教育改革を改革する②

(①の続きです)

文科省や教育委員会から「流星群のように」教育改革が降ってきています。では、文科省など教育行政はいったい何を考え、どのように施策を決めているのか、そして教育行政はどうあるべきか、というところを寺田さんは触れています。

教育行政は、マクロレベルの知見と、現場主義によって得られるミクロレベルでの個々のエビデンスの位置付けと、そこから得られる含意を基に仮説を立て、実践改善に向けた検証を行わなければならないもの。そんなことができる能力のある人はいません。
だからこそ、「協働的」である必要があるのです。教育の複雑さとダイナミックさを認識し、自らの能力の限界も認めた上で、自分ひとりでの判断は極力留保し、様々な専門性を持った人々と協働する。教育行政官は、この、いわば教育オーケストラの「指揮者」にならなくてはならないのです。

「教育改革」は、教育行政によるトップダウンの改革です。二つのポイントがあると寺田さんは言います。
①具体的な生徒ではなく、抽象的・一般的な生徒を念頭に置いて改革をデザインする。
②改革の原動力は「アカウンタビリティ」(説明責任』である。予算支出が適正であったか説明が求められる。予算は単年度主義。量的・短期的な成果が求められる。

「教育改革」というのは、現在の、そしてこれまでの学校教育を否定することから始まりがちです。
「学校教育は失敗だ。」「現在の学校教育は、社会のニーズに合致していない。」「社会にも課題がたくさんあるが、それらを作ってしまった原因も学校教育にある。」「だから社会変革を起こすためにも、学校教育を変えなくてはならない。」こんな言葉がよく聞こえてきます。これが改革派の基本的なレトリックです。
教師側からすれば、「あなたは失敗作です。その上、失敗作をさらに生み出すことに加担する、加害者でもあります」と言われていることになります。生徒として、そして教師として、自身の人生を否定されていることになってしまい、受け入れるのは、これまでの人生を完全に否定するということになり、かなり苦しいことです。

そして、教育改革を推し進めようとする人も、結局、これまでの自分の人生に基づいて、「学校教育が不甲斐ないにも関わらず、自分は自分で努力して、社会の中で成功してきた。この自分の成功体験を、これからの子どもたちに広げていきたい」と主張しているのです。
つまり教師も、教育改革者も根底にあるのは「自分自身のこれまでの人生を否定したくない」という思いなのです。

「教育改革」の主張が世論の追い風を受ける中では、「教師の主張は間違っている」「教育改革者の主張は正しい」と単純に見られがちです。しかし、実際には論拠は両者同じなのです。
もちろん、学校教育が変わるべき点は山ほどあります。ですが、教育改革を巡る議論というのは、「片方が正しくて片方が誤り」というシンプルなものではなくて、「人生観」を含む議論なので、どっちも同じぐらいの正当性を持っていて、言い換えれば、教育の舵取りを任せるには、どちらの側にも同じぐらいの危険性があるということなのです。
そうであるならばどうすればよいか、というところが問題になります。
(多分続きます)

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