見出し画像

「ものがたり」が大事

ここでは着物や断捨離や犬について書くことが多いけれど、共通する物があると気付いた。それは「ものがたり」の有無だ。着物との出会い、母や伯母の残した着物の中から自分で何かの縁を感じたりそこに物語を感じたら好きになってしまう。断捨離は堆積しているさまざまな物たちの持つそれぞれの物語の再確認と訣別の繰り返しだ。犬の成長はまさに小さな物語の連続。毎日見ても見飽きないし同じように見える日々に少しずつ違う色が乗って子犬から成犬に、貰われて来た臆病な小さな犬から我が物顔でソファーでへそ天で寝る慣れた犬になって来た過程が何にも変え難い宝物になっている。

しかしこの「ものがたりが好き」と言うのは敵に知られてしまうと危険な弱点でもある。「敵」と言い切ってしまってはいけないけれど、着物屋さんのような、大きな金額の買い物が伴う方とのやり取りには本当に慎重にならざるを得ない。去年の春だったか、わりと大きな買い物をしてしまった私はその後、展示会と言う名前の営業をかけられる場面ではひたすら「無」になった。心を動かしてはいけない。職人が一つ一つ織って(染めて、とか紡いで、とか様々な背景)いるからこの模様は二つとない、とか機械のものとは違って、とかこの色味はもう出せない、とかこの風合いを出せる職人はもういない、とかとかの様々語られる「ものがたり」にシンクロして心動かしてしまうと不本意な買い物をしてしまう危険があったのだ。
向こう様もお商売だから仕方ないのだけれど、何かが欲しいと思う前に「これなんかどうです?」「素敵ですよ?」「よくお似合いです!」と畳み掛けて来るのはいかがなものか、とまあ着物を見たり買ったりしたことのある人の中で必ず話題になる問題だけど。
その物、その商品との出会いの物語もちろんだし、売ろうとして来る店員さんとの相性みたいなものもある。本当にこちらの本音を言ってそれを汲み取ってくれる、無理強いはしない、そう言う信頼できる方に「これは絶対オススメよ」とか言われるとかなりぐらつくのは確か。
でもまあ、ない袖は振れないし、「ちょっと待って、これ本当に欲しかったやつ?」と立ち止まらないと大変なことになってしまう。
去年の後半はいくつか営業されてもざっと「無」に徹した。合気道と同じで「買うもんか」なんて考えているとそれを逆手に取られて「買う」に転じてしまう現象も起こるから、本当に「無」を推奨する。しかし「無」「何も考えない」と言うのは難しいので例えば脳内で好きな音楽をずっと流してその歌詞をずっと追っていると良いかもしれない。話半分になって頷いてはいけないけれど、音楽に集中していると何を言われても生返事になるはずだ。そして思うことがあるならきちんと言ったほうが良い。こう言う色は好みじゃないとか、こう言う着物はまだ欲しいと思わないとか。私は去年、「洗える長襦袢」と言うものを勧められてかなりぐらついたけれど「そう言う便利なものがあるなら最初に欲しかった、もう絹とか麻とか何だかんだで長襦袢三着あるんですよー」と言った。本音だった。今年の目標、年間50回着る、をコツコツと続けていると「そろそろ襦袢をクリーニングに出した方が良いかな」という感じになってくる。タイミングを見てうまく回さないといけない。こう言う経験を積んだ後でまた「洗える長襦袢」を勧められたら降伏するかもしれない。
※洗える長襦袢と言うのはポリエステルなどで出来ていて「家で」「手洗いコース」などで洗える、と言うもの。通常の絹や麻の長襦袢は縮む危険性があるのでクリーニングに出すのが一般的。

着物や家の片付けや犬との生活で他にもどんな「ものがたり」があるのか、また折に触れて書いて行きたいと思う。
今日のところはこの辺で。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?