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共有できる沼について

「共有できる沼」とは、私の最新作の名前だ。

自分の絵と他者の関係を変えたいと一年くらい思考・行動を繰り返してきた。
自分は他者に対して何を求めているのか。
結論が「共有」だった。分離することなく互いを行き交うこと。
2年前の夏、「線を引く」で他者との交われなさを嘆き、去年の夏に「夏のバグ」で自分自身からの逃れられなさを諦念的に見つめた。
いつだって私は、逆説的に自分を肯定してきた。交れなさも、逃れられなさも、確固たる自我の証拠なのだ。

しかし最近思うのは自分自身と環境の関係である。100自分であることはあり得ないように、100環境であることもありえない。
それは我々が互いに共有しあっている証拠だ。(それが救いではない。絶対に違う。)

ゆえに私たちは巡る。
私の視線は巡り、誰かの発見となり、私に戻る頃また私を驚かせる。
その循環が「共有」だ。

「共有できる沼」では人間と、木と、魚と、石と、沼はお互いを共有しあっている。それぞれの在り方で在ることは美しい。
それらを同時に描くことは、循環を描くこと、そして逆説的に個性を称賛することだと思う。

以下、文中で挙げた作品、又はまとめである。

線を引く

夏のバグ


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