集団指導と個別指導の適性の違い
集団指導をするための適性と個別指導をするための適性は異なります。場の条件が違うのですから当然です。その違いを整理してみたいと思います。
学校や塾で授業することを演技に例える人が多いです。教師は舞台に上がって教師という役を演じる俳優であると。実際そうでしょう。大半の時間は教師が一人で喋るわけですし、生徒たちはそれを見ているのですから。なので集団授業の教師は、優れた役者であるほうが望ましいことになります。あるいは芸人のような感覚を持っているほうが上手い授業ができるでしょう。大人数の相手に対してパフォーマンスを発揮する必要があるとき、人は役者になったり芸人になったりする必要があるのです。基本的には、あらかじめ用意しておいた台本を流暢に、抑揚をつけて喋る技術が求められます。その上で、生徒のおかしな回答に上手にツッコミを入れるスキルがあれば楽しい授業になるでしょう。
一方、個別指導の場の条件はまったく違います。個別指導をするために最も必要な資質は、人の話を聴く能力です。相手は生徒であり、子どもですから、十分に言語化するスキルはありません。不十分な表現をこちらで補ってみたり、あるいはまったく言わない気持ちを汲んでみたりと、それなりに高度なスキルが必要です。信頼関係を維持するためには最低限そのスキルは必要だと思います。(信頼関係にさほどこだわらない講師も見かけますが…。)そして、信頼関係を維持した上で、問題があると思われる行動パターンや思考パターンについては介入を試みます。ここで何を「問題」と考えるかが大きな問題なのですが、1対1のコミュニケーションの中でやることですから、講師自身の価値観や理念、良心、倫理観に照らして、問題だと思うなら介入することになります。裏返して言えば、講師自身が問題だと思っていないことについては介入すべきではないというのが私の考えです。(集団授業でも原則は同じだと思いますが、組織の都合上、個人的な考えとは異なる指導をしなければならない場合もあるでしょう。役者として。)
つまり、個別指導の講師は役者ではないのです。喋る「先生」ではなく聴く「先生」です。他のイメージを召喚するのであればカウンセラーに近いです。コーチのイメージがあるかは微妙です。1対1でコーチが付く場合としては、プロスポーツ選手くらいしか思いつきません。明確な目標意識があって、十分な資質とモチベーションを備えた選手に対して、それを前提として厳しく合理的な指導をするコーチ。中高生の個別指導にそのイメージはあまりありません。まったくないとは言いませんがレアケースでしょう。私の経験でいえば、最難関とされる医学部受験生でさえ、コーチングよりカウンセリング成分の多い付き合い方のほうが良かったです。きっと大学受験生でそこまで強い人は少数派なのでしょうし、強い人はすぐ合格していなくなるということでしょう。
教育と抑圧の問題については渡辺健一郎『演劇教育の時代』でも論じられていました。昨今の教育の民主化の流れの中で、アクティブラーニングとしてグループ討論などが行われています。教師は壇上から降りて、生徒と対等な立場で議論をすることが求められる場合もあります。しばしば教師はファシリテーターとして、民主的な議論の舵取り役に回ります。しかし渡辺はここにも問題があると指摘します。そのとき教師はあたかも自身の権力を放棄したかのように振る舞うけれども、それは欺瞞ではないのかと。たとえば生徒同士の自由な討論によって、差別してもOKという結論が出たりしたら、やはり教師は介入せざるをえません。というか、そういう結論にならないように強く誘導するはずです。教師の頭の中にはあらかじめ望ましい結論があって、ファシリテーションという間接的な介入によってその実現を図ろうとします。それは権力の不可視化です。権力の不可視化の何が問題かというと、子どもたちが抵抗しづらくなるからです。子どもが成熟するためには権力との対決は必要なことなので、何が権力なのかはっきりしている方が望ましいという理路です。教師は明示的に権力者として振る舞った方が良い。子どもを抑圧する主体として、役を演じたほうが良い。中途半端にその役から降りないほうが良い。そういう趣旨だったと思います。
私もこの主張に同意します。世の中で流行っているファシリテーションには欺瞞性を感じますし、教師が役者として振る舞うしかない以上、一定の抑圧をすることにもなるでしょう。集団授業においては個々の生徒の事情を大雑把に四捨五入するしかありませんので、抑圧は必ず生じます。また、抑圧がすべて悪いということでもないでしょう。たとえば、上述のグループ討論の例でいえば、生徒同士で自由に話し合ってもらって、いじめはOKという結論が出たならそれをちゃんと発表してもらったうえで、教師としてボッコボコに反論すればよいと思います。明確に権力者として立ちはだかるべき局面では逃げないことです。
それに対して、個別指導は抑圧には馴染みません。抑圧しないで聴く指導。カウンセリングのような指導。これも欺瞞に見えるでしょうか?実際には教師は権力を持っているのに、見かけ上それを隠して生徒が主役であるかのように装っていると?それではいけないと私も思います。だから個別指導の教師は本当に権力を手放すべきだと思っています。ラディカルに権力を手放し、本当に行使しないことが、個別指導のひとつの解であろうと思います。現行制度では正規の教育は集団授業であり、個別指導はサブですので、それは不可能ではありません。集団授業で一定の抑圧があるからこそ、抑圧しない個別指導が成立するとも言えるでしょう。場の条件の違いに応じて適性も異なり、役割も異なります。補完し合っていければ良いと思っています。
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