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題:石牟礼道子著 「苦海浄土」を 読んで

本書については、だいぶ以前にテレビで放送していた。読んでみたいと思っていたが売り切れで、入手したのは最近である。無論、本書は水俣病について書いている。こうした本の評価はなかなか難しい。幸い、渡辺京二が「石牟礼道子の世界」と題して、彼女が自身の生い立ちを記述した作品を含めて、彼女の描いた文学世界について的確に言い表している。渡辺京二の主張を簡略化して間違いを恐れずに言えば、彼女は幻想的詩人であり、彼女の個的な感性には共同体的な礎がある。この礎が人間の共同体的なありかたとその向こう側の世界を描こうとしていた時に、共同体を破壊する水俣病に出会い詩人の魂が内部からほとばしり出て、人との関係が切り落とされた自己と同じ境遇にある、これら同族をうたうことによって自己表現の場を得たのである。そのため本書はドキュメントでも聞き語りでもなくて、石牟礼道子の私小説であるとの主張である。この主張は本書を読む限り正しいと思われる。原田正純が「水俣病の五十年」と題して、水俣病の発生と闘争の歴史を書いている。本書の中でも取り上げているが、特に認定の難しさと見舞金の患者を縛り上げた契約条項が印象的である。原田正純が水俣病の原因の究明と裁判の経緯を書きながら、最後に実験学としての「水俣学」の学問的講座に、市民も参加できる最初の貴重な「カギ」が「苦海浄土」であると述べていることが印象的である。なぜなら、文学的な側面をまったく排除しているためである。 

本書を読んだ第一印象は、病苦や貧困に悩まされながらも、この日常を純朴に生きる人々の姿に感動を受ける。でも、古来より伝わる出来事と心情の叙事詩的な簡明さや鮮明さによって描かれた文献と比較すると物足りない。それは本書の構成が患者の描写のみならず水俣病の病状の経過観察や市民運動の活動なども多く占めて、多彩に記述されているためであろう。なお、本書には続編があるらしく、その内容は確かめていない。もし、純粋に病者の話としてまとめていれば大いに異なった印象を持つはずである。そういう意味で本書は過剰な内容を盛り込もうとしたために、一部文学的には破損されたかもしれない。いや、過剰であるからこそ学問的講座の貴重な「カギ」と成り得る文学なのである。こうした文学的評価についてこの後記述する。文学とは何かという問いにもなっているのである。 

まず、水俣病の病状の経過観察や市民運動の活動は、病者の悲惨な生活の話に割り込み押し入って邪魔をする。個々の病者の話のうちの幾つか、山中九平少年の行政諸氏への依怙地な態度、解剖時に立ち合う内臓の物質な生々しさも良いけれど、仙助老人の時計のように正確な散歩が崩れてしまう、それでも一日三合の焼酎を飲んでいる話の方が好きである。それ以上にあねさんと呼ばれる著者が、九竜権現さまを拝み、爺さんの話を聞きながら細い少年の体を抱き寄せる姿は思わず目を潤ませる。ゆき女が言った「舟の上はほんによかった」と言う言葉はどんな他の言葉より、不知火の海の青さの輝く平面に豊かな漁が行えて、心穏やかに日常生活を営んでいた住民の姿が浮かんでくるのである。こうした病者を中心にした、むしろ病者と住民の話だけにまとめることができたはずである。更に、誰もが病気に強い不満を漏らしながらも憎しみを抱いていないのは稀有な例である。渡辺京二の主張に基づけば、この原因は石牟礼道子の感性から生じている。彼女の感性に共鳴する感情しか彼女は描いていないのである。 

手元に無いが、ジャック・デリダ著「ならずものたち」では、原爆被害者は被害を自然災害のように感じているとの記述が確かにあったはずである。だが、そんなことはない、憎しみを抱いているはずである。本書のの「あとがき」に、死に行く患者の吐く言葉として、「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。・・上から順々に、四十二人死んでもらう。おくさんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」とこ記述があって、初めて憎しみが表現されていることに少し安堵する。おくさんがたにも飲んでもらうという箇所が憎しみの深さを表している。 

ここでやっと気が付いたのであるが、私が足りないと思っていたのは、こうしたルサンチマン(憎悪)の感情である。自然への感謝や病苦とともに憎悪の感情、さらに自死や他殺の感情である。柳田国男の「山の物語」では、食うに困った子供たちが殺してくれと親に頼み、子供たちは斧で首を刎ねられている。こうした親思いの感情と同等な、数知れない感情の渦が病者には取り付いている。そうした諸々の感情を「水俣苦海浄土の世界」として綴れば、より普遍的な文学作品となったであろう。先に述べたように石牟礼道子の感性が色濃く反映して題材を取捨選択しているのである、これはとても惜しまれる。病者の出来事を事実に従って記述していけば、裏表紙に書いてある「患者とその家族の苦しみを自らのものとして、壮絶かつ清冽な記録を綴った」のではなくて、「患者とその家族の苦しみを、壮絶かつ清冽に綴った苦海の物語」として記述されたに違いない。 

本書のゆき女の章に石牟礼道子は「決して往生できない魂魄は、この日から全部わたしの中に移り住んだ」と述べている、つまりもはや病者自身に成り切った著者自身の感性に基づいた私小説と言う、渡辺京二の主張が正しいと思えるのはこのためである。そして何度も言うが著者の感性に従い本書は記述されている。もし作者として病者から乗り移ったさまざまな感性を取捨選択せずに叙事的に記述すれば、もっと広範囲に病者の思いを描いた普遍的な作品になることができたはずである。ただ、ある日突然稀有な現実に飲み込まれた著者に、書く術とその記述範囲の的確さまで求めることは無理なのであろう。つまり本書は石牟礼道子文学であって、この文学は渦中に身を置いた人間が綴ると言う、小林多喜二のプロレタリア文学と同根の文学であるはずである。ただ小林多喜二は感情を抑えて、より客観的に描いている。本書は水俣病という渦に巻き込まれた著者の感性に基づいた魂の叫びに他ならない文学である。そして、病状の経過観察や市民運動の活動も加えることによって水俣病文学、その講座テクストとも言える文学なのである。こうしてみれば、文学とは私が思っていたもの以上に幅広いものであり、著者の関心や好みなどで形式と内容を選択でき、また新しく形式と内容を創造できるし、古典的な叙事的な記述もできるはずである。 

雑誌か何かで著者の詩を何篇か読んだことがある。とても良かったと記憶している。もしや石牟礼道子の世界に入るのは詩から行うのが良いのかもしれない。魂そのものに直に触れることができる。最近、著者は亡くなっている。ご冥福を祈りたい。 

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。