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スポーツIQなる言葉にまともな定義がない件

 スポーツIQ、たとえばサッカーIQとかバスケIQという言葉がありますが、それはどういう意味なのでしょうか?一般的な意味での(知能テストで測定されるような)IQとは何が違うのでしょうか?私は気になって調べてみましたが、まともな定義がどこにもないようです。ただ言葉だけが独り歩きしており、皆さん何となく雰囲気で使っているようです。「サッカーIQを高めるための練習方法」といった話をする人はたくさんいますが、サッカーIQとは何かという説明はろくにしていません。何となく雰囲気で流通しているだけの言葉ですから、人によって異なるイメージを持っている可能性があります。戦術的理解度のことだと思っている人もいるでしょうし、単に反射神経のことだと思っている人もいるでしょう。このような状況の中で、「~~IQ」という言葉を用いて正確な議論をすることは不可能だと思われます。


元ネタは「多重知能」仮説?

 さて、学術論文の中で「スポーツIQ」という言葉が出てくる例を1つだけ見つけました。バスケ指導者として有名な日高哲朗氏の論文です。

日高哲朗『スポーツ指導法の体系化に向けて』(PDF)
 https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900066817/13482084_55_137.pdf

 日高氏はまずスポーツに必要な能力を「体力」と「技術」に分けます。そして「技術」のほうはさらに「身のこなし」と「状況判断」に分けることができると言います。ではその「状況判断」とは具体的にはどのようなものか。日高氏は運動学のベルンシュタインを引きながら詳細に論じます。まずは感覚情報から始まるわけですが、そもそも外界の情報のうち何に注目すべきかを分かっていなければ感覚することさえできません。「眼はただ単に対象を見ているわけではない。見つめて、調べて、確かめている」。そして状況判断とは成功を見通すことだと言います。つまり瞬間的な計算能力です。このタイミングでこのプレーをすれば成功するのか、しないのか。過去の膨大な経験と比較して判断を下します。日高氏の言葉を引用します。

 こうした適切な状況判断を行う能力は、ハワード・ガードナーの「多重知能」にならって「スポーツIQ」と呼ぶのが相応しい。バスケットボールでは「バスケットボールIQ」と呼べばいいし、他の種目にも同様に特有のIQがあるはずで、「賢いプレイ」はそこから生まれると考えたい。

 どうやら「スポーツIQ」という言葉はガードナーの著書の中に出てくるようです。この本はIQという概念を従来より広く捉えることを提唱したものとして知られています。IQには7つか8つのカテゴリーがあるのだとか。

 しかし、根拠薄弱だという批判もされています。ガードナーの仕事は科学的にIQの多様なあり方を研究したものではなく、IQは多様であるという自身の仮説をもとに教育などの実践をすることの方に主な関心があったようです。能力一元論に対抗するために、いわば「政治的に」提唱した仮説だったといってもいいでしょう。
 そのガードナーの仮説をそのまま受け入れて「スポーツIQ」という言葉をスポーツ界自身が使うことには問題があると私は思います。やはり「スポーツIQ」なるものはIQではない可能性があります。曖昧な概念を安易に使うべきではありません。具体的に「感覚知覚能力」「要点を押さえた情報収集能力」「判断基準の知識」「判断遂行の経験量」「予見能力」「心理的駆け引き」「未知の状況における機転」などと言うべきなのでしょう。これらはたしかに大なり小なり脳が関わっている仕事ではありますが、かなりのグラデーションがあります。これらをひっくるめて「スポーツIQ」と呼んでしまうと正確な議論が出来なくなってしまう可能性があります。

認知能力と思考力が混同されている

 私の問題意識を具体的に説明しましょう。発端はこの記事にありました。

 私はこの記事で、叱る指導法は選手のIQを下げるので、頭を使ったプレーが出来なくなると述べました。これに対して「いや、そうじゃない」という意見も多く寄せられました。彼らが言うには、ホーバスのように多くの決まり事を作って選手にルールの遵守を強いるほうが、試合中に選手たちは余計なことを考えずにプレーできる分、脳の容量に余裕が生まれるので、頭を使った創造的なプレーもできるようになるのだそうです。少なくともヨーロッパの現代サッカーではそのように考えており、そういうチームが結果も出しているといいます。

 おそらく議論がすれ違っているのです。私が「IQが下がる」と言ったのは、とりあえず従来の意味でのIQを想定していました。前頭前野の活動による、論理的思考力、合理的な判断力、記憶力、創造的思考力などを指していました。叱る指導法によりこれらの能力が低下することは学問的に明らかにされていますので、当然スポーツにおいても「頭を使ったプレー」をするのは難しくなると考えたわけです。
 一方、「ルールがあるほうが脳に余裕が」派の人たちが言っているのは認知負荷の話です。ルールがあれば、少なくともチームメイトがどう動くかは分かるので、いちいち見て判断する必要がありません。それを考えなくて良い分、試合中の相手の動きや不測に事態に備えることができる、という話です。ホーバスが女子バスケで成功したのもそれを遂行したからだと言いたいのでしょう。この主張をする人たちは、「頭を使っていない」とは言われたくないようです。しかし私に言わせれば、頭を使いたくないからルールを必要としているわけで、どちらかといえば「頭を使っていない」チームシステムだということになると思います。ホーバスも著書の中で「うちの選手たちは頭を使ってプレーするのが大好きですよ」と述べていましたが、欺瞞的な言い方だと私は思います。
 しかしながら、私は誤解していたのかもしれません。「ルールがあるほうが脳に余裕が」派の人たちが言うところの「頭を使う」という言葉の意味が、もし「感覚知覚能力」「要点を押さえた情報収集能力」程度の意味にすぎないのだとしたら、彼らの言説も別に嘘ではないことになります。簡単に言えば、「スポーツIQ=認知能力」という認識に立つなら、このような言説も成り立つのかもしれません。

 私の感覚では、認知能力というのはIQというより単なる神経機能ですので、それをスポーツIQと呼ぶのは大きな違和感があります。一方、「判断基準の知識」「予見能力」「心理的駆け引き」「未知の状況における機転」といった能力をIQと呼ぶのは賛成です。これらの能力を発揮するためには、より大脳皮質が大きく活動する必要があるでしょう。私はそれをIQと呼びたいと思います。そして話を戻せば、叱る指導法はその意味でのIQを低下させるということができます。
 議論がすれ違った原因はここにありました。スポーツIQとは認知能力のことであると考えている人たちにとっては、叱る指導法によって認知能力が低下するとはどうしても思えないので、私の立論が理解できなかったのでしょう。そして強権的な指導スタイルでルールを徹底させたホーバスのチーム作りは正しく、何の問題もないと考えるのでしょう。

球技スポーツのシステム化はどこへ行くのか

さて、先の話をしましょうか。現代サッカーがシステマチックになっていると書きましたが、それに伴い、現代のサッカー選手たちはルールを遵守してハードワークする「労働者」と化しています。また、組織がシステマチックになればなるほど、相手チームからも読まれやすくなり、裏のかきあいが始まります。そうすると試合中にシステム変更をする必要も出てきます。選手は肉体的にも頭脳的にも大変だと思います。でもそれってIQなのでしょうか?それはただのルールを覚える苦労であり、システム変更に適応する苦労に過ぎません。論理的思考力でもなければ創造的思考力でもありません。IQと呼ぶのも恥ずかしいくらいの代物です。しかし、現代サッカーやバスケのNBAの選手に必要とされている能力はそういうものです。私はつまらないと思います。
 選手たちにそれ以上のIQがないから仕方なくシステム化に頼ったチーム作りが行われているという見方もできるでしょう。現在のサッカー強豪チームがそうしているからといってそれが正解とは限りません。将来的には、もっと選手個々の創造性が発揮されるような競技文化になればいいと期待します。その意味では、恩塚亨HCが率いる女子バスケ日本代表がやろうとしていることは「原則 ✖ IQ」でプレーするモーションオフェンスであり、うまく行けば本当の意味でIQと呼ぶにふさわしいバスケットになるかもしれません。


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