貌や行状を隠しても、どの男も娘の意に介さなければ、男どもはもはや身の肉を削いで紐のように細くなるしかない。


兵隊さんではない、真っ当にキ印の娘が蛇のように伸びて等間隔に床の上に並んでいる変態した男たちを眺めている。仏様が鎮座しておわします本堂がこの宙を成り立たせているならば、紐はもはや目に見えない位にマイクロ単位よりも短くて、無数に集合し厚みを持った弦になる。この弦を掻き鳴らして端座している娘がいる。と言いたいが、そこまで変遷することはなくて、細い紐のような体の先に男たちは顔を繋げて起き上がろうとする。生きたいと望んでいる。


美しい娘子の嘆息が聞こえてくる。好みの男がいずにただ孤独で、尾花が上の露となって死にたくとも、男たちが死ぬのである。紐となり細くて長く伸びて床に張り付いている男たちの命が失われるのであって、出戻り娘ではない。風呂場で甲高く笑えば、湯船につかっている紐なる男たちの姿を結び付けてロープに作り変えている。男たちを編んで作ったロープは浮いたまま捨て置かれ、海に向けて流れ出ることはない。詩ではなくて絵でなくとも美しい三味の音が聞こえてくる。娘子は三味に合わせて口ずさんでいる、そして、川船に乗せて男たちを海に運ぶのである。娘子を得ようとして勇んで寺に来なかった男が一人いる。娘子の元の夫である。娘子をまだ思っているのか、娘子もまだ思い続けているのか分からない、たった一人の男である。でも、もはや他者であって、新たな思いなど生じることがない。感情なども断ち切られている。きっと他者への感情や思い遣りは皮肉と当て擦りの言葉こそが似つかわしい。その他者なる元夫が、いつの間にか死んだ男たちを乗せた川船に一緒に乗り込んでいる。


この川船が流れる。娘子は男へ視線を向けずに言葉を発することもない。男が流れ着いた船を降りて、停車場に向けて歩き出すとなぜか心がときめくる。自らの感情が湧き出てきて、切れ切れながら言葉が出そうになっている。停車場にはぞろぞろと人が連れ立っている。娘子も切り損なった糞みたいに引っ付いている。自らからを解き放つことができない。引っ付き歩いていると、心の蠢きが増して感情が揺さぶられる。どうしても何かを言わずにはいられない。でも言うべき言葉は浮かんでこない、何一つないのである。
男を見ると髭を生やして日に焼けていて頑丈そうである。青臭くはない、がっしりとした体をしている。なぜ別れたのだろうか、キ印であっても真っ当なお嬢様であっても、一緒に生活していく上で何もけれんみが無く頼りにできる男である。短刀を突き付けて啖呵を切るべきではなかった。なぜそうなったのか娘子はどうしても思い出すことができない。きっと好きであったのにキ印がそうさせたのであろうか。元夫は啖呵を切った時に、確か、思うままにするがいい、と言って静かに目を逸らしたはずである。


精神は自己へも他者へも向けられることがなく、ただ死んだ者を志向する時がある。知性も感情も死んだ者を憐れみ、この死んだ者が唯一の対象として心を占領する時がある。こうした現象は自らが死んだ者である時に生じる。ある日淵川に身を投げて死んだ娘子が、那美さん自身であった。二人の男に言い寄られて娘は選択できなかったのではない、すでに男を選び夫として共に暮らしていたのである。キ印を発病していた娘は思いのほかぞんざいに心が狂い病んでいた、日々の生活に苦しんでいた。


夫は別れたくないと言ったが別れた。元の屋敷への帰り道にキ印なる娘は身を屈めて、水面の鏡に映る自らの清らかな素顔を眺めた。この清らかさは廃棄しなければならない。清廉な乙女は死なせねばならない。キ印の心と体には似つかわしくないためである。それ故に娘は秋の尾花の上に置く露のように、淵川へ身を投げてはかなく消えてしまったのである。消えたのはキ印ではない、純真な娘子である。自らの分身なる死んだ娘子を憐れみながら、キ印は思うままに暮らして、どの男にも相手にされない。どの男もいたぶり蔑みいじめ通すためである。そのためにか肌を合わせた前の夫が恋しくなる。心も通じていた日々もあったのである。でも、この男はキ印女に圧せられて苦しんでいた。でもキ印女が哀れな娘子のような純心さと弱さを持っていたことを知っていた。だからこそ思いのままにさせて別れたのである。


車窓から顔を突き出させたこの男の顔が微笑んでいる、来ると信じていたキ印女をやっと見出したのである。幾分強張った美しいキ印女の顔を見つけると男は大きく手を振った。汽車は走り出していた。キ印女は探していた男をやっと汽車の中に見つけ出すと、川の渕から走り出して何度も手を振った。笑顔で男を送り出した。汽車の速度は早まる、キ印女は川淵を走りしながら哀れにも涙を浮かべた。そして汽車が遠くに去るのを見送った。川面には哀愁に満ちた娘子の顔がいつまでも揺らぎ映っていた。その揺らぎの鏡にキ印女は石を投げつけて自らを消し去るように崩壊させたのである。幾つもの波が次から次へと湧いた。


それ以来池は鏡のように人を映さなくなった。代わりに蛙が飛び跳ねその蛙を餌にしようと多数の蛇が現れるようになった。蛙は蛇の餌となり、蛇は人間に殺されて食べられる。この生ける人間には妬みや憎しみの感情がある、この感情が増幅してキ印ならばキ印ゆえにこそ、キ印でなくとも人を殺すに至ることがある。さて、この地ではもはや複数の男が同時に一人の娘に恋することもない。なぜなら恋する男と娘は同じ字を書いている天冠(頭巾のこと)被るためである。つまりすっぽりと顔を隠して見せない。なお、字は一文字で何らかの記号や単純な線分であってもよい。魔除けに蛙や蛇の干物をぶら下げていることもある。


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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。