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はじめてのnote

こんばんはこんにちはtomです。こうやってブログを書いてみるのは中学生依頼でしょうか?
アラサー世代なので、当時はヤフーブログを友人とこぞって書いていました。
これからnoteでは日々の気づきや自分の考えを脱力で書いていこうと思います。
20代も終わりそうなので、この場で簡単に自分を振り返りたいと思います。

幼少期~小学校時代

 おもちゃに囲まれながら幼少期を過ごす。父が買ってくれないおもちゃをよく祖父に買ってもらった記憶が特に強いです。例えば、当時流行っていた遊戯王は、2ボックスくらい買ってもらい、ひたすらレアカードの収集をしてました。(卑怯な同級生に度々盗まれることも)
他には墓場に葬りたい記憶ですが、小学校の時はよく粗相して、母にパンツを洗わせていました。今考えると、この時から他人への意思表示を渋る傾向があったのだと思います。それにしても母に迷惑をかけたバカ息子だなと反省しています。



中学時代


中学時代は部活に入るまではかなりの肥満児でした。理由は簡単、ゲームとポテチとお菓子を食べまくっていたからです。
当時の任天堂やソニーのゲームは日々進化していて、毎年面白いゲームが出てくるので、学校から帰ると宿題をほったらかして熱中していました。
中学はソフトテニス部に入りますが、中途半端にやっていたので、成績は振るわなかったですね。
スポーツと勉強も適当にやっていたので、高校受験も大変でした。
安全策として大学の附属高校になんとか推薦で入ることになります。

高校時代


今考えるとかなりもったいない過ごし方をしていた高校時代。なぜなら、帰宅部で陰キャという高校生の特権をはく奪した人間だったからです。
おしゃれや運動をしていれば、色々な楽しいこともあったり体験できたと思うのです。入学当初はバドミントン部に入りたいと思っていましたが、練習がきつすぎて入部しませんでした。
偶然高1の終わりに大好きな祖父が亡くなり、勉強のスイッチが入り、クラスでは上位の成績を残せています。
勉強とゲームばかりで、恋愛がまったくダメだったのはもったいないと今でも反省です。
当時は過去のいじめの影響で女性恐怖症だったので、話しかけることすら出来ませんでした。
片思いの人には卒業まで何も言えずにいました。後悔したくないので、その後連絡を取って会うことになりました。

大学時代

付属高校なので、大学の文系で1番偏差値の高い学部に入学できました。片思いに子に連絡を取って何回かデートを重ねます。その後その子が人生初の彼女に。しかし、よくドタキャンやありえない程の遅刻をする人間だと発覚。耐えきれずに別れることに。
大学デビューは何かサークルに入るべきだと思い、軽音サークルに入部(槍サーっぽい)。ギターをやればモテると勘違いしていた結果、まったくモテることが無く、気づけば幽霊部員に。
サークルで女性が、好意的に話しかけてくれたことは今でも感謝しています。
軽音以外に大規模音楽サークルに入っていて、他大との交流がありました。こんなに容姿端麗な人がいるのかと、思い知った田舎育ちの青年はある行動に出ます。
音楽サークル内で彼女を作ろうとしたのです。口下手でファッションに疎い男は何回も玉砕します。
当たり前です。都会の人間に勝つには面白い人間になるしかないのです。
押しが弱い田舎男は何度もチャンスを逃し、大人のお店デビューをします。
彼女が出来ないから仕方ない。そう言い聞かせながら何度も経験していました。
これらの経験から女性への憎悪や嫌悪感が育ってくるようになります。
ゼミナールの選考は全部落ちて、売れ残りの知財ゼミに入ることに。
選考さえ受かっていれば、就活も簡単に出来たと後悔しています。
サークルの人脈を最大限に使えていなかったのが敗因でした。
単位も順調にとって、卒論も提出して4年で大学を卒業します。
今考えれば海外留学をして5年で卒業してもよかったのかなとも思います。
大学時代に留学していなかったことにより、その後階段から転げ落ちる人生を歩むことになります。

社会人

就活は難航し、ESが落ちまくる日々を過ごしていました。第一候補の地銀も落とされ、途方に暮れていた時にとある証券会社から面接希望がありました。
思ったよりスムーズにいき、内定までいただけることに。私は一刻も早く就活を止めたかったので、何も考えずに入社を決めました。
内定後は最後のあがきでカナダに2週間語学留学をします。この留学で、のちの人生が狂い始めます。
入社式が終わり、現場に向かうとそこは戦場と化していました。手数料で食べているので、目に見える目標設定があります。毎回配属された支店は下位で、社員の士気も低かったので、この業界でのやる気も日々削がれていきました。
ぼんやりと仕事をしているとカナダ留学の情景が浮かんできます。
これからは英語の時代だからいっそのこと離職しよう。入社1年後のことでした。

離職から現在


わずか1年で辞表を出して単身オーストラリアに入学。理由は治安が良く、日本に近い理由。
多民族国家なので、日本で出会ったことのない人々と交流ができて毎日楽しかったですね。
留学したからには何か資格をということで、ケンブリッジ検定というものを受験。目標は下から2番目のレベルでしたが、遊び過ぎて初級しか受からなかったのはがっかりです。
難易度の高いクラスまで受験しましたが、英語の壁を感じてやる気を失ってしまいました。
そんな中、周りに台湾人の友達が多かったので、台湾の留学も楽しそうだと心の中で思っていました。
後悔してはいけないと思い、オーストラリアに戻る予定を変更し、台湾に留学。

1回目の台湾留学


あえて日本人が少ない高雄という都市で1年ワーホリをしていました。
学校に行きながら、現地のかき氷店でのバイトは新鮮でしたよ。
ネイティブが話す中国語と、学校で学ぶ言葉に乖離があったことに驚いたことを今でも覚えています。
ワーホリ期間が終わり、その後ブロガーになるために日々ブログを書いていましたが、まったく稼げず再度台湾に行くことを決意します。
このまま日本にいるとただのおかしな人になってしまうので。

2回目の台湾留学

高雄は暑すぎるので台北に語学留学をしていました。クラス分けでは中級からのスタートでしたが、台北なので、日本人は多めでした。
緊張感のあるテストを乗り越えながら、ビジネス中国語クラスまで上り詰めました。
中国語も同じで、一定の難易度に達すると、どうしても超えられない壁があります。
その壁にぶち当たり、また中国語のやる気も徐々に削がれていきます。
英語、中国語で上級レベルであれば十分、という自己満で現状維持モードに切り替えを始めました。

帰国~現在

帰国してから宅建を受けて人生逆転を狙っていました。しかし地頭が悪い人間には3か月は足りず不合格。
この時から自己肯定感が大幅に減り始めます。
その後転職活動を始めるも60社以上受からず。面接をしても1次で落とされるを6回以上繰り返しています。
ここまで来ると人間は鬱に近い状況になり、「社会に自分は必要ない、自分の変わりは他にいる、なぜこの世に生まれてきたのか」などと考えるようになります。
仕事を選ばなければ確かに職は溢れています。しかし、留学した経験を無駄にはしたくない自我があります。
とにかく今はかなり自己肯定感が下がりまくっています。
希望も未来もないような感覚に嫌気がさします。
だからこうやって文字を書いて気分を発散しています。
明日も職を探します。所詮不完全な人間でもどこか引っかかる会社はあると思うので、あきらめません。


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