谷崎フェティシズム小説集

題:谷崎潤一郎著 「谷崎潤一郎 フェティシズム小説集」を読んで


谷崎潤一郎の「冨美子の足」を読みたかったのである。本書はフェティシズム小説集として六つの作品を集めている。「刺青」は処女作。感想は既に記述済み。「悪魔」は親戚の家に居座る学生が従妹を気にする。この従妹の手布についた鼻汁を啜り心躍らせる学生、この学生の話は他の作品にもある。「増念」は痛みに快感を覚える少年。この痛みは肉体に与えられるのではない、与える痛みである。なお、少年は鼻の孔の醜さを見てから痛みを与えることになる。この鼻は「武州公秘話」では主テーマになっている。「冨美子の足」は冨美子の美しい足の描写である。「青い花」は若い女に服を買って着飾らせる中年の男の話である。谷崎には珍しく文章が走っている。女の裸体を妄想している男が、女の肌へ、肌ともなる服を貼り付ける描写が良い。「蘿洞先生」は作者自身がモデルなのか、雑誌記者の面会を受けるが話のしないしょぼくれた老人である。記者は帰りに家の周りを歩いて老人の背に小女が鞭を振るのを見る。発表年は以下の通りである。


「刺青」 1910年 「新思潮」
「悪魔」 1912年 「中央公論」
「増念」 1914年 「甍」
「冨美子の足」 1919年 「雄弁」
「青い花」   1922年 「改造」
「蘿洞先生」  1925年 「改造」

これらの短編を読んで感じるのは、まず文章の密着度である。これは肌、足、鼻、鼻汁なる肉体に密着した文章であると同時に、これらに執着する心の密着度も表わしている文章でもある。心とはエロシチズムなる妖しさ、執着心と言っても良い。ただ、密着して相応に執着していながら緊迫感は薄い。無論、「青い花」では女の肌を貼り付けるようにして服を着させるが、その執着心は彫刻や裸体の想像も含めて強いのであるが、どこか客観的に描かれている。対象に寄り添うように作者はいながら対象の内部に入り込むことを望みながら、どこか醒めている。言い換えれば、足や肌や鼻に執着していながら逆にこの執着性が対象からむしろ離脱させているとも言える。逆に「春琴抄」などは作者が明確に作品の外に居て、春琴の姿を冷静に物語として綴っているのに、むしろエロシチズムが濃厚に浮き出てくる。これに比較して、これらの作品ではむしろエロシチズムが希薄であり、極端に言えば嘘くさい虚妄性とも思われる。

こう思うのは、作者の倫理的な規範が作品に色濃く反映されているためであろう。作者が老いなどという衣を被って現実的なエロシチズムの表現を極度に抑えているために生じている。即ち、これら肌、足、鼻、鼻汁なる肉体に作者は執着している。けれど、これらが作品の内では規律を守って作動している。とても冷静なのである。作者の心の奥底が明らかにされていない。明らかにされているとしても想像上の、いわば妄想として取り扱っている。一見自己を曝し出すようにして作品を書きながら、実は谷崎は自己の正体を現わしていない。正体とは本心である。本心はこうしたフェッチのみが好みであるのか、または別の好みもあるのか。作品はこれらの選んだフエッチを超えず、ただ文章がフェッチの密度を増して描かれている。けれども、表現の形式と内容とを節度を保って抑制して律義に道義性を保持して、エロチシズムは希薄なのである。

こうした律義な道義性を持っていてもっとエロシチズムを深めたいなら、それにあい相応しい表現の形式と内容がある。相応しい表現を用いなければ、内容は抑制された表面上の、いわば深入りしない表現としての行為と心理になってしまう。従って、描写が長くなるにつれて緩慢性を帯びてくる。深入りしない文章であるため、ただ表面上を徘徊して描写することになる。「冨美子の足」は今述べたこれらの点を明確に指し示している。読む前は美しい冨美子の足、その形や色合い、肌の艶やかさ、血管の浮かび具合、太腿へ続く盛り上がりなどを延々と記述していると思ったら違っていた。即ち、小説形式として、青書生が先生に手紙を書くと言ういつもの常套手段を用いている。「卍」などと同じ手法である。手紙で色好みの隠居の足を愛でる性癖を実現させている冨美子の足を、隠居は青書生に絵に描かせるのである。それも草双紙の好みの画と同じ縁側に腰かけて上半身を左方へ傾け、右の足を外へ折り曲げているある種の肉の張った緊張感のあるポーズである。こうして青書生と冨美子と隠居が掛け合いのように話して行動して物語を進ませる。いわば富子の足の美しさを称える文章はほんの少しである。冨美子は隠居の遺産を期待していて、既に愛人がいる。隠居は死ぬ前に冨美子の足に踏まれることを望んでいる。こうして小説の表現は行動と心理の表層、言い換えればある種の律義な道義性を保った内容を決して逸脱しない範囲で記述されているのである。

先に述べたように、最初から作者が明確に作品の外に居て出来事を連鎖させて「春琴抄」や「細雪」などと言った作品を記述する時、初めて谷崎潤一郎は高級な通俗的作家とも言える評価から逃れ出ることができた。即ち、高貴な作家として無意識のうちに永続する時間と空間を描き切ることに成功したのである。描く文章の質を保ちながら、通俗作家から一転して谷崎潤一郎を高尚な哲学的な次元へと概念を表現できる作家へと押し上げている。もう、谷崎の作品をだいぶ読んだので、「谷崎源氏物語」などを読んで終えたい。できれば作家論としてまとめたいが何時になるかは分からない。というより、もう出来上がっている。

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。