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ジョー・ブスケ著 谷口清彦・右崎有希訳「傷と出来事」を読んで 

読み始めると、キーになる言葉がでてくる。生と死、出来事。声に光、死者に実存、言語、形象、理念。ロジックにテクスト。そして文章は抒情的な散文で、素敵である。記述方法は箴言に近い断章である。箴言と言っても戒めらしい格言ではなく、思想に近い詩的な文章である。感心して読んでいると、残念なことに記述する文章が上っ面になってくる。抒情的な散文とは素敵ではない、どうでも良いことの定義であり、感想であり、走り書きとなってくる。そして、いつの間にか美しい顔の彼女がでてくる。現実なのか幻想なのか良く分からない。そういう曖昧な表現は良くあり素敵であることが多い。けれど、残念ながら美しい顔の彼女の記述が多くなると表現が浮いて読みにくい。読み飛ばす。ブスケの言葉による表現は、精神と肉体の発散である。発散せざるを得ない夜の静寂の中に彼は住んでいる。そして言葉を発することこそが彼の生なのだ。この言葉はもはや意味を取らず、読者を惹き付けない。意味を取らないからこそ、読者を惹き付けて欲しい。
 
谷口清彦の「傷と運命――訳者あとがきにかえて」によると、ジョー・ブスケは第一次世界大戦に参加した二十一歳の時、銃弾を受け脊髄を損傷し、下半身不随になったらしい。この出来事により、「傷にふさわしい者になること」ととして、出来事を意欲し、「ひとつの出来事」に反転させる出来事の息子になるのだろうと言っている。
 
「ドゥルーズ 千の文学」において、澤田直著「ジョー・ブスケ 戦争を受肉する卵」では、ドゥルーズは傷=出来事を受容し、自分自身と一体化させ「出来事の息子」となった男の一生が必要だったと記述している。また、澤田直は、ブスケは文学に傾斜し、反エクリチュールとして言語の高みに昇って行くと言う。リズムの消去、脱臼した統語文法、無視、空白など身体を通じた表象としてのエクリチュールを裏切る必要があったのである。なぜなら、もはや彼は戦場における匿名の兵士(兵士は裏切り者である)として、自らの同一性を失った実験者として、生きなければならならなかったからだ。更に、この世界を卵と称してブスケはこの卵の殻を破り、愛を持つ雛として現れて生きなければならないと主張するシモーヌ・ヴェイユコの思想を紹介している。
 
なるほど、本書におけるブスケの抒情散文が次第にどうでも良いことの定義であり、感想であり、走り書きになっているのが良く分かる。文字を、文章を何かを思想らしきものを、もしくは思想らしくないものを書かなければなかったのである。人間と言う物の存在は、置き人形のようにいかない。生きている体は、生きているからには何かを成す。呼吸も排泄も言葉となって止めることはできない。体は文字を排泄する。文法も情感もどうでもよい。どうであっても排泄しなければならない。排泄は体の傷口から生み出される出来事でもある。出来事の息子であるブスケが、出来事を欲し、出来事を生み出すのである。言葉によって雛ではなく、もはや美しく成長した女性を生み出す。彼は生み出した出来事に寄り添い満足して、この美しい顔をした女性を愛していたのだろうか。それとも、愛するように希望して文字を綴り排泄していただけなのだろうか。ただ、単に発せられた言葉であるからこそ、私は惹きつけられなかったのだ。
 
「チャタレイ夫人の恋人」を読んでみたい。ブスケの妻はきっとチャタレイ夫人であるためだ。でも、もう、「チャタレイ夫人の恋人」は読んでいるが、夫人はブスケと同じ下半身不随の夫を持っている。夫から浮気を認められている。その夫は家政婦とトランプに興じて満足している。彼は夫人が木こりに夢中であることを知る。この美しい妻を褒め称え満足するであろうか。それとも殺したくなるだろうか。艶やかに肉体を活動させ生きようとする夫人に残ってくれるように懇願するだろうか。言語はもはや肉体から切り放たれているのではない。肉体そのものである。肉体の傷口が発する言葉である。だからブスケも言葉を発して自らの自由になる美しい女性を生み出したのだ。この女性は出来事によって生み出されたのではない。殻の言葉が懇願して生み出した、言葉が続かなければ忽ちに消失してしまう女性なのだ。
 
以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。