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レビュー:演劇「アンダンテ」「いのちもてあそぶひと」@白子ノ劇場byユニークポイント;死ぬって?

こんにちは!
谺(コダマ)ッチャンこと、児玉朋己です。
元気してますか? 私は充実した気分です。

あなたは死にたいと思ったことはありますか?

私は小学生の時にガキ大将からいじめられ、
死のうかと思い詰めたことがありました。

さいわい、
「あんな一人の奴のために死ぬなんてつまらないことだ」
と思うことができて、
死ぬことはありませんでした。

その結果、
私は誰かが自殺したというニュースを聞いたときには、
バカなことをしたと思わずに、

「自死した人はみんな正しい」
「きっと辛いことがあったんだろう」

と思うようになりました。

死のうと思う時の辛さの核心を自分も味わったからです。

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今日は、
ユニークポイントによる演劇、
「いのちもてあそぶひと」
「アンダンテ」
二本立て興行のレビューをお届けします。


演劇の受け取り方

これまでユニークポイントの公演は何度も観てきましたが、今回の二本立て興行については、たいへん大きな感銘を受けました。
そこで、
今回のレビューにあたっては、観劇して感想を抱きそれを発信するということについて、私がどのような考え方をもっているのか、はじめにお話ししようと思います。


第三舞台について

ユニークポイントでは、劇の公演のほかにもワークショップを行っています。
そこに参加したときに、演劇の考え方について主宰の山田さんからいろんな示唆をいただきました。
それらのなかに、第三舞台というかつてあった演劇集団の理念がありました。
それはこういうものです。

「まず第一舞台がありまして、それはスタッフとキャストが力を合わせた舞台のこと。第二舞台は観客席。第三舞台は、第一と第二の舞台が共有する幻の舞台。劇団の自己満足に終わらず、お客さんが付き合いで来ているだけでもない、最上の形で共有する舞台、ということで第三舞台と名付けました。」(鴻上尚史/早稲田演劇新聞1981.VOL7)
(第三舞台ホームページより)

演劇に限らず芸術作品や音楽・書籍などを楽しむとき、「その作者がどういう想いと狙いをもって表現しているか」を限りなく客観的に正確につかむことが正しい楽しみ方だという考え方があります。
それは、上記第三舞台の理念のうちの第一舞台を限りなく正確に客観的に理解するという考え方です。
そこに観客自身の思いは入り込む余地がありません。
それに対して、この第三舞台の理念では、観客席を第二舞台とすると、第一と第二の舞台が共有する幻の舞台があり、それを第三舞台と呼ぶと言っています。
この考えでは、スタッフとキャストが力を合わせた第一舞台が意図としてあったとしても、その意図を超えて、それを観客がどのように主体的に理解(しようと)するのかが大事だと言っています。
この理念が書かれたのが1981年だということですが、この時期は、思想的にはポストモダンが流行していた時期でした。

客観的真理などない
テキストには読者が存在する
等々、

新しい哲学・認識論が語られた時期でした。
この第三舞台の理念も、きっとその時代の流れの中で育まれたのだと思います。
私見です。
そして、ユニークポイントで脚本・演出をしている山田さんも、この第三舞台の理念を踏まえて活動されていると私は思っています。


「あまり深掘りしないでね」という言葉

ところで、私は、
この二本立て興業にあまりに感銘を受け、いつもより深く考えてレビューを書きたいと思ったので、これまで買ったことのない上演台本を購入しに白子ノ劇場を訪れました。
そのとき、台本を買う理由として、「いのちもてあそぶひと」を深掘りしたくて、と口にしました。
すると、ある関係者が、「あまり深掘りしないでね」とおっしゃったんです。
帰宅してから、どうして深掘りしないでと言ったのかなぁ、と考えました。
あんまり考え込むと思い詰めちゃってよくないから、と私を心配してくださったのかもしれません。
そうかもしれませんが、言われた時すぐに浮かんだのは、「公演している私たち自身も全部わかってやっているわけではないから」かもしれないということでした。
それは、

演劇に限らず、
芸術はもちろんすべての表現活動は、
難しいから、よくわからないからこそ表現するものだ

という考えです。
この考えは、ユニークポイントの以前の劇の中で語られた考えで、ユニークポイント自身の考えでもあると私は思っています。
何か表現された作品を見るとき、私たちは、作者はそのテーマについて何もかもを理解し吟味しつくし表現しつくして作品を作っていると思いがちです。
けれど、実はそうでもない。
作者は自分でもよくわからないが表現したいものを感じそれを試行錯誤的に形にしてみたということ。
むろん、上手く伝わるように創意工夫・努力はするのですが、自分でも完璧に理解できているわけではないモノを表現している。
表現とはそういうものなのです。


フライヤー(ちらし)より

折しも、この二本立て興業のフライヤー(ちらし)には、次のように山田さんの言葉が載っています。

しかし2011年に東日本大震災があり、原発が崩れ、もはやこの国で上演する意味のある演劇など、どこにも存在しないのではないかと思った。ちょうどその時、私は次作の戯曲執筆中であり、PCの前に座っても目の前の戯曲をどうしてよいものか、まったくわからなかったし、心底無意味に思えた。「いのちもてあそぶひと」はそのときに書いていた戯曲である。
―中略―
たかだか数年前、無意味だと思った演劇を、いまは意味があると思ってやっている。そんな演劇とはいったい何なのだろう。意味はあるのだろうか。それともやはり、相変わらず意味などないのだろうか。

作品の作者とは、そういった状況の中で訳も分からず形にすることがあるんですね。
さて、観劇して感想を抱きそれを発信するということについて、私がどのような考え方をもっているのか、についてまとめます。
まず、演じられているものを極力まっとうに理解しようと主体的に鑑賞すること。
それが幻の第三舞台が出現する条件です。
そのうえで、私の感想は作者の意図を正確に理解したものではない、と自覚していること。
そして、客観的に正しい感想はなく、私の理解はあくまで私見であるとわかっていること。
そのうえで、その理解・感想を私見として語ること。
だいたいこんな感じになります。

私が受け取った意味としてしか語れない


さて、上演台本を初めて買って読んでみました。
それで感じたのは、私は、たしかに劇全体の一部を切り取って集めたうえでの感想しか持ちえないのだということです。
劇を見ているときに感じた熱気や引っかかりを手がかりに、上演台本から素材を集めてきて語る。
それは私見だけれども、私見に過ぎないわけではなく、私見で構わないということです。

では、上演作品について語りたいと思います。
上演順です。

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アンダンテ 歩くような速さで

これは、不発弾処理という危険な仕事を描いた作品です。
日向井というベテランと木の実という新人の二人組が出てきます。

仕事の存在意義って何だろう?
その仕事をする自分の存在意義って何だろう?

という問いかけが通底音として流れていると、私は思います。
劇は、木の実の「・・・緊張してきました。」というセリフから始まります。
新人ということもあり生真面目に振る舞う木の実に対して、ベテランらしく危険な作業にほどよい距離感を持とうとする日向井という対比が面白く話が進んでいきます。


誰にでもできる仕事じゃない

始まってすぐに私が引っかかったセリフがありました。

日向井 (ふと)マヨネーズくらいでなんだ。俺たちはな、選ばれし者なんだ。この仕事は、誰だってできるわけじゃないんだ。
木の実 日向井さんもないですか。ドキドキしたことって。心臓がとび出るような。
(上演台本p.3)

この部分は、表面的・直接的には、爆弾処理など危険な仕事に従事する人のなかには心拍が上がらない人が多い、というこの仕事の特異性について説明していると言えます。
なぜ私が引っかかったかというと、ちょうど私が観た公演の二日前に、先日殺害されてしまった医師の中村哲さんがアフガニスタン等で行ってきた水道・用水路の土木工事について、私が信仰する紫光学苑の先生と、「誰にでもできる仕事じゃない」という話をしていたからでした。
劇の冒頭でいきなり同じ言葉が出てきたものだから、「うっ」と心臓に響いたんです。
さて、劇は対照的なキャラの二人の軽妙なやりとりで進んでいきます。
日向井が離婚を経験していることを知った木の実は、奥さんは別れるときに何て言ったんですか? と質問します。

日向井 俺な、現場決まると、いつも部屋の掃除してから出勤するんだ。隅々まで雑巾がけして、それがすごく嫌だって言ってな。何であなたが、そんなことしなくちゃならないんだって。いくら説明しても駄目だった。誰かがやらなくちゃいけない仕事なんだけどね。何で志願なんかしたんだ。あるだろ理由が。何だ。
木の実 人の役に立ちたいからですかね。
日向井 人の役に立つか。それが本当にできたら、生きてきた意味があるってものだ。
(上演台本p.8)

ここに、私たちの仕事や私たち自身の存在意義への問いかけがあります。


核爆弾というトップシークレット

不発弾は核爆弾の可能性があることがわかります。
日向井が「トップシークレットだからな」と言い、「核爆弾は初めてだ」と言いながら処理をしようとします。
ひょんなことから起爆装置が起動しカウントダウンが始まってしまいます。
試行錯誤をするうち、これまたひょんなことからカウントダウンが止まります。
二人は静寂を感じます。

やがてふと、静寂が訪れる。
木の実 相変わらず、静かですね。
日向井 そうだな。
木の実 ここに核爆弾があって俺たちが爆発を阻止したなんて、誰も想像していないでしょうね。
日向井 そりゃ、そうだろう。
(上演台本p.15)

ここで私が感じたのが、

核爆弾を処理したら、そのことは誰にも知られないまま。
そんな誰にも知られないことをする自分に存在する意味はあるのか?

という問いかけです。
このあと、みたびひょんなことからカウントダウンが再開してしまうのですが、爆発は逃れます。


遠方で爆発

爆発を逃れたおかげで二人は却って怒りに似た感情を感じるのですが、今度は遠くで爆発が起こってしまいます。
なぜ爆発が?と木の実が問います。

木の実 ではなぜ。
日向井 想像力が少しだけ足りなかったんだ。不発弾はまだ、俺たちの知らないところに、無数にあったんだよ。
木の実 想像力ですか。
(上演台本p.17)

ここの意味は何でしょうか?
私が思ったのは次のようなことです。

トップシークレットになるような不発弾は無数にある。
そしてこの不発弾処理のような仕事が無数にある。
不発弾処理のような危険な仕事はもちろん、危険でないにしても、とても大切なのに誰にも知られない仕事がある。無数にある。
言ってみれば、大切だということをそれをする当人からも忘れら去られている仕事が無数にある。
そんな仕事をする自分に存在意義はあるのか?
きっとある!


核不発弾とは何?

遠方の爆発の光が届いているなか、日向井が帰り支度を始めます。
それを見た木の実が言います。

木の実 この爆弾はどうするんですか、置きっぱなしにするんですか。
日向井 大丈夫だよ。じきにみんな忘れる。ものすごいスピードで。ここにかつて核爆弾があったなんて、あの爆発を見た人間は、すぐに忘れる。
―中略―
日向井 さあ行くぞ。早くしないと、雨が降るぞ。死の雨が。現実はいつも驚くべきスピードで進んでいる。我々の想像をはるかに超えてな。取り残されるなよ、木の実わかばくん。君も、君の「うちのなんか」も、生まれてくる子供も、しっかり守ってあげるんだ。現実に追い越される前に、世っと静かにしていてもらえませんか!と叫ぶんだ。
(上演台本p.17-18)

危険な不発弾がそこらじゅうにある。
不発弾をそのままにしても、皆すぐ忘れる。
この不発弾とは、原発の隠喩でしょう。
原発という危険を抱えてしまった私たちの現実。
その現実はものすごいスピードで進んでいる。
その現実から取り残されてはいけない。


アンダンテ まとめ

不発弾処理を大切な仕事と解釈すれば、そういう誰かがやらなければならない大切な仕事が無数にあること、それらは忘れられていることが多いこと、に思い至ります。
私の日常になっている仕事は、そういう大切な仕事ではなかっただろうか?
私の仕事に、私に、きっと、存在意義はあるのではないか?

不発弾を原発と解釈すれば、遠方の爆発は東日本大震災の原発事故です。
私たちは危険と隣り合わせでいるのに、それをすぐ忘れてしまう。
忘れたら、現実から取り残され爆発に巻き込まれます。
私たちは危険と隣り合わせでいるという認識を取り戻さなければなりません。


いのちもてあそぶひと

この作品を観た直後は、大きな衝撃を受けたことは確かなのですが、どう表現したらよいかわかりませんでした。
上演時間は決して長くはなかったのですが、「骨太な作品」だと思いました。
帰宅してから、この作品をどう考えればよいのか、その取っ掛かりがわからないのだと気づきました。
そこで、原作があるというのだから原作を読んでみようと思いつきました。
この作品は、岸田國士(くにお)「命を弄ぶ男ふたり」(大正14年)を原作としています。
アマゾンで検索してみると、紙の本のほかにkindleで読めることがわかりました。
しかも、kindleアンリミテッドの対象になっていました。
私はkindleアンリミテッドに入っていたので、追加料金なしで読めることがわかりました。
便利な世の中になりましたね。
もう一般の書店は閉まっている時間帯でも、読みたいと思った次の瞬間に読めるのです。
原作を読んでみると、この作品「いのちもてあそぶひと」がどのように組み立てられたのかが、おぼろげに見えた気がしました。


原作「命弄ぶ男ふたり」について

原作では、眼鏡をかけた男と包帯をした男のふたりの男が現れます。
眼鏡をかけた男はおそらく20代半ばの俳優の設定、包帯をした男は、実験で全身に大やけどを負った35歳の化学者という設定です。
二人は、それぞれ独自に電車に飛び込んで死のうと考え、線路わきの同じ場所で鉢合わせます。
そこで、それぞれ身の上話を始めるのですが、互いの死ぬ理由について批判したり同情したりしながら理解が進み、ついに互いを気遣うようになりその場を引きあげて終演です。
原作を読んでいく過程で、それぞれの男の死ぬ理由について、私も同情したり批判したりするわけです。
終わりまで読んだ感想としては、それぞれの男が自分の境遇を深く悲観し、思い詰めていることはわかるのですが、それぞれ、「そういう話ってよくあるよね」というわかりやすい理由なんです。
とてつもない悲劇とまでは言えない理由です。
そして、二人ともが自分の理由について拘泥する一方で、実際に電車に飛び込むまでいかないことに、読んでいてイライラして来るわけです。
そして結局は、「どうして死のうなんて思ったんだろう」くらいのノリで引きあげていく。
死について、二人はどこまで真剣だったんだろうと思ってしまいました。
だからこそ、「命を弄ぶ男ふたり」なのかもしれません。
私は、このような感想をもって不謹慎なのかなぁ、とちょっと心配になり、検索してみました。
すると、この原作の上演をレビューした記事が見つかりました。
〈いのち〉とは、何か――芝居・命を弄ぶ男ふたり、を観る」です。
そのレビュアーも、二人の死ぬ理由や死ぬことについての姿勢について、大筋で私と同じ感想を持っていることを表明していました。
なのでちょっとホッとしました。

さて、では「いのちもてあそぶひと」について話します。
こちらでは、演者は5人になっています。

包帯の男
彷徨う女
学生1
学生2
眼鏡の男

です。
原作では二人の対比で話が進みましたが、こちらでは、二人に「いまどきのJK」が加わります。
厳密に言うと、はじめに対比的に描かれるのは、包帯の男と彷徨う女です。
包帯の男の設定は原作と同じです。
彷徨う女は、当初、死ぬつもりだと言いながらその理由を言いません。
その状態で話が進みます。
対比の仕方は原作とほぼ同じです。
原作の眼鏡の男の台詞をこちらでは彷徨う女が語ります。
さて、その二人のところに女子高生が二人現れます。
もとの二人は隠れます。
学生2が死のうとしてこの線路わきまで来ました。
学生1は学生2の友人で、学生2が死ぬのを止めようとしているのです。
二人の会話です。

学生 2 ・・・生まれたことに意味がないとは思っていないわ。
学生 1 じゃ、なぜ、死ぬの?
学生 2 協力してほしいの、友達として。いい?よく聞いてね。私、死ぬから、そう決めたから。そしたらわかるんだ。本当に私がやりたいことはなんだろう、どうやって私は生きていけばいいだろうかってことが。(中略)わかる?私、いま、自由なんだよ。死ぬって決めたら、自由なんだよ。誰にも気を使わず、ただ自分のためだけに、私自身が存在できる、本当に自由。誰だっていつか死ぬのに、普段はみんな忘れている。歳もとらないし、老いもしないって思ってる。死ぬってことに、現実味がないんだよ、みんな。
(上演台本p.21)

ここで学生2は、
「本当には死なないけどぎりぎりまで死ぬつもりになるんだ」と言っています。
この学生2について、私は劇を観ているときに、「死ぬぎりぎりの瞬間を味わうことで自分が何をやりたいのか見つけたい」ということだ、「死を垣間見ることで自分の生の意味を見出したい」ということかと思いました。
ちょっと観念的で変わっているように思えますね。
さっき「いまどきの」と言った理由です。


メメント・モリ

ところで、私には、この学生2のセリフに既視感がありました。
何処で見たかというと、1980年代に一世を風靡した写真家:藤原新也の写真集「メメント・モリ」です。
この写真集は、写真がすごかったのにくわえ、その写真に添えられたキャプションにエッジが効いていて、多くの人に衝撃を与えました。
扉を開いてすぐの1頁目でいきなり、

ちょっとそこのあんた、顔がないですよ

と言った後、次のように語ります。

いのち、が見えない。
生きていることの中心(コア)がなくなって、ふわふわと綿菓子のように軽く甘く、口で噛むとシュッと溶けてなさけない。
しぬことも見えない。
いつどこでだれがなぜどのようにしんだのか、そして、生や死の本来の姿はなにか。
今のあべこべ社会は、生も死もそれが本物であるだけ、人々の目の前から連れ去られ、消える。
街にも家にもテレビにも新聞にも机の上にもポケットの中にもニセモノの生死がいっぱいだ。
本当の死が見えないと、本当の生も生きれない。等身大の実物の生活をするためには、等身大の実物の生死を感じる意識をたかめなくてはならない。
死は生の水準器のようなもの。
死は生のアリバイである。
(メメント・モリp.2-4)

学生だった頃、この写真集を手にして震撼したことをおぼえています。
海辺で死体が犬に食べられている写真があります。
そこには、

ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。
(メメント・モリp.23)

というキャプションが。
また、浜辺で死んでいる遺体の写真には、

祭りの日の聖地で印をむすんで死ぬなんて、なんとダンディな奴だ。
(メメント・モリp.29)

とあります。
写真は、インドの日常を切り取ったものですが、そのキャプションと合わせて、日本では隠され埋もれてしまっている「生(なま)の死」を垣間見せてくれます。
この写真集はベストセラーになりました。
いまでも売れ続けているそうです。
この「メメント・モリ」という作品のことを思う時、私は先ほどの「いまどきの」という形容詞を撤回しなければなりません。
学生2の言っていることは、「いのち、が見えない。」と語る藤原と同じでした。
学生2は、私のようにバブル期に「本当の生」を渇望した多くの日本人のまっとうな嫡子であり、けっして「いまどきのJK」=鬼子ではなかったのです。
思えば、「ちょっとそこのあんた、顔がないですよ」とは、包帯の男のことだと言えるかもしれません。
包帯の男は、学生2に向かってウスラトンカチだと罵倒しますが、ウスラトンカチだったのは、死ぬ死ぬと言いながら理屈をこねているばかりの男の方でした。
彼の顔は包帯で見えないのです。


生(なま)の死

「いのちもてあそぶひと」は、インドでは日常だった「生(なま)の死」を描くことも忘れていません。
話が進んでいくうちに、彷徨う女は、本当は死のうとしているわけではなかったことが判明します。
彼女は、不治の病にかかった17歳の娘を持っています。
その娘を助けるためには若くて新鮮な臓器が必要で、その若くて新鮮な臓器を得るために、この場に来ていたのです。
つまり、自分が死ぬのではなくて、自死を遂げた若い子の内臓が目当てだったのです。
彷徨う女と学生1は、学生1が持ってきた毒の入った牛乳を飲んだことで死んでしまいます。
これで、残されたのは包帯の男と学生2だけになりました。
この残された二人にとっては、本当は死ぬつもりでなかった彷徨う女と、死のうとする友人を止めようとしていたはずの学生1の死は、まったく無意味なもののように思えます。
これは観客も同じで、私自身も、たまたま毒を飲んだからという唐突な理由で死んだ二人の死の意味が解らなくなっていました。
二人の死は、まさに意味を剥奪された死そのもの・「メメント・モリ」で示された「生(なま)の死」だったのです。


原作を検証しきった

さて、ここまでの展開で、「いのちもてあそぶひと」は、原作の「命を弄ぶ男ふたり」で提起された死を弄ぶという問題を批判的に検証するという大きな仕事を果たしたと思います。
原作で描かれた二人の問答は、それぞれが死に向き合いながら二項対立をしていました。
死とはなんだ?・死をめぐるこの対立はなんだ? という問題です。
「いのちもてあそぶひと」では、そこに第三項である女子高生を当てることで、その二項対立が実は対立していなかったこと、どちらも死に向き合っておらず屁理屈をこねまわすばかりだったことを示しました。
二人は同じ穴の狢だったのです。
「顔がない」のは眼鏡の男も同じだったとも言えます。
そして、では「生(なま)の死」とは何か、という問題については、登場人物を無意味に死なせることで観客に提示したのです。


私たちはどうすればいいのか?

死に向き合い、生(なま)の死も見た。
では、私たちはこれからどうすればいいのでしょうか?
学生2は、バブル期に「本当の生」を渇望した日本人の嫡子だと言いました。
嫡子であるとは、包帯の男のように屁理屈で誤魔化すのではなく、正当に死を想う(メメント・モリ)家系を継ぐ者であるという意味です。
正当に、死についてまっとうに向き合っている者、それが学生2です。
だとしたら、私たちは学生2の言葉に誠実に耳を傾けるべきかもしれません。


夜の動物園に行こう!

話していませんでしたが、これまでの展開の中で、学生2は、「夜の動物園に行きたい。私を夜の動物園に連れていって!」と繰り返し訴えていました。
他の者には、彼女がどうして夜の動物園に行きたいのか解りません。
彼女は、自分が以前にその動物園に行った時のことを話して、解ってもらおうと説明しますが、包帯の男と彷徨う女はイマイチ腑に落ちません。
すると、学生1が言いました。

学生 1 夜の動物園は、ただ夜を迎えた動物園ってことじゃなくて、そこには、昼には存在しない動物が走り回り、得体のしれない鳥が空を飛び、顔のない警備員が警備をし、姿の見えない人たちがアイスクリームを食べたりしているんです。きっと、それがたぶん、夜の動物園で、私たちが生きている間は、決して見てはいけないんです。だからたぶん、彼女は言うんです。死ぬ前に一度見てみたいって。
(上演台本p.28)

これを聞いた彷徨う女が、「さすが友達だ。彼女の思っていることが、本当にわかりやすく響いた」と言います。
これは観客である私にも同じで、この説明で学生2の言いたいことがわかった気がしました。
この作品の最後のセリフが、学生2の「行きますか?一緒に。夜の動物園に。」なんです。
劇を観ていた時には、私には、このセリフが「コレが重要だからね!」という観客に対するダメ押しのように感じられました。
「あ、ダメを押されたな。だけど何で動物園がそんなに重要なんだ?」というのがその瞬間に思ったことです。
意味がよく解らなかったんです。
手がかりを探して、先ほども触れたブログ記事「〈いのち〉とは、何か――芝居・命を弄ぶ男ふたり、を観る」を読んでいました。
すると、「ところでなぜ、この作品と「3.11」とがむすびつけられうるのか、これから少し説明ておきたい。」という文に気づきました。
ここでいう「この作品」とは、岸田國士「命を弄ぶ男ふたり」のことです。
「そうか、この人(瀧本往人さん)は、「命を弄ぶ男ふたり」と3.11を結び付けたいのか」と思いました。
そして、「あっ」と思いました。
そういえば、そもそもこの「いのちもてあそぶひと」は3.11の時に意味と無意味のはざまで書かれたものだったじゃないか! と気づいたのです。

「この作品『いのちもてあそぶひと』はもともと3.11につながっている」

と考えてみようと思いました。
そうしたら、この「夜の動物園」の意味が浮かび上がってきたのです。


夜の動物園=異界=霊界?

私はあらためてもう一度、先ほど引用した学生1による夜の動物園の説明を読んでみました。

夜の動物園は、ただ夜を迎えた動物園ってことじゃなくて、そこには、昼には存在しない動物が走り回り、得体のしれない鳥が空を飛び、顔のない警備員が警備をし、姿の見えない人たちがアイスクリームを食べたりしているんです。きっと、それがたぶん、夜の動物園で、私たちが生きている間は、決して見てはいけないんです。だからたぶん、彼女は言うんです。死ぬ前に一度見てみたいって。
(上演台本p.28)

どうでしょう?
この夜の動物園の描写に似ている光景を見たことはありませんか?
私は、「千と千尋の神隠し」を思い出しました。
簡単のためウィキペディアから引用します。

10歳の少女・千尋(ちひろ)は、両親と共に引越し先へと向かう途中、森の中の奇妙なトンネルから通じる無人の街へ迷い込む。そこは、怪物のような姿の八百万の神々が住む世界で、人間が来てはならないところだった。
(ウィキペディア「千と千尋の神隠し」あらすじ より)

千と千尋の神隠しでは、主人公の千尋が迷い込んだ世界は「神々の世界」でした。
「人間が来てはならないところ」という言葉があります。
学生1による夜の動物園の説明「生きている間は、決して見てはいけない」と同じではありませんが、大筋の意味は符合していますね。
夜の動物園は神々の世界と似ているのです。
ところで、「神々の世界」は、私たち世界と奇妙なトンネルをとおしてつながっていました。
こうした神々の世界のような、私たちの(だと認識している)世界の外側にある世界を異界といいます。
夜の動物園も、こうした異界ではないかと私は思いました。
だから「神々の世界」と似ていたのです。
そして、もう少し踏み込んで考えてみると、「いのちもてあそぶひと」は死にたいと思っている人たちの物語ですから、夜の動物園は、私たちの世界と死をとおしてつながっている世界と言えるのではないかと思いました。
私たちと死をとおしてつながっている世界とは何でしょう?
それはすなわち、死後の世界・霊界です。
ウィキペディアの「異界」のページには、霊界についてこう書かれています。

死後の世界(すなわち本来の意味での異界)や、霊魂の世界などが霊界である。
(ウィキペディア「異界」 霊界 より)

異界の中でも本来の異界と言えるのが霊界だったのです。
結論を言います。
「夜の動物園」とは霊界です。
少なくとも霊界の入り口です。
私見です。

「いのちもてあそぶひと」脚本・演出は、なぜ夜の動物園という霊界を持ち出したのでしょうか?
私はこう思いました。
夜の動物園でアイスクリームを食べている人たちとは、3.11の津波で亡くなった人たち、原発事故が遠因で亡くなった人たちなのだと。
そう、学生2は、津波で亡くなった人たちが住んでいる夜の動物園、原発事故が遠因で亡くなった人たちが住んでいる夜の動物園に行こうと言っていたのです。
自分でもよくわからないまま、「3.11で亡くなった人たちに会いに行きたい」と訴えていたのです。
この着想のヒントになったのも、
やはり「〈いのち〉とは、何か――芝居・命を弄ぶ男ふたり、を観る」でした。
結び近くでこう語られています。

〈いのち〉とは、個人の命ではない。
まさしく「地」と「血」である。
―中略―
そう考えると、私たちが「3.11」(原発事故)に、なぜこんなにも、悲しみや憎しみ、そして絶望を抱いているのかが、はっきりとしてくる。
原発事故は、個人の命を直接奪うという意味ではなく、〈いのち〉を奪ったのだ。
そう考えると、この作品(*「命を弄ぶ男ふたり」のこと。引用者注)に登場する二人は、所詮、「自分の命」を自分がどうするかに思い悩んでいたにすぎない。
しかも「知性」を評価していたにもかかわらず、実はそれは「情緒的」であったのだ。
本当の「知性」とは、こうした〈いのち〉のことを思うことなのである。
(〈いのち〉とは、何か――芝居・命を弄ぶ男ふたり、を観る より)

ここで瀧本さんは、「命を弄ぶ男ふたり」で語られているのは個人の命であり、〈いのち〉ではなかったと言っています。
瀧本さんの真意とずれてしまうかもしれませんが、私は、〈いのち〉とは、3.11で亡くなられた私たちと地と血でつながっているすべての霊なのだと思いました。
そう思えたとき、夜の動物園とは3.11で亡くなられた方々がいる霊界なのだと腑に落ちたのです。
だからこそ、「いのちもてあそぶひと」の最後で、「行きますか?一緒に。夜の動物園に。」と、ダメ押しされなければならなかったのです。


演劇に意味はあるのか?

さて、最後のセリフまで来てしまったので、これで終わりにしようかと思いましたが、あとひとつ論点がありますので、もう少しお話しさせてください。
それは、「いのちもてあそぶひと」最終盤になって出てくる眼鏡の男の件です。
この男の設定は原作「命を弄ぶ男ふたり」と同じ、死にたいと思っている俳優です。
この眼鏡の男と包帯の男が、生き残った学生2の前で芝居をやるのです。
というか、芝居と現実が重なっているような芝居をするのです。
内容は、お互いに「どちらが先に死ぬのか」「お前が先に死ね」とかいう理屈をこねた議論です。
そうした死ぬとか死なないとか言いながら「これは芝居だ」などと断りを入れたりします。
私は、これは脚本・演出が入れた、「3.11を経験した後で演劇に意味はあるのか?」という問いかけなのだと思います。
上演台本から引用します。

眼鏡の男 どこがって、これは芝居だろ?駄目だよ、女子高生巻き込んだりしたらさ。
学生 2 芝居って・・・演劇?
眼鏡の男 そうだよ。
学生 2 だったら、ここで、観ていてはいけませんか。邪魔はしませんから。
眼鏡の男 でも、二人も死んでしまったし。
学生 2 人が死んでしまったら、芝居を観てはいけませんか。
(上演台本p.38)

人が死んでしまったら、芝居を観てはいけませんか? という問いかけが、ここでさらっと行われながら、話自体はテンポよく進んでいくので、私は観劇中にこの問いかけをスルーしてしまいました。
台本を読んで「おお、こんなセリフがあったんだ」と気がつきました。
目の前で人が死んだら、それがたとえ二人でも現実なら、ましてやそのうち一人が友人だったなら、とても芝居を観てる場合じゃないでしょう。
ましてや、死亡者が1万5千人以上、行方不明者2千5百人以上の大惨事のあとに、芝居を、演劇を、演ったり観たりしている場合でしょうか?
演劇に意味はあるんでしょうか?


いのちもてあそぶひと まとめ

演劇に意味があるのかどうか、それは、このレビューの始めの方で話した、

演劇に限らず、
芸術はもちろんすべての表現活動は、
難しいから、よくわからないからこそ表現するものだ

という表現論で考えるしかないと思います。
〈いのち〉を奪われた後で演劇に意味はあるのかなんて難しすぎます。
だからこそ、よくわからないからこそ、意味を求めて探求表現し、演劇するのではないでしょうか?

最後にもう一度、
〈いのち〉とは、何か――芝居・命を弄ぶ男ふたり、を観る」から引用します。

岸田がどのような考えでこの作品(*「命を弄ぶ男ふたり」のこと。引用者注)をつくったのか、私には全く知る由もない。
ただ、本作が書かれたのが、1925年、すなわち、関東大震災から2年後だったということから考えると、何か「個人の命」と「お国のために死ぬこと」、そして、さらに「生活」が根源から破壊されることに対して岸田は、何らかの批判的意識を抱いていたと言えるかもしれない。
〈いのち〉とは、何か――芝居・命を弄ぶ男ふたり、を観る より)

岸田國士も、
震災の経験を経て「命を弄ぶ男ふたり」を書いたんですね。
山田さんもそれを引き継ぎ同じことをした。
しかも、原作を踏まえつつ乗り越えて。

大きな仕事をなされたと感じました。



生命って何だろう? 生きるって何だろう?
谺(こだま)

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