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「厳しい指導」再考 親が抱く淡い期待について

 「厳しく指導してください」と言う親がいますが、一体どういうつもりで言っているのでしょうか。その背後には歪んだ、卑屈な人生観があるのではないかと考察したことがあります。

 そこでの結論はこうです。厳しい指導を望む親は、子どもの能力を低く見積もっており、抑圧し強制しなければ一人前の人間として社会でやっていくことができないと思っている。一言でいえば、社畜としてしか生きていけないと思っている。だから主体性を育む必要もないし、自分の頭で考える力をつける必要もない。そういう人間観に囚われているのだろうと分析しました。本稿では、その分析に付け加えたいことがあります。


厳しい指導が常識を超えた成果を生む?

 厳しい指導を望む親には、もう1つ隠れた動機があるのではないか。そう思うようになりました。それはつまり、常識を超えた成果が得られるのではないかという淡い期待です。常識的な指導からは常識的な成果しか期待できないが、あえて非常識な指導を行なえば、ひょっとすると常識を超えた成果が得られるのではないか、と。そのような欲望を抑えることができない親が「厳しい指導」なるものに幻想を抱くのではないでしょうか。
 そうとでも考えなければ、わざわざ自分の子どもにパワハラを与えようなどとは思わないでしょう。パワハラをするだけの価値があると心のどこかで思っているに違いありません。実際、厳しい指導を希望する親が提示する目標ラインは合理的な範囲を超えており、荒唐無稽に見えることがあります。私はこのような期待は非合理的であり、間違っていると思います。では一体、どうしてこのような幻想を抱いてしまうのでしょうか。

常識を超えた成果を目指す指導?

 バスケットボールのコーチであるトム・ホーバスという人がいます。厳しく怒る指導者として有名です。彼自身は、選手に期待をしているから、選手の可能性を信じているからこそ厳しく怒るのだと言いますし、過去の教え子たちもそれを受け入れ、感謝している旨の発言をしています。それらを見ると、あたかも厳しい指導が成功したかのような印象を与えます。トム・ホーバスの指導法を公然と批判しているのは私を含めほんの数人しか確認できていません。結果を出しているという理由から、カリスマ指導者としてテレビでも大いに持て囃している状況があります。そのような情報に触れた保護者が、自分の子どもにも厳しく叱る指導をしなければいけないと思ったとしても不思議はありません。
 トム・ホーバスは、選手が自分の限界(上限)を自分で決めてしまうことを許しません。練習中に下を向くことも許しません。「やるしかない」という心理に追い込むのが彼の指導の方法論なのです。良く言えば「強いリーダーシップ」ということになるのでしょうが、私の目にはパワハラにしか見えません。まず選手自身が自分の目標を設定することを許さないというのもパワハラですし、弱音を吐くことを許さないというのもパワハラでしょう。また、パワハラを絡めたマインドコントロールが行われているようにも見えます。私はこれらすべては不正な指導法だと思っています。

 社会的にはパワハラは絶対に許されない時代になりましたが、ことスポーツ指導や教育においては、なぜかそれが容認されやすい空気が残っています。「厳しい指導」への憧れはそのような空気が生んでいるものです。
 とはいえ、教育の世界でも、ここ10年ほどの間に「教育虐待」とか「マルトリートメント」という概念がようやく広まってきました。この時代状況を見れば、厳しい指導を求める親というのもおそらく絶滅危惧種であり、そういうナンセンスなことを言うのは恥ずかしいことだというのが常識になっていくのだろうと思います。

(ちなみに、トム・ホーバスの厳しく怒る指導法が本当に常識を超えた成果を上げたのかというと、それも甚だ疑わしいと個人的には思っています。でもそれは本題からずれますのでこれ以上は触れません。)

教育の効果を過大に見積もりすぎ

 教育熱心な親は教育に過大な期待をしています。素晴らしい教育を与えれば、素晴らしい成果が得られるはずだと思っている節があります。しかし、それを否定する実証研究は多くあります。たとえば行動遺伝学が示す「学力の遺伝率」のデータを見れば、教育ではいかんともしがたい領域が広大に広がっていることを思い知ることになります。また、有名な進学校に入れればその後の成績に良い影響が見られるかというと、そういうエビデンスさえ存在しません。中学受験は今も大いに加熱していますが、現実は驚くべきことに、ほとんどエビデンスのないことのために皆必死に競争しているのです。もし今度、実証データに基づく合理的な判断が普及していけば、中学受験の熱はあっという間に冷え込む可能性もあるでしょう。
 教育は親のエゴやロマンが混入しやすい領域ですから、そこを上手に煽られてしまっているのです。もし教育次第で子どもが生まれつきの才能をはるかに超えた高みに至れる可能性があるのなら、それに賭けてみたいと思ってしまうのが親心なのかもしれません。エゴやロマンも子どもへの愛着があればこそなので、決して否定はできませんし、私も家庭教師としてはそのような気持ちにも付き合っていくわけですが、エゴやロマンによって非常識な指導がもたらすリスクが見えなくなることは避けなければなりません。「厳しい指導」のメリットとデメリットと整理する必要があります。

厳しい指導のメリットとデメリット

 まず、厳しい指導のメリットを列挙してみましょう。

①精神的にタフになる
②勉強量が増える(かもしれない)

 次にデメリットです。

①精神的に不安定になる
②頭が固くなる
③モチベーションが下がる
④言われたことしかしなくなる
⑤自分で考えなくなる
⑥本音で話さなくなる
⑦自己肯定感が下がる
⑧勉強が嫌いになる
⑨どこかでストレス発散をするようになる

 こうして整理すれば、あえて厳しい指導をする理由はなさそうに思えます。肝心の成績の面においても、厳しい指導をしないほうがおそらく結果は良いだろうと私は思っています。
 ただし、上手な指導者であれば、ある意味では厳しい指導を実践しつつも、上記デメリットが出ないようなバランスの取り方もありうるかと思います。具体的にはおそらく、明るく爽やかに、厳しい指導を遂行するということかと思います。(私自身もそういう指導はまだ出来ませんので、予想で書いています。)生徒に対して高い要求をし、生徒が付いて来られないときには共感的にケアをする。でも励まして、明るくポジティブな雰囲気を変えない。生徒が出来なくても暗くならないこと。そのように振る舞うことで生徒は救われるはずですし、厳しい指導がもたらす負の効果をある程度抑えることができるのではないかと思います。
 つまり、「厳しい指導」がすべて葬り去られるということはないはずで、指導者が相当綿密な計算をして指導スタイルを設計することによって、そのデメリットをコントロールしつつ、子どもの未熟な部分に介入していくことが可能かもしれません。間違ってもパワハラになってはいけない条件のもとで、ありうる「厳しい指導」を探究することもまた必要なことなのでしょう。
 厳しく指導はするが、子どもの元気は奪わない。主体性も柔軟な思考も奪わない。そのような、論理的にはほとんど矛盾しているように思われる指導法が必要なのかもしれません。なぜなら子どもというのもそれなりに矛盾した存在であり、矛盾したニーズを抱えているからです。その両方に応えようと思ったら、指導者の方もあえて矛盾した指導に踏み込むのが正解である可能性も、ないとはいえません。

まとめ あくまで常識の範囲内で

 まとめます。親が「厳しく指導してください」と言うときにも、そのニュアンスはいろいろあります。少なくともパワハラやマインドコントロールを求めることは今の時代では不適切です。それは論外であり、私なら指導を降ります。現状ではまだそのような非常識な親の割合が多いので、指導者としては警戒せざるをえません。
 なので真面目に検討すべきなのは、あくまで常識の範囲内において、どこまで「厳しい指導」が可能なのかという問題です。やり方によっては有効になるのか、様々なデメリットが予想される中で、それらを上手にコントロールする道は本当にないのか。「厳しい」という漠然とした言葉では解像度が低すぎます。もっと緻密に言語化していくことにより、「合理的な厳しい指導法」を構築できる可能性もあるような気がしています。


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