「ロクスノ」はなぜつまらなくなったか
はじめに
私の立場
まず、これを書く自分の立場を明確にする必要があると思う。これは、あくまでも個人的な意見であり、それ以上でもそれ以下でもないということだ。というのも、私はこのような批判を展開するには、それなりに微妙な立場にある。
詳細は語らないが、公私ともにこの雑誌と微妙な関わりがあり、純粋ないち読者と言い切ることが難しいのだ。それを踏まえた上で、できる限りいち読者としての視点で書きたい。そのため、ここでは読者として入手できる情報のみに基づいて書こうと思う。
また、これをどういう人が書いているかというのも、読む人にとっては重要な情報だと思う。万一ご興味ある方のために端的に言うと、フリーは全然登れず、アルパインと言えるほどのことはほとんどせず、本誌にはたまに山スキーの記録を寄稿してるような人だ(なので、これをあまり真に受ける必要はない)。
書く動機ときっかけ
正直なところ、これを書くのは火中の栗を拾いに行くようなもので、自分が得られる利益はほとんどないと思う。それでも書くのは、この雑誌を、いや、この雑誌が形成する登山やクライミングシーンをより良くしたい…というよりは、それが好きないち読者として、言いたいことがあまりにも溜ってしまったからだと思う。
また、こういった批判を行わないことも、この雑誌をつまらなくしている要因であると考えるからだ。仮にそうだとするならば、私は何がつまらないかを明確にし、面白くするためのアイデアを提案する必要がある。そして、これを書くということには、私自身が批判される可能性を引き受けることでもある。
次に、これを書くことにしたきっかけだが、これは3つあり、1つ目はこの雑誌がもうすぐ記念すべき100号を迎えること。何かを変えるタイミングとしては、今しかないと考えている。
2つ目は、二子山と小鹿野クライミング協会にまつわる論争と、それを扱った同誌の記事(VOL.099)に関係している。具体的には、記事中の論稿の扱い方における、公平性の問題である。これはこれで重要なテーマだが、ここではこれ以上触れない。
なぜなら、本件に関する抗議文を読んだ時、私の中で生じたのは、不公平性に対する憤りよりも、本件をきっかけとして、もっと充実した誌面を作る雑誌に変わってくれないか、という願いの方だったからだ。その願いを通すためにこの問題を利用することは、正しいアプローチとは言えないだろう。
3つ目は、「山と溪谷 2022年9月号」の北山真氏インタビューで「110号くらい」まで続けるというのを読んで、そろそろ引退してもいいじゃないかと思っていること。
つまらないとは
つまらなさの定義
ここでは、その逆の「面白い」とか「興味深い」がどういうものかを要素ごとに箇条書きにし、ここに列挙された要素が足りない状態を「つまらない」と定義したい。その定義はAIにお願いするが、その判断は主観的であり、私にとってつまらないものが他の人にとっては面白い可能性を排すことはできない。
ここに挙がっている要素は、この雑誌の特長にもよく当てはまる。初登の記録などは、「新規性」そのものであり、それを取り上げて「意義」や価値を明確にすることは、この媒体の存在意義のであるし、そういったものは読者に「刺激」を与える。また、ここでは書き手自身が読み手ともなり得るプレイヤーであるから、「参加」の要件も満たしている。トレーニング、ギアや技術の紹介などは、「有益性」に分類されるだろう。
また、美しいグラフィックがもたらす「娯楽性」も重要な要素だと思う。とはいえ、登る行為そのものが目的なのであって、作品を残すことではない、という立場のプレイヤーも一定程度いると思われる。特にアルパインクライミングのように限りなく軽量化を求められるような活動においては、二の次になる場合も多いだろう。
面白かった記事、つまらなかった記事
面白かった記事
以下に3つ個人的に面白かった記事を挙げる。これらの記事は今でも話題になることがあり、ある程度客観的な面白さや有益性が示されていると思う。そういう意味で、それぞれ1つずつ読者の声(ツイート)を引用しておく。
VOL. 014(2001年冬号):「ボルト撤去をめぐるいくつかの問題」
小川山にある「転がる大根」というルート上のボルト(正確にはハンガーのみ)を、室井登喜男氏が撤去したことの是非について、フリークライミングを代表する面々が議論する内容。掃除、開拓、チッピングなどについて、それぞれの考え方が示され、論戦が繰り広げられる。冒頭でそれまでの経緯を他誌から引用しており、そこから過去の経緯や論争をたどることも可能だ。
上記面白さの定義で言うところの「刺激」「意義」「有益性」があり、真剣な議論を傍から読んで楽しむという意味での野次馬的な「娯楽性」もあるかも知れない。
VOL. 023(2004年春号):「兼原慶太&兼原佳奈インタビュー」
実績がありながら、014号の論客たちほどの有名人ではないところが読者参加型でよく、また独特かつ強烈な主張が刺激的だ。仮にインタビュー対象が誰もが知る有名クライマーであっても、その主張が凡庸であれば読み物としてはつまらないし、既に聞いた話の焼き直しでもつまらない。語られている内容の是非はともかくとして…
VOL. 038(2007年冬号):「白馬不帰クロニクル」
これについては、ロクスノの主流なトピックではなく、かなり個人的なチョイスである。不帰1峰初滑降の記録を柏澄子氏がまとめ、それに故・新井氏による概要とアプローチの説明、斜面に縦横無尽にラインが引かれた舎川氏の写真と独特なネーミング、各ラインの解説にはそこを滑った方々の解説が加わり、ここにしかない独特な世界観を形成している。もう15年以上前のものだが、今でも一部の滑り手によって参照されている。
つまらなかった記事
つまらなさについて延々と語ることほどつまらないこともないので、手短にしかし具体的にいくつか書いておく。
シューズテスト
VOL.012(2001年夏号)からある企画で長く続いているが、有益性という点でアピールする点はあるものの、近年はシューズに著しい進化があるとは思えず、マンネリ化している。一部に根強いニーズがあるようだが、カラーでそれほどのページを割く必要性があるとは思えない。
シューズに限らずあらゆるギアに言えることだが、ギアはあくまでも手段であり、脇役である。それがゲームの性質を大きく変えてしまうようなもの(例えば、アルパインクライミングにおけるドローンとか…)でない限り、トピックとしてゲームそのものより重要になることはなく、扱いもそれに見合ったものでよいと思う。
VOL. 076(2017年夏号):日本のクライミングジム505
この記事の最大の問題は、なんの前置きも無く、いきなり年表から始まるところだと思う。クライミングジムとは何なのか、フィットネスの場なのか、岩場で成果を上げるための訓練や教育、あるいは社交の場なのか、それともスポーツとしてそれ自体が目的なのか…その辺りの背景に何の解釈も与えずに、何かを表現することができるだろうか。これに続くホールド特集も含めた27ページは、ひどく無機質で味気ないものに感じられた。これは、決して掲載されたジムやホールドに魅力が無いせいではないだろう。
VOL. 089(2020年秋号):ボルダー3級・三段
これは、VOL.081の「1級初段」VOL.085の「2級2段」に続く形で企画されたものと思う。「1級初段」はまだいいとして、それ以外はナンセンスだろう。級と段の境目はある意味で象徴的だし、難易度的にも初中級者の目標になるもので、何より連続している。が、それ以外はグレードとして2つ以上離れているし、全国の2級や3級の課題ばかり登りたい人がどれくらいいるのか。そもそもグレードだけにこだわった特集に意味はあるのか…
つまらない理由
いよいよ核心である。ここでは、外的と内的2つの要因に分けて考えたい。
1. 外的要因
雑誌「ROCK&SNOW」が創刊した1998年から今に至る四半世紀において、つまらなくなったのは果たして「ロクスノ」だけだろうか。雑誌自体が、あるいはテレビを含むマスメディア全体がつまらなくなってはいないだろうか。
テレビのゴールデンタイム視聴率は、1998年の71%以降下がり続け直近では52%まで下がっているそうだ。2000年に3,370万部発行されていた新聞の朝刊は、2022年には2,440万部と930万部も減少している。月刊誌についての正確なデータが手元に無いが、近年相次いで廃刊やデジタル化する傾向を見る限り、同じように芳しくない状況であろうと推察する。
以下に思いついた範囲で外的要因を書く。
雑誌の減少
上述のように明確な数字は無いが、雑誌の発行部数が減少しているのは間違いないだろう。中小書店の減少、少子化、フリーマガジンの増加、ネットやスマホの普及、雑誌を置く図書館が増えたなどが、その理由として挙げられる。中でもウェブメディアの発達は大きいと思われる。
ウェブメディアの発達
時間は有限であるから、他のことに時間をとられるということは、雑誌を読む時間が減るということになる。そういう意味で、ウェブそのものが雑誌の競争相手であるし、SNSもしかりである。雑誌は、移動や休憩などの隙間時間を埋めるような媒体だと思うが、この役割はスマホに奪われつつある。もちろん、ウェブ上で閲覧できる雑誌もあるにはあるが、動画やアプリも含めこれだけコンテンツが氾濫している世の中にあって、相対的な地位は下がっているだろう。
登る対象の減少
既に登られてしまった課題が多く、みんなが関心を抱くような対象が少なくなったと思う。〇〇山〇壁〇〇ルートと言われても、よほどのマニアでなければピンとこない。少なくとも、私程度ではピオレドールを受賞したような記録であっても、その課題の性質やすごさが測れないため、毎回友人のアルピニストに訊く始末だ。
みんなが関心を抱くような対象が少なくなった。しかし、だからこそ、マニアックでありながら凄みのある、あるいは面白い記録を見つけ出し、読者に伝えていく媒体としての役割が、以前より重要になっている気もする。
ポリコレ的なもの
メディアや語り手に対して、かつてなく政治的・社会的な正しさが求められるようになった。その結果として、執筆者や出演者が、当たり障りのない作文やコメントをすることが多くなったと思う。その結果として、誌面がつまらなくなっているのではないか、と推測している。これについては、書き始めると長くなるので、敢えて書かない。
時世や社会情勢を見極めながら活動することが大事なことは間違いない。しかし、そういったものは日々変化する。その中で、何かの思想や活動を証拠として活字に残してしまうことには、相応のリスクがある。それは、その行為によって得られる報酬よりも、遥かに大きいものになるかもしれない。そして、その時限爆弾はいつ破裂するかわからない…。それによるクライマーや表現者の委縮効果は確かにある、と私は思っている。
このあたりの話については、宮城氏の著書「外道クライマー」と巻末の角幡氏の解説が示唆に富むと思うので、そちらに譲りたい。
2. 内的要因
雑誌を取り巻く環境だけでなく、当然これを編集する側にも問題はあるだろう、というのがここのテーマであり核心である。これは結構デリケートな問題なので、できれば触れたくないが、これを書かずに終えることはできない。とはいえ、私自身に雑誌の編集経験はなく、編集の何たるかもよくわかっていないため、その点を考慮して読み流していただきたい。
編集方針が不明瞭
雑誌「ROCK&SNOW」は、一体何を扱う雑誌なのだろうか。文字通り「岩と雪」だろうか。本当は「岩とプラスチック」なのではないだろうか(実際のところ、本誌のコンペに割くページ数は、減少しているように見える)。しかし、大滝登攀やキャニオニングのような溪谷も出てくるし、雪山を滑る山岳滑降や辺境クライミングなる独自ジャンルもある。端的に言ってジャンルが幅広く、それらを繋げるような、根底にある共通の思想とか指針のようなものがないように思う。
編集力の低下
受け取った記録をそのままに近い形で載せているのではないか、と思うことが間々ある。この記録がどういった類のものなのか、どういう流れで生まれたものなのか、何が評価されているのか(雑誌に載せるということは、それ自体が1つの評価である)、そういったことが全くわからないまま、行為者本人の記述で始まることが多くある。予備知識のある分野ならまだしも、例えば先鋭的なキャニオニングなどはアルパイン以上によくわからない。
結果として、私は読まずにページを飛ばす。果たしてそれでいいのだろうか。「わかる人だけがわかればいい」のであれば、すそ野は広がらず、先細るだけだ。何より、メディアとしての役割を放棄している。もしや、それがどれだけ価値のある記録なのか、執筆者本人に書かせようというつもりなのだろうか。その先にあるものを想像するのは難しくないはずだが…。
この辺りについては、マンパワー不足に原因があるのではないかと思い、バックナンバー1~99号の巻末から、編集に携わった人、その人数、ページ数等を抽出してグラフ化してみた(データには4冊分の抜けがあるので注意)。
明確な傾向として、ページ数が減少しており、また編集者数も減少している。しかし、後者は71~80号を境に増加に転じ、これに伴って編集者ひとりあたりのページ数は減っている。これは、あくまでも全員が均等にページを受け持つことを前提にしたものであり、それぞれの役割まで把握していないため正確ではないが、マンパワーの問題は解消しつつある(そもそもあったのかも不明)ように見える。では、編集にあたる個人の問題なのだろうか。
編集者の問題
手元の集計では、これまで雑誌の内容(ここでは文章)を作るのに携わったと思われる方々(Editor in Chief、Editor、Adviserなど時として呼称が異なる場合もあった)は、40名余りいた。今回、デザイン関係の方をカウントしておらず、また一部バックナンバーに抜けがあるので、誌面作り全体に関わっている人の数は、実際にはもっとずっと多いと思われる。
カウントした中で、最も名前が多く出たのは、北山真氏で95回。次いで池田常道氏の86回、萩原浩司氏の81回となった(抜けの4冊をカウントしていない)が、それぞれ専門分野や役割は大きく異なるだろう。北山氏はフリークライミング、池田氏(アドバイザーとして、12号から記載されている)は遠征登山やアルパインクライミングに造詣が深い。萩原氏は編集長やプロデューサーとして、11~87号のほとんどに携わっている。
それ以上のことはわからないし、ここでは掘り下げない。ただ、客観的事実として、高齢化が進んでいることはわかる。雑誌が25年続けば、20歳で始めても45歳になるため、歴が長い方がご高齢になるのは自明ではある。高齢化そのものが悪いとも言えないが、感覚というものは鈍るものだと思う。かつて新鮮に感じられていたものも、年を取ればありきたりなものに映るだろう。
抽象的な言い方になってしまうが、私には今のこの誌面からは、作り手が面白がっている様子や熱が感じられない。その1つに高齢化もある気がしている。なお、お三方に次ぐ4番目に登場回数が多かったのは、44回の佐川史佳氏(現在40代)だった。
面白くするには
本稿を書くのをためらった一番の理由は、これに触れる必要性が目に見えていたからだ。欠点を指摘するのは簡単だが、建設的な批判をすることは難しい。仮に私が編集するような立場にあったとしても、この雑誌を面白くできる自信などないのだ。
前述のように、これは作り手だけの問題ではない。シーン全体、ひいては社会全体の問題のようなところが、少なからずある。アメリカでは、「CLIMBING」も「Rock and Ice」も既に(少なくとも月刊誌としては)印刷されておらず、それぞれ20万人超のフォロワーを有する両誌のFacebookページでは、毎回同じ記事が同時にアップされている(両誌ともOutside社に買収されている)。もしかしたら、これが未来なのかも知れない。
私のように現在の誌面を批判する人の中には、「岩と雪」の頃は良かった、と言う人もいる。しかし、その雑誌も時代の流れには抗えなかったようだ。池田常道氏は、「岩と雪 BEST SELECTION」に以下のようなあとがきを残している。
刺激的な面白い時期は既に過ぎ去ってしまい、門外漢にはわからないような、それぞれに先鋭化した複数のアクティビティがあって、それらを結びつけるような思想は存在しない。そういう中にあって、雑誌にそれを求めること自体が酷なのかもしれない。
また、万人が面白いと思う誌面など存在しない。誰かにとって面白い雑誌は、誰かにとってはつまらない。多数派である読者に支持される必要があるし、商業誌である以上、広告主の意向を汲む必要もあるのだろう。
言い訳はさておき、無責任だというそしりを免れるため、私なりの提案を以下に記す。
編集方針とターゲットの明確化:山からスポーツまで、扱う対象が幅広くなり過ぎているように思えるし、雑誌を支える価値観がわからない。方針を示し、いっそのこと扱う対象を絞ってはどうだろうか
情報量と専門知識の提供:ある程度の量は必要だが、処理しきれない情報までも扱う必要はないと思う。上と重なるが、専門知識を持っている分野、掘り下げられる部分だけをしっかりと扱うのが良いと思う
興味を引くトピックの提供:読者から送られてくる記録だけでなく、もっと知られていない記録や人を発掘してほしい。これについては、まだできる余地がある気がする
新しい切り口や提案:これは難しい。とりあえず、情熱を持った若い人が必要だと思う
スキャンダルは売れる:「二子山問題」を扱った99号は、内容はさておき、売れはしたのではないだろうか(「週刊文春」はそれでも減っているようだが…)
より読者参加型に:「ロクスノ」に載ったことを誇りに思う人は一定数いるようだ。友人が出ているから買う、という人もいるだろう。質を保ちながら行うのは難しそうだが…
前述のあとがきにはこうもある。
これを徹底するだけでも、だいぶよくなる気がしている。
最後に、「岩と雪」最終号に読者の声として寄せられた、保科雅則氏の文章を引用して終わりにしたい。
最新号をざっと読んだ。やはりつまらない気がするのは、私自身がつまらないからかも知れない。
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